冬の砦

冬の砦―長編サスペンス

冬の砦―長編サスペンス

「冬の砦」香納諒一(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、ハードボイルド、横浜、私立高校


勤務中、犯罪を犯した少年に拳銃を向け、脅かしたという偽証の告発で奥多摩の警察を懲戒免職になった私、桜木晃嗣32歳。地元では署名運動が行なわれていると聞くが、当面の私には行き場がなかった。そんな私を学生時代の友人村主優太が横浜郊外にある村主学園に雇ってくれたのは、優太の年齢の離れた兄一良太が村主学園の理事長を務めていたからである。柔道部のコーチ兼用務員の手伝いをするようになって半年、私は毎朝一番に出勤をして、学園内を走ることを日課としていた。凍てつく冬の朝、日課をこなしていた私は校庭の片隅で一人の全裸の女子生徒の遺体を発見した。遺体は、優太の姉金山富江の娘佳奈であり、彼女はまた学園に通う生徒であった。現場保存の原則からすればとんでもないことをしたと誹りを受けるかもしれないが、私は彼女の遺体に自分の着ていたトレーニングウェアをかけずにはおれなかった。


つい最近色とりどりの食材でてんこ盛りのデラックス定食のように、ぼくとしては胸焼けをおこしてしまった「贄の夜会」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/44845628.html ]を読ませてもらったばかりの香納諒一。ここ数年、その名前を見かけないと思ったら、ここにきて矢継ぎ早に作品を出してきた。「贄の夜会」、本作、「夜よ泣かないで」そして「ガリレオの小部屋」と、立て続けに四冊。いったいどうしたのだろう?過去、安心して読んできた読者にとっては嬉しいような、しかし「贄の夜会」のように期待を充たしてくれないなら、ちょっとがっかりのような複雑な気持ち。粗製濫造なら困ってしまう。


さて、先の「贄の夜会」を評した際「古臭いミステリー」と評したが、本作もまた「古臭いミステリー」。ただ「贄の夜会」に比べると、本作はぼくの知っている、あるいは期待していた香納諒一の文章であり、物語であり、読みやすかった。作品自体の評価は後述するが、本作も正統派の「古臭いミステリー」あるいは「古臭いハードボイルド」であり、そしてそれはやはりいまどきのものではない。しかし事物を坦々と描写する主人公の語り口、それは男の小説の文体であり、ぼくには好ましいものであった。
もっともそれは読みやすさという問題を評価した場合である。この作品の32歳という若さの主人公がこの口調、この文体を使うことが合っているかどうかは別の問題。高校時代の教師だった年上の女性との、10年前の当時彼が大学を卒業するころのエピソードを絡めるにおいて、計算上この年齢になってしまうことは理解できる。しかし果たして32歳の若さの男性がここまで老成したように、諦念の感情で訥々と語ることができるのだろうか。32歳でなく、40歳を越えるような「大人の男」なら違和感なく読めたかもしれない。しかし、いまどきの32歳は決してこれほどの大人にはなりきれていないと思うのだが、どうだろう。ふと、主人公の年齢を思うと違和感を拭えなかった。


そして読後感はといえば、正直に語ればちょっとがっかりした。それはまず主人公が気付くこの少女の死因とそこに隠されたある行為にあった。そこに確たる物的証拠があるわけでないのだが、主人公は以前勤務していた新宿署での経験より、少女の死因はもとより隠された行為さえ見出してしまう。死に至る物理的な部分の推理もどこかで聞いたような、まさに「トリック」であり、その推理を補強するための「埃がそこだけ残っていない」という描写も正直古臭い。いまどきの小説で、使い古されたような論理をこねくり回すようなトリックを持ち出されても興ざめだ。あぁ、なるほど本格が廃れていく訳だ。そして一番気に入らなかったのは、そのことを明らかにすることが必要だとは思えない少女の隠された行為をあからさまにすること。近親憎悪たる血の繋がる「女」である母親への、思春期の少女の複雑な感情の存在を作家が表現したいということは理解できる。しかしその少女の感情を描くことが本当にこの作品に必要だったのか、ぼくにわからない。遺体となった少女の顔が見えない作品で、少女の感情だけ持ち出されて説明されても、成程と納得すはするが、それだけだ。説明の収まりは悪くない。しかし物語という観点からするともう少しこの少女を描いてほしかったのかもしれない。
それは作品全般に感じる。10年前の家庭内暴力からの避難施設(シェルター)での惨劇の記憶を共有する少年、少女たち。それぞれの経緯より、10年を経て学園に集う彼らの生活は語られるが、その人間、顔まで見えてこない。あたかも古臭い小説の登場人物たちのようなわかりやすい設定。不良になった青年。学園で真面目な好青年を演じる青年。風俗で働く少女。学園長の養女となり、頑なにバイオリンを弾く少女。同じ経験、心の傷を持った少年少女が集う。さらに主人公がかって愛を語った年上の女性まで登場し、再会を果たす。この作品のよさが、それらのことを劇的に描くのでなく坦々と描くところにあるのは確かなのだが、しかしやはりどこか「お話し」めいている。あぁ、そうか。ぼくには「贄の夜会」にも感じたこの作家の書く物語の都合のよさが気になるのだ。同じ作家が、同時期に出版された少年、少女の持つ暗闇をえぐるふたつの作品は、しかし本当に現実の少年少女の姿を映しているように思えないのだ。あたかもドラマの設定のようにピタリと嵌る登場人物。坦々と抑えた気持ちいい文章ではあるが、物語が稚拙に思えるのだ。それは例えば少女の日記に現れる事件の鍵を握る人物のイニシャルの問題にも現れる。いや、こんな日記をいまどきの少女が残すことさえ違和感を禁じえない。とにかくひとことで言えば、やはり「古臭い」。
志水辰夫が「うしろ姿」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/32888977.html ]で自分の作品を「過去」のものとしたことがふと思い出された。あるいは樋口有介がここ一、二年発表している小説がかっての「樋口有介らしさ」を見せない作品であることを思い出した。作家のスタイルは人それぞれで、勿論構わない。しかし「古臭い」ことが決して長所であるとは言えない作品とはどうなのだろう。
いや、ぼくはそれでもこの作品は嫌いなのではない。この雰囲気、匂い、そうこのあくまでもネオ・ハードボイルドではない、ハードボイルドとしての作品を好ましく思うのだ。それがゆえに、この物語の稚拙さ、あるいは古臭さが残念で仕方ない。もしかしたらハードボイルドとはもはや古臭い物語でしか語れないものなのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、もう少し唸らせてほしいとわがままな読者は思うのだ。


物語は少女の遺体の発見から、一見平和に見えた学園を取り巻くさまざまな事件が浮き彫りにされる。ある教師たちの不倫や、生徒の売春を密告する怪文書、あるいは学園の用地買収に絡む理事会内部の軋轢。理事長である村主一良太の依頼により、調査をはじめた私は自分の気づかぬうちに学園で起こっていた事件を知る。
そして10年前に起こった家庭内暴力からの避難施設(シェルター)での惨劇を共有するこどもたちの存在。学園を通し、あるいは彼らを通し、私がまだ少年であったころ最愛の女性と信じた女性と再会する私。彼女は10年経っても、変わらないままだった。ならばなぜあのとき姿を消したのか。
学園を舞台にして起きていた脅迫事件は殺人事件に発展する。人があっけなく殺される様子を見てしまう私。そして大人たちへの復讐を誓うこどもたちは思い出の廃墟となった遊園地で、事件を起こす。あるいは私に明かされる学園に隠された秘密の真相。
ほろ苦く、やるせない物語の行き着く先は、どこなだろう。


大人の、男の、物語である。先に述べたように問題点はいろいろとある。それゆえに高い評価は避ける。しかし、この作品、決して嫌いではない。こういう古臭い作品も、たまにはよい。そう思える人にはオススメかもしれない。


蛇足:作品に扱われる、廃園となった遊園地はぼくの自宅のそばで、車で10分くらいの距離にある。作品を読み、思わずその場を訪れた。そこには綺麗に整備された建設途中の公園と、新しい薬科大学が建っていた。廃墟は、いつまでもそこにあるわけではない。
また廃墟がなくなっていたことが、なんともこの作品に似合う気がした。
蛇足2:数少ないネットの書評では、この作品は概ね好評である。またもやぼくはへそ曲がりであるようだ・

生きてるだけで、愛。

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「生きてるだけで、愛。」本谷有希子(2006)☆☆☆★★
※[913]国内、現代、小説、文学、メンヘル(精神病)


ああ、これはダメだ。どうにも受け付けない。終り。
・・・では、あっけなさすぎるだろうか。


ぼくは人の多様性は認める。すべての人が同じ方向に向いてしまうなんて恐ろしすぎる。しかし「多様性」を認めることと、「多様の人」を認めることは別だ。メンタルヘルスメンヘル)の人たち(精神病の人たち)の存在は認める。そして、かっての時代と違い、そういうことを以前よりは負の要素として隠さないで生きていける現代という社会もよいことだと思う。でも、それとは別にこの作品の女性主人公のように自己中心的な人間はダメだ。メンヘルが問題だというのではない。他人を思いやる気持ちを持てず、自分中心的な視点で、自分以外に文句を言っているような態度がダメなのだ。いや、作品で主人公も自分が人と違うとか、どうしようもないとかいうことは言葉にしている。しかしそれは内側に向かうだけで、外側に変革しようとしない。そういうことが受け付けられないのだ。


この作品の主人公は欝で部屋に閉じこもり、何もできずただ過眠を過ごす二十五歳の女性。同棲している恋人の部屋の物置にしている狭い部屋に二十日間以上篭っている。おなかが空けば弁当を買いに行くが、そのほかは部屋で寝て過ごす。今日は十七時間以上寝てしまった。合コンで知り合いそのまま付き合い、一緒に暮らし三年経つ同棲相手は、そんな彼女に自然体で声をかけてくる。しかし、その行動のひとつひとつが彼女には気に入らない。
そんなある日、同棲相手の元恋人が現れ、女主人公以上に自分勝手な言動を吐き、行動を起す。彼は本当は私とやり直したいはず、あなたに別れを言い出さないのは彼の優しさで、自分から身をひくべきだ。執拗にドアのチャイムをならし、主人公を連れ出し、訴える女。
そしてその女の言うがままに、元ヤンキー夫婦の経営するイタリア料理店でバイトをする羽目になった主人公は・・。


同棲相手の元恋人の(健常人である)女に振り回される主人公と同化して作品を読んでいると、主人公の自分勝手さを一瞬忘れてしまう。いや嘘だ、やはり忘れられない。彼女が欝ということいに甘えているとは言わない。ただ認めてくれる人が居るということで、自分に甘えている、ぼくにはそう思える。
いや違うんだよ、これがメンヘルであり欝なんだ、それを追い詰めるのでなく、解ってほしい。そういうこともわからないわけではない。でもそれはきっとメンヘルに限らないこと。自分を解って欲しい、理解して欲しい、それは人としての根源の願い。だから頭では理解できる、しかしなんだかやはり最近、巷で見かける「メンヘル」「メンヘラー」の言葉には居心地の悪さを覚えてしまう。弱者が、弱者を振りかざしているように見えるのだ。私は弱者だ、だから許してほしい、と。それはまさにこの作品で描かれる彼らのネットでの書き込みに現れる。その自分勝手な思い込みの世界は、決してメンヘルの人に限らないことだと思うのだが、それが「メンヘル」を振りかざすことで許されるように思っているように思えてならない。そしてまさにこの作品にはそのこと感じたのだ。自分の欝を自覚し、ネットの掲示板に仲間を見つけ書き込みをしながら、そこにいる人間が自分に同意している間は同じ仲間だと思い安心しているが、心の底では自分とは違うと思っている。同棲する恋人に無理難題を言い募る。欝であることを知りつつ主人公をバイトとして雇い、「ガッキー」と呼び、その家族家全員で暖かく受け入れるバイト先のオーナー家族に対し、裏切るような行動をとる。
人の心を裏切るような行動を、メンヘルだから許してしまったいいのだろうか。ぼくには、そこのところを理解できない。この物語は結局は何ものを求めない、同棲している恋人の無償の愛によって収束する。主人公を受け入れ、認める存在があればこそ成立する物語。


認めることから始まる。愛は許すこと、無償のもの。そのことは深く理解する。でも、彼らがそのことに甘えるのだとしたら、ぼくはやはり不快だ。理解はしたい、外から見えない辛さがあることも理解する。戦おうとすることが、治癒を遅らせることも頭では知っている。ならばぼくは、何が欲しいのか。


人を裏切るようなことはしてはいけない。自分の病気を認めることと、自己憐憫をすることは違う。そういうことなのだ。病気にかかったことで何でも許される特別な人間になるわけではない。


もしかしたらぼくは全然メンヘルのことやメンヘラーを理解してないのかもしれない。彼らにとっても、それは当たり前のことなのかもしれない。理解はしていても、心がついていかない。それが故に自嘲的なふるまってしまうしかないだけなのかもしれない。しかし、だとしても・・とぼくは思うのだ。


この作品だけで、彼らを理解したり、知ろう、いや、知ったというつもりは勿論ない。しかし、この作品を読んでぼくはどうしても不快感を覚えざるを得なかった。それはやはり、バイト先のイタリア料理店の家族の、色眼鏡をかけない受容に対して、主人公が結果的にとった振る舞いが故なのかもしれない。
恋人が彼女を認めることは、惚れてしまえばアバタもエクボであり、どうでもよい。


そういう意味で併録の「あの明け方に」はまさに、メンヘルの女性とその恋人の物語。自分勝手な主人公と、それを受容する恋人という構図が表題作と同じ作品であるが、よほど気持ちよく読めた。


と、拉致もないことをつらつらと綴ったこのレビューをどうしようと逡巡しているところに、大学のサークルの後輩の訃報が届いた。まさにメンヘルであった彼は、やはり大学のサークルの後輩であったぼくの家人と同級生で、親しくしていた。理解をしようと思いながら、家人から聞く「頭痛さえなければなぁ」と言いながら、語ったという近況を聞きながら、やはり理解しにくかった。同じサークルであれだけ快活に過ごしていた彼が、そんな風になっていることは、ぼくには情報として知るに留まっていた。家人ら、親しかった同級生たちに届いた彼の家族からの「心不全」の言葉の裏には何があるのだろう。二十代のはじめから、三十九歳までのその期間、彼は何を思い、どのように生きていたのだろうか。


彼らを認めないわけではない。ただ、彼らのすべてを認めたいわけでもない。それは彼らが「メンヘル」であるからでなく、いわゆる健常人であれ、認めたくない人間もいるということだ。伝わるだろうか?


蛇足:あぁ、ぼくも相田みつをの氾濫はダメ。解りやすすぎる。
同じように解りやすい言葉を使いながら、深さや広がりを感じさせる詩人、八木重吉を知らしめたい。

星と半月の海

星と半月の海

星と半月の海

「星と半月の海」川端裕人(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、短編、自然、科学、生き物


それがこどもであれ大人であれ、男の子をとても生き生きと描く作家、川端裕人。彼をぼくはそう評してきた。そしてその一方で、作家となる前TV局の科学記者を経たという経歴のなかで常に科学に対し真摯に向き合う彼の姿勢を評価してきた。そんな彼が今回上梓したのは、「動物」をテーマにした短編集。
「みっともないけど本物のペンギン」「星と半月の海」「ティラノサウルスの名前」「世界樹の上から」「パンダが街にやってくる」「墓のなかに生きている」六編からなる。


正直に言えば、ぼくは動物に対し、それほどの興味を覚えない。犬や、猫の物語を愛す読者家諸氏と比べて、その類の作品はあまり楽しめない。川端裕人の新刊が出たというニュースを聞きつつも、あまり心が躍らなかったのも事実だ。
しかし、川端裕人はやはり川端裕人であった。動物をテーマにした作品たちであっても、いやそうだからこそか、科学に対し真摯に向き合う姿勢は変わらず、そしてまたそれが非常に好ましい一冊であった。正直、観念的でわかりにくい作品がなかったといえないわけではない。いや、わからなかった作品もある。生命の広がりというものの雰囲気をのみ味わったような作品も幾つかあった。一回読んだだけで、そのすべてを理解する(わかる)、あるいは理解しよう(わかろう)とすることが馴染まない作品なのかもしれない。


作品はそれぞれ単独の短編であるが、一部の作品では登場人物が重なる。「みっともないけど本物のペンギン」「パンダが街にやってくる」では某動物園の飼育係を勤める主人公「ぼく」と、その高校時代からの友人で動物園の近隣にある自然史博物館に務める蝦根貴明が登場する。蝦根は「墓のなかに生きている」では主人公を務める。あるいは「ティラノサウルスの名前」で主人公を務める、博物館の主任研究員である野火止誠と、その息子竜太郎(リュウ)と思われる親子は「世界樹の上から」にも登場する。しかしそれらのつながりはそれほど強いものでない。そのことに気づくと少し気持ちよいが、それぞれの作品はひとつひとつの短編として独立している。一冊の作品というより、それぞれの短編で評価すべきなのだろう。


個人的には「パンダが街にやってくる」が一番好きだ。「きみは」で始まる二人称の文体、動物園に勤めながら、野生のパンダに思いを馳せる主人公。そしてこどものころから、野生のパンダに親しんできた同僚の中国人の飼育係。政治の思惑のなかのひとつの駒とされる愛玩動物としてのパンダに対し、その野生を想像する主人公。もし現代の日本の街にパンダがひょっこり現れたら。その可愛らしい姿の下に秘める、荒々しい野生の肉体。そして最後に彼が喰らう、野生を象徴するもの。
パンダが街を実際に闊歩するかどうかということはどうでもよい。愛玩動物として一般的に愛されるパンダという動物の「野生」に焦点を当てる川端裕人という作家の姿勢が好ましかった。


「みっともないけど本物のペンギン」。「パンダが街に〜」とともに、本書のなかでは分かりやすい作品なのかもしれない。絶滅した本物のペンギン、オオウミガラスを巡る物語。19世紀には絶滅したと信じられていた、北大西洋を生息地にしていた、そのみっともない生き物が、日本に、それも20世紀半ばまでいたのかもしれない。北海道に足を運び、あるいはペンギンマニアから情報を辿り、主人公が最後に辿り着くものは。
絶滅した動物に思いを馳せる主人公の思いは、流行の自然保護ではなく、あくまでも科学的知的興味のそれでしかない。動物が可愛そうだからと声高に自然保護を訴えることとは違う、興味の対象としての生き物の喪失に、乾いた哀しみが漂う。


「星と半月の海」動物と心が通うと信じる獣医リョウコ。たしかに彼女はほかの人間と違い、動物たちと心を通わせているかのように動物をうまくあしらっていた。しかしジンベイザメだけは違った。まったく心が通わない巨大な生き物。そしてまたリョウコは高校生に入学すると半年で退学してしまった娘ともうまく心を通わせることができないでいた。日本を離れ、オーストラリアで行なう共同研究のなかで、ジンベイザメ、そして娘と心を通わせることができたリョウコ。しかし、それはとても微かなものであった。
ぼくは人間と異なる精神を持つ「モノ」と、人間の関わる物語が好きだ。人間の常識では理解できないような意思。そういうものに対峙したとき、人はどのように行動するのだろうか。人間としての常識を押し通すのではない、違うモノを認める、そういう物語が好きだ。逆に冒頭に書いたとおり、動物が人間と同じ精神構造を持ち理解しあうという物語はあまり好きではない。人間という存在が、別なる生命に己の常識を振りかざしているような、そんな不遜さを覚える。そういう意味でこのジンベイザメと心を通わせられないというシチュエーションは嫌いではない。そして、ほんの微かではあるがどこか解りあえる部分があるということもまたよしとする。
ただ娘との話を重ねるのは、ちょっとありがちな気がする。


ティラノサウルスの名前」博物館の研究者である主人公は、「恐竜」ではなく、恐竜時代に生きていた生物コリストデラ類を研究する。若い研究者が恐竜を話題にし、それが好きだという姿を見て、少し違うのではないかと思っている。そんな彼のもとに「ティラノサウルス」という名前が使えなくなるとメールが届く。小学校三年生の息子と訪れた夜の博物館で起きる出来事。恐竜好きだった自分のこども時代を思い出す主人公。そして、やはり自分も恐竜に魅せられていることに気づく。
丁度、苦労してこの川端裕人の「竜とわれらの時代」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/44791657.html の再読レビューを書き終わったところだっただけに、ちょっと期待をした恐竜を巡る物語。残念ながら、それほど明快な作品ではなかった。結局、何を言いたいのかを掴みきれなかった。ただ川端裕人という作家がいかに古生物を好きなのかということは伝わる。
ところで作品タイトルになったティラノサウルスの「名前」について、この作品は何を訴えようとしているのだろう。ぼくには、その先を見つめる研究者たる主人公にとって、名前自体はあまり拘りを持っているようには読み取れなかったのだが、いかがなものか。


そして残るふたつの作品、「世界樹の上から」「墓の中」はちょっと観念的に過ぎるか。もう少し解りやすいとよい。はたまた読み手であるぼくが、もっとじっくり読むべきなのか。


この作品も万人にオススメと言えるほどの強さのある作品ではないのかもしれない。しかし、この真摯な作家の姿勢は毎度のことながら望ましく思える。男の子を描く作家としての川端裕人でない、科学作家としての川端博人の魅力に改めて触れることができる作品。川端裕人が好きなら、そしてまたこの作品が好きだと思えるなら、ぼくは先に触れた彼の「竜とわれらの時代」を改めてオススメしたい。少しとっつきにくい部分もあるが、素敵な物語なのだ。

削除ボーイズ0326

削除ボーイズ0326

削除ボーイズ0326

「削除ボーイズ0326」方波見大志(2006)☆☆☆★★
※[913]、現代、小説、タイムパラドックス、SF、児童文学、YA、第一回ポプラ社小説大賞


まず、ぼくはいわゆるタイムマシンものやタイムパラドックスものがあまり好きではない。タイムパラドックスという問題は、よほど巧く書いてもらわない限り、作家の都合のよい物語に終わるからだ。そこは「物語」として楽しめばよいのだろうが、根が偏屈なので、納得できないと楽しめない。そういう意味で映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、その最後が過去の行いによって未来(主人公の現代)が変わってしまったという点がダメであった。このジャンルの本はあまり手を出さない。最近では「戦国自衛隊1549」(福井晴敏)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/10008723.html ]を一年半前に読んだきりか。「戦国自衛隊1549」はタイムパラドックスを起さないための物語であり、「歴史」の大いなる意志(のようなものが)パラドックスを抑えようと働くことなどで、破綻や作家の都合のよさをそれほど感じなく、割とおもしろく読めた一冊であった。


さて本作品、児童書の出版社として有名なポプラ社が行なった文学賞「第一回ポプラ社小説大賞」の受賞作。以前より語っているようにぼくは、いわゆる文学賞にそれほど敬意を表しているわけでもなく、また「ポプラ社小説大賞」という賞自体、どこを目指す文学賞なのかも知らない。ただこの作品を読むきっかけにはなったのかもしれない。
本書を読み終わったあと調べてみると「ポプラ社小説大賞は、大人の読者に向けた本のさらなる展開として、新しい才能を支援し、ともに育つための文学賞です」らしい。少子化進む状況のなか、ポプラ社は児童書出版社からの脱却を図ったのだろうか。しかし残念なことにというべきか、幸運なことにというべきか、それを知らずに読んだ本書は、決して「大人向けの」小説ではなく、いわゆるYA(ヤングアダルト)向けの作品だとぼくは感じた。受賞賞金2,000万円は文学賞史上最高額だそう。賞金額に見合う力がある作品であったかどうかは別として、いい意味でこの作品はポプラ社という出版社に似合う作品であった。賞の設立の狙いは別として、手に取る前に思っていたより断然よい作品であった。勿論、欠点は多々あれど、ではある。
少年に、あるいは青年に成長していくなかで、能天気に無邪気だけではいられなく、ほろ苦い思いや、経験を経なければならない、そうした味わいををこの作品は持っている。それは、まさにYA(ヤングアダルト)というジャンルが生まれ、確立した正当な位置、地位に即したものであろう。この作品はまさに正統派YA作品と言っても差し支えない。そしてそれはタイムパラドックスを扱いながらも、ある程度粗くてもそれが許される土壌としての児童書ジャンルのひとつでもある。勿論、このジャンルにありて、なお読者として許すことのできるだけの必要な描写はされている。しかしこれがもし「大人向け」の作品であるとするならば、たぶん読み方は変わる。もう少し欲しい、と。作品は単独で評価されるべきである。それは常々ぼくが語ってきた言葉。しかし明らかに読者対象を意識し、読む本もあるのだろうか、このレビューを書きながらふとそう思った。


もしあなたが、過去のある時間を削除することができるのならどうしますか?
この作品の書くテーマは、そのタイトルどおり過去を削除すること。


主人公の少年グッチこと川口直都は、ある日、ある事件をきっかけとして、過去を削除できる機械を手に入れた。フリーマーケットで謎のおじさんに手渡されたデジカメにも似たその機械は、まずカメラのように枠内に時間を削除したい対象の姿を捉えシャッターを押し、削除したい時間の設定をする。さらに対象自身にボタンを押させることで、その対象の設定された時間から五分間を削除することができると説明書に書かれていた。
もちろん彼とてそれが本当のことだと信じたわけではない。四つ上のひきこもりの兄、圭に相談したかったのだ。しかし兄には、小学6年生にもなってそんな嘘を信じるのかと言われた。グッチの家は、真面目なことが取り柄だと思っていた父親がある日、失踪し、美容院を経営する母親が生計を支えている。私立の学校に通っていた優秀な兄は9ケ月前からひきこもりとなっていた。それは主人公グッチの友人である運動神経抜群、クラスのリーダーであったハルが、車椅子を使わざるを得なくなってしまった事故に関わってしまったことによるものなのかもしれない。妹のマユと莫迦な話をして明るい家庭を演じるグッチ。しかしその明るいマユも一人ではひきこもりの兄を避ける。
深爪をした際、削除装置を使ってみたグッチはそれが本当に削除装置であることに気付いた。兄の手に入れたデジカメを欲しがる妹マユの行動で、削除装置は床に落ち、少しひびがはいる。とりあえず動くようだが、もしかしたら少し壊れたかもしれない。


物語は、削除装置を手に入れた少年グッチの視点で進む。グッチの親友ハルは、グッチの兄も関わる事件で、車椅子の生活を余儀なくさせられるようになっていた。それまでクラスのリーダーで、いつも仲間の中心にいたハルは、しかしその事件を通し、あるいは両足が動かなくなったことにより、内省をみせる少年となっていた。以前のハルとは変わった。そしてそんなハルに対する周囲の対応も明らかに以前とは変わった。スポーツ万能でクラスの中心にいた少年が、車椅子の生活となったとき、友人と思っていた人間たちの反応も変わった。そうしたなか、グッチはハルの親友としていつも一緒にいた。そして事件以降もハルに偏見の目を持たず側に居続けたコタケ。車椅子のハルを中心にした三人組だった。
クラスでは「社長の息子」を鼻にかけ、それがゆえに以前はハルにいじめられた種村という少年の地位があがってきた。狡猾にクラスでの自分の地位をあげていく種村。彼の発案で行なわれた肝だめしが事件の発端だったともいえるかもしれない。そしてコタケもぼくらから離れていった。削除装置を調べているうちに、それが説明書の五分間より短い時間3分26秒しか削除できないことを知るグッチ。そしてまた削除された時間の記憶も違和感に気付きさえすれば取り戻すことができることを知った。
ウサギ小屋の事件。削除装置を使い、死んだウサギを生き返らせようとするグッチを止める車椅子のハル。「死んだものを生き返らせてはいけない」死んだウサギはそのままでは生き返らなかった。しかし問題の根源にあった時間を削除することで、ウサギが死ぬような事件自体がなくなった。時間の流れが変わったのだ。しかしそれでもぼくらの生活は変わらなかった。
肝試しをきっかけに、いや削除装置を手に入れる事件をきっかけに、グッチたち三人組にクラスで浮いていた女の子、浮石が仲間に加わった。色々な噂のあった浮石だったが、実際に話してみると、無責任な噂と違いずいぶん不器用な女の子だった。
そして浮石の姉が、ある日グッチの兄を訪ねてきた。同じ私立学校の後輩だという彼女の登場をきっかけとして、ハルを車椅子生活に導いた事件の謎が浮かび上がる。そして自宅の屋根から飛び降りる兄、圭。兄を助けようと削除装置を使ったグッチの行動が巻き起こすタイムパラドックス。嫌ないじめられっこ、種村をいじめていたのは誰?あるいは自分が始めたいたずらの責任を取らず、友人を置き去りにしようとしたのは誰?残酷なまでに自己中心的な少年たちと、そのなかで適切な位置をもとめてコウモリのように行動する主人公。彼らはどこから間違えていたのだろうか・・。そして作品の冒頭につながるラストシーン。物語はどこに進むのだろう。そしてそれは本当に正しい選択なのだろうか。


まさにタイムパラドックスによる齟齬が問題となる作品。しかし、その齟齬を修正するために主人公がとる行動が本当に正しいもであるのかどうかというのはこの作品では重要なことではない。タイムパラドックスという事象を通して、小学校高学年以降からの少年たちのドロドロとした自己中心的な自我を描くことがこの作品の本当のテーマ。さきのことまで見通すこともなく、おもしろいことを持ち上げ、はやしたてる軽率ともいえる行動。それが呼び起こすこと。痛みを知ることで成長した少年は、しかし痛みを知らなければどうなるのだろう。


苦々しいまでの少年少女たちの自分たち中心の世界を描くこの作品は、ただ楽しく読む作品と違い、YAというジャンルの作品として、読者対象となる青少年たちの心に深く染み込むものだと思う。そしてまたこの作品は残念ながらあくまもYAというジャンルでのみの成功作であろう。大人の小説としてみると、やはり少し乱暴で、また深みに不足するように思う。それがこの作品の場合、決して悪いわけではない。しかしやはりこの作品の受賞した賞の賞金の額に値する作品であるかどうかと言えば、疑問と答えるしかない。


タイムパラドックスを扱いながら、ご都合主義に走らなかったことは好感が持てる。しかしYA向けの作品であっても、このドロドロとした少年たちの姿はどうなのだろう。客観的な意味では、ある程度の評価をする作品ではあるが、主観的にはあまり好ましくない。いやリアリティーはとてもあるのだろうけれども・・。

ブラバン

ブラバン

ブラバン

ブラバン津原泰水(2006)☆☆☆★★
※[913]、現代、国内、小説、青春、高校、ブラバン、部活


広島の片田舎、赤字続きの小さな酒場をただ漫然と経営している40を過ぎた他片等。彼は高校時代、ひょんなきっかけで声をかけられ、それが自分がやっていきたいバンド活動の役にたつかもしれないということでブラスバンド部に所属し、弦バスを弾いていた。
いまはうだつのあがらない酒場のマスターである彼のもとに、ある日ひとつの依頼が訪れた。当時の先輩のひとり桜井ひとみさんが、自分の結婚式にあの頃の仲間を集めて演奏をして欲しいと言い出したという。お前も参加しろ。桜井さんからの依頼を携え店を訪れた先輩、君島、そして後から現れた桜井の頼みに、仲間集めに精力的に協力する主人公。
25年前の高校の吹奏楽部。クラシックだけが正当な音楽と信じ、それ以外の音楽を認めたがらない新しく顧問となった若い頑なな女性教師との対立とも言えないようなわだかまり。あるいはある事件で学校を去っていったその女教師のあと、片手間に顧問となった先生とのエピソード。技術も、性格も多様な三十数名の仲間たち。色々な思い出がキラキラと光るガラス片のように蘇る。先輩、後輩で仲良くできた思い出もあれば、相性の悪さなのだろうかぶつかる姿、あるいは部活のなかでひっそりと行なわれる恋愛模様。そしてあの頃まだ「こども」だった主人公とは遠い「大人」の世界に足を踏み入れていた少女の姿。
いま、仲間を探し、集めながら思い出されるのはあの頃のこと。しかし、ひとはあの頃だけに生きているわけではない。主人公自身ももはや高校時代の楽器を手にしていないように、多くの仲間にとってそれはすでに過去のこととなっていた。期待をかけ、失望しながら仲間集めに走り回る主人公の姿を通し、またふつうの人々となったあの頃の仲間の姿を描く。そこには想像もできないような出来事もあれば、また思いがけない再会もあった。果たして「ブラバン」は無事、再結成することができ、そして演奏できるのであろうか。


楽器をきちんと演奏できる。それだけでぼくは尊敬してしまう。フォークギターの簡単なコードを押さえ、歌うことで終わってしまったぼくの今までの短い人生の楽器とのおつきあい。ほかは授業で吹いたリコーダーくらい。高校時代、かけもち部活の幾つかのひとつで混声合唱を嗜み、まったく音楽を楽しまなかったというわけではないが、しかし「楽器を演奏する」という、モノに対する技術的満足にはほど遠い。楽器が演奏できるということはいまだ憧れさえ抱いている。
昨年4月中学に入学した娘は、入学前にあった学校紹介で同級生の姉と約束したと言い、部活はブラバンにはいった。担当はパーカッション。入学早々ドラムスティックを買わされ、家でも練習をしているようだが、なんだかちょっと違う。なんかヌルい。
ぼくの知っている「ブラバン」は、中学でも、高校でも大会に出ればそこそこ行くような「ブラバン」。(蛇足だが敢て言わせてもらえば、高校で嗜んだ「合唱」も全国会までは行けなかったが、地区大会の銅賞を受賞するくらいのものではあった。そういう意味で音楽の楽しさの一端を教えてくれた仲間、とくに指導に当たってくれたK先輩には感謝している。)つまり、ぼくはそこそこ厳しく練習しなければならない、誤魔化しが利かない「ブラバン」しか知らなかった。だからこそヘタレなぼくは中学でも高校でも、自分と「練習」は関係ないとばかりに最初から逃げてしまった。(同じ理由で身長の高さだけで声をかけてくれた運動部の勧誘も逃げてしまったわけだが、もしあそこで違う選択をしていればどんな人生があったのだろう。あ、これは横道)しかしどうも世の中は決してそんなきちんとしたブラバンばかりではないようだ。娘の学校のブラバンを悪くいうつもりはない。しかし成る程、嗜む程度のメンバーが構成員の大半を占めるようなブラバンがあってもおかしくない。ローマは一日にして成らず。適正な指導者と、適正な練習があってこそ、成果は現れる。ブラスバンドにおいても、経験は短期間であっても大量の練習で補えるにしても、多種の楽器のハーモニーはおそらく、適正な指導者、そしてバンドをまとめるリーダーがいてこそなのだろう。この小説は、おそらくひとつの部活の物語ではあるが、ひとつのバンドの物語ではない。ブラスバンドという「部活」を舞台にしてはいるが、その「部活」を通じたほろ苦い青春の思い出。そしてそれは未だにひきずる古傷のような物語。そんな作品のような気がする。


そういう意味で残念ながらこの作品は、読む前に抱いていた期待からははずされた。勝手にこの作品に「バンド」の物語を期待したのがいけないことではあったのだが、作品はそうではなかった。作品のタイトルと、そしてこのパイプ椅子に座る学生服の少女がトランペットを吹くイラストの表紙をネットで何度も見かけた。この作家のことは知らない。しかしそこに期待したのはブラスバンドというひとつの集団、そしてそれが奏でるハーモニー(演奏)の物語であった。しかしこの作品の描くのはハーモニーではなかった。それは先に書いたとおり、ある学校のブラスバンド部という「部活」を舞台にした登場人物たちの人間模様の物語。それも25年、四半世紀も前の「部活」が、それぞれの登場人物にとり、いまだにいい意味で、悪い意味で、古く乾いたかさぶたのように剥がすこともできない傷のように存在している、郷愁という言葉が似合うような物語であった。
しかし自分勝手な期待を外された作品であっても、別の意味で成功している作品ならばまだよかったのだろう。しかしこの作品は、残念ながらそうでもなかった。
25年前を思い出として遡り、そこから何者にもなることができず、ただの市井の人々となった登場人物たち。それは多くの普通の人々が進む道なのだろう。ならば作品はそのことを描いた、ほろ苦い青春譚と成っていたのだろうか。残念ながらぼくにはそうとも思えなかった。作品は多くの人々の「昔」と「いま」の姿を書いている、しかし「描いて」はいない。悪い言い方をすれば、ある夏、あの頃を共有した人たちを「集めること」だけを目的とした物語。人を書くことは、そのおまけ。「集まる」ことだけが目的の作品、それだけしかないように思える。ぼくが青春譚に求めるものは、以前から言うとおり「成長」である。大人が主人公であろうが、「成長」こそが青春譚の魅力である。しかしぼくはこの作品に残念ながら「成長」を感じ取ることはできなかった。ただ集まり、昔を懐かしむことで終わってしまった。そしてまた25年前の「部活」にも「成長」の物語があったとは思えない。いや、幾つかのエピソードのなかに「成長」のエピソード(それもやはりかなりほろ苦い)を拾うことも不可能ではない。とくに最後に、当時から左手に不自由を持ちしかしそれに打ち克ち、ユニークな強さをもつ先輩のひとりが登場することは、もしかしたら作者にとっては、この先に続く「期待」や「夢」を描いた、つまり「成長」の兆しを描いたことなのかもしれない。しかしぼくにはその前の「失敗」あるいは「挫折」があまりにも唐突で、この素敵な先輩の登場をしても「成長」を感じることはできなかった。


作品のはじめのほうで、当時のメンバーを集めるに際し、主人公他片のもとに訪れた、発案者の桜井の言葉を伝える君島の言葉に答える主人公の言葉が作品を象徴するのではないか。
「楽しかったらしいで、あの吹奏楽部が。」
「バンドがというより、若かったことがでしょう」


ネットで親しくさせてもらっている、同じ高校の遙か彼方の後輩、かつブラバン所属のchiekoaさんが、そのブログ「+ChiekoaLibrary+」のレビューで、この作品を前に途方に暮れているような様子を見せているが、この作品はたぶん「ブラバン」より、「年代」「同時代」のほうが共感を呼びやすいのかもしれない。実は、ぼくはまさにこの作品との主人公と同時代。作品の主人公が1980年に高校に入学して描くあの頃の世界は、1981年に高校に入学したぼくのあの頃に見事にシンクロする。音楽に、とくに洋楽に疎いぼくであっても、この作品のなかで書かれる楽曲の幾つかは自然とそのメロディーさえ頭に思い浮かぶ。しかし、そのディティールの拘りが、作品に生きたかどうかは疑問を呈したい。とくに三十数名の登場人物紹介を敢て作品の冒頭表記だけでは足りず、挟み込みさえ作成しなければ成立できなかった、それぞれの登場人物の弱さはどうなのだろう。遍く、そこに居た人を書くことが小説ではないと思う。三十数名を書くことはできたが、「描く」には至っていないことはこの作品の最大の弱点だろう。
大きな物語の流れがあり、それを描く作品であれば、それもまた否定するものではない。しかし、この作品はそういう作品ではないと思う。
蛇足であろうが敢て言わせてもらえば、同じ物語でも人物をもう少し絞って、そして深く掘り込んで描くべきだった。たとえ、それが他の同じような物語と変わらないものだとしても。

天使の眠り

天使の眠り

天使の眠り

「天使の眠り」岸田るり子(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、親子愛


京都の医学大学で基礎医学の研究室で研究に勤しむ秋沢宗一(あきざわそういち)は、研究室助手の結婚披露宴の席で、二度と会うことのないと思っていた名前を見つけた。亜木帆一二三(あきほひふみ)。その変わった名前の持ち主は13年前、宗一がまだ北海道の大学院生であったころ激しく愛しあい、しかしある日忽然と姿を消してしまった女性であった。
披露宴の間、宗一の目を釘付けにしたその女の姿は、しかしもし同じ人物であるならばもう中年であるはず。しかしその姿はいまだ20代の若さと美貌を持っていた。また記憶のなかの彼女とは顔かたちが違う。だが彼女の名札の横には一二三とは別姓の、亡きアイルランド人の夫との娘と聞かされていた当時まだ幼かった田中江真の名前とその姿もあった。タクシーで帰ろうとするその女性に声をかけた宗一に返ってきたのはあのころと同じ呼び方「しゅうさん」であった。やはり彼女はあの一二三なのか。
一二三のことが気になる宗一は、結婚を前提につきあっていた同じ研究室の大原時子と別れ、一二三のことを探るようになった。そして彼女の家の近くで、同じように一二三の様子を探るひとりの男と知り合う。佐伯と名乗るその男は、弟を一二三に殺されたと言う。40歳近くのあまり魅力もない病院の放射線技師であった佐伯の弟が、ある日美しい看護婦一二三と結婚したかと思うと、業務中に何者かに殺害された。犯人は見つからない。結果として、一二三は高額の保険を受け取ることになった。犯行時間、一二三には病院長と往診に出かけていたという完璧なアリバイがあった。しかし佐伯は一二三が犯行に絡んでいると信じていた。彼はまた以前一二三が資産家の孤独な老人と結婚し、やはり何者かに殺害された資産家の多額の遺産を手にしていたという事実も話すのであった。
土曜日、一二三の娘、田中江真はいつものように、こどものころから世話になっている向井さんの部屋に泊まりに行く。看護師をしている母が、江間がまだ幼いころ、保育園の終わった江間を預かってくれるアルバイトを新聞で募集を出して応募してきたのが向井さんだという。それからの長い関係であった。向井さんは年齢不詳の、化粧気がまったくない、度の強い眼鏡をかけた贅肉が全身を覆い丸い体つきをした女性で、スリムで若々しい江間の母と大違いであった。しかし江間は向井さんの柔らかい印象に親しみを覚えるのだった。ネットオークションでアクセサリーを売り、ほそぼそとした生活をしている向井さんには何でも話せる江間であった。ハーフゆえの白い肌を学校で「色素欠損人間」と呼ばれいじめられた日、母と出た結婚式の披露宴で母を追いかけてきた男の話などを向井さんに話す江間であった。
物語は一二三の正体を探ろうとする宗一の行動、そして一二三の最初の夫イアンの、そしてそれはまたその娘、江真の隠された秘密が語られる。果たして一二三の正体は、そして明かされる謎とは?


これもまた最近続いている古臭いミステリーのひとつ。最後に明らかにされる謎の種明かしはそういうオチだったのかと唸らされる部分がないわけではない。しかしよくよく考えるとやはり都合のいい「ミステリーの物語」に過ぎない。母親の抱く、愛する子どものための深い愛情を描いているという部分は買いたいが、それが最後に明かされる謎、あるいは事件の動機としてはいかがかなものなのだろうか。確実に実効性があるとは思えないことに望みをかけるという部分に読者が共感できるかどうかの違いによって作品の印象は大きく変わるだろう。もしかしたら、母親という立場の読者が読まれたらもっと切々と胸に訴えるものがあるのかもしれない。愛するこどものためにほんの一縷の望みでもあれば、すがりつきたい母親の気持ち。ぼくには頭で理解できて(わかって)も、共感を呼ぶほどの心に訴えるものはなかった。
ある女性読書ブロガーの方が、本書をして男女の感覚の違いについて触れていた。具体的に指し示されていたわけでないのだが、それはもしかしたら、ぼくが本書に感じた、ささいな違和感のような描写に関わる部分なのかもしれない。主人公である宗一がまるっきり魅力的に見えないのだ。13年前の激しい恋愛を経たはずの彼なのに、読者として魅力を感じるところがなかった。基礎研究者は医者に対しひねた態度をとる、を地でいく行動をとってみる。肉体的に激しいセックスを好む。幼い子どもを預ければ、あたかも子ども邪魔に扱うように見える。本人は違うつもりなのかもしれないが、深層にある思いが表層に現れているのではないだろうかと思うのはもちろん穿ちすぎなのだろう。しかし一読者として主人公のその信頼を置くことができない様子が、作品全体にどこかしら不安な空気を漂わせるように感じられてならない。
物語の最後は、本当にこれでよいのだろか。一見、解決したかのように見えるが、それは殺人事件のみを犯人の死によって解決しただけで、犯人がそこに至った理由となる部分についてはなんの解決もされていない。その部分を解決、あるいは解決の糸目もつけないうちに犯人が死んでいくことに意味があったのだろうか。
最後のシーンは、思春期の娘、江真が新しい出会いをする場面となっており、一見希望を見出すような終わり方にしている。しかし誤魔化されてはいけない。この作品では根幹となる問題に対し、なんらの解決も果たしていないのだ。


残念なことに、やはり今回も「古くさいミステリー」に高い評価をつけることはできなかった。


蛇足:表紙の写真、こどもの足の裏の模様に意味があるのかと思ったら、作品には関係なかった。がっかり。

東京ダモイ

東京ダモイ

東京ダモイ

「東京ダモイ」鏑木蓮(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、第52回江戸川乱歩賞受賞作、シベリア抑留


出無精で引っ込み思案、営業に向いていないと自ら認める自費出版会社である薫風堂出版の若い営業編集者槙野は、「三百万円の予算がある」上客に会うために、上司である出版プロデューサー朝倉晶子に尻を叩かれるように、京都に送り出された。お金至上主義のような晶子に少し疑問を抱く槙野であったが、高校卒業と同時に家を出、神戸の大手コーヒー会社に就職し、経済的、精神的に自立している槙野の3つ違いの妹英美とは意気投合をしているようだった。槙野は、上司、妹とそれぞれ自分を持つ、強い女に挟まれた形で、いつも尻を叩かれているような有様であった。
果たして訪問した相手は、電話もひいていない自作の粗末なログハウスに住む高津と名乗る76歳の老人であった。戦後、シベリア抑留生活のあと舞鶴港に引き上げて以来、正式に仕事に就くこともなくひとりで暮らしてきたと語る高津は、さらに二百万円を払うので、薫風堂出版が出している全五段の大きな新聞広告に取り上げて欲しいと語った。電話で相談する槙野に、総額五百万円の売り上げに上司である晶子はあっさりOKを出した。原稿を預かった槙野は久しぶりに妹に会いに神戸に向かった。
舞鶴港で、ひとりの外人老婦人の水死体が発見された。水死体のショーツには、なぜか帝国軍人の古い腕時計が隠されていた。警察の捜査の結果、ロシア、イルクーツクからの観光客のひとりであることがわかり、一緒にいたはずの日本人男性の行方がわからなくなっていることも判明した。消えた男性は世田谷の35歳の医師、鴻山秀樹であった。水死体で発見された老婦人、元看護婦のマリア・アリヒョーナとシベリアで死んだ鴻山の祖父が知り合いであったことより、鴻山はマリアの今回の来日の身元保証人となっていた。彼が老婦人を殺害し、失踪したのか。
いっぽう句集の原稿の残りができたとの高津からの電話で、再度京都に向かう槙野。京都に向かう新幹線のなかで高津の原稿に目を通しはじめた槙野は、それが句集とはいえ、手記と句集が組み合わさっていることを知る。俳句だけ並べられてもよく分からない句の内容も、手記の部分を読むとよくわかる体裁になっていた。実際に体験したことを綴るその文章に胸を打たれた槙野は、これなら戦争を知らない世代にも何か伝わるのではないだろうかと思うのであった。
高津の家を訪れた槙野であったが呼び出したはずの本人はおらず、家には槙野宛に出版契約延期の置手紙と、そして切抜きをされた新聞が残されていた。切抜きのされた新聞と同じ新聞をコンビニで買い求め、舞鶴港の事件を知る槙野。高津はこの記事を見たのか。このまま手ぶらでは帰れない。そう思った槙野は高津の後を追い、舞鶴港まで足を伸ばす。警察では、確かに高津らしい人間が現れ、遺体にすがりつき涙を流していたという。
高津の姿はその後も杳としてつかめない。五百万円の売り上げをみすみす見逃すほど晶子は甘くない。
高津の失踪の理由を求めて、句集の原稿を調べはじめる晶子と高津。いっぽう警察も、今回の殺人事件には、この句集に書かれた内容が大きな手がかりとなるはずだと捜査を始めた。果たして殺人事件の犯人はだれか、その理由は、そして消えた鴻山、高津の行方は。
浮かび上がる60年前のシベリア抑留のなかで起きた殺人事件の謎。いったい当時何が起きたのか。


前回2005年の第51回江戸川乱歩賞は、「天使のナイフ」だった。旬の時期に読み損ない、かなり悔しい思いをした。今回こそはと乱歩賞受賞作に早めの予約を入れ楽しみにしていのだが、残念なことに期待はあっさりかわされてしまった。
とにかく読みにくい作品だった。読者として一体どの登場人物に感情移入して読めばいいのか正直迷った。いや、わからなかったというほうが正しい。おそらく主人公とされている自費出版の出版社である薫風堂出版の若い編集者槙野、あるいは京都府警の刑事志方あたりに感情移入して読む作品なのだろうが、いかんせんどちらの人間も書けていない。いまどきの小説にしては珍しいくらいに登場人物が描けていない作品であった。とくに槙野については、魅力的な女性上司を置き、強がってみせる彼女の弱さを垣間見、また彼女が守銭奴だけではないことも気づきながら結局きちんと絡むこともなく終わるというのはどうなのだろう。刑事の志方にしても地道な捜査はしているものの、そこに人間が見えるほどの書き込みがない。正直、殺人事件を捜査する警察については誰が誰だか区別がつかなかった。そういう意味で刑事小説の多くが、刑事たちの家庭状況をも書いている理由がわかったような気がする。仕事の裏にあるプライベートを描くことで、人間像に厚みを増すのだと。そういう点がこの作品には欠けている。いや不足していた。もう少し人間を書き込めば、作品は変わったかもしれない。


この作品を読んでいて正直、途方にくれてしまった。なぜこの作品が江戸川乱歩賞を受賞したのかぼくには理解できなかった。いや確かに古くさいミステリーという意味では江戸川乱歩賞受賞は妥当なのかもしれない。そういう意味で江戸川乱歩賞は、あくまでも古くさく、正統派のミステリーの王道を進み続ける賞なのかもしれない。去年の受賞作「天使のナイフ」を思い返してみても、なるほど正統派のミステリーとしてきちんと謎解きが用意されていた。本作においても古くさいまでのミステリー作品としての謎解きの物語であった。しかしぼくは「天使のナイフ」をひとつの作品として高く評したとき「ミステリーが不要なのではないか」と述べた。「天使のナイフ」はミステリーの文学賞江戸川乱歩賞を受賞することで作品がこの世に出されたわけだが、作品として決して「ミステリー」が評価されるべきでないと信じる。いや作品のミステリー自体は見事であった、しかしそれ以上に作品を通し訴える問題を評価されるべき素晴らしい作品であったと思うのであった。それに対し、本作を見比べると、そこには「古くさい一冊のミステリー」がぽつんと置かれているだけではないだろうか。


古くさいミステリー、偶然であるがここ数冊続けて読んできた本はまさに古くさいミステリーという言葉がぴったりくるような作品たちであった。本来、言葉の定義をきちんとしたうえで話を進めるべきであろうが、そこは割愛させてもらう。いわゆる犯罪があり、その犯罪が「謎」をかかえ解かれていく物語と思ってもらえばよい。今回の作品も、殺人事件があり、その謎は60年前のシベリア抑留まで遡るという物語である。物語の辿る筋は、まさしく正統派の謎解きミステリーのそれであり、きちんと解決するという点でも確かにミステリーなのだ。しかし、まさにそれだけの作品ではないだろうか。俳句という道具を使った謎解きも、ぼくには作家のひとりよがりの推理に過ぎず、決してお見事とは思えなかった。「俳句」がいまどきでないのかもしれない。あるいは道具はなんであれ、いまどきの読者を納得させるには作家の力量が不足してだけのかもしれない。


60年前のシベリア抑留の生活が「描かれている」という評価をも見かけたが、ぼくには通り一遍の描写にしか思えなかった。それはたまたま以前「不毛地帯」(山崎豊子)を読んでいたせいだろうか。あの作品で感じたシベリア生活の厳しさをぼくはいまだ忘れることができない。しかしこの作品で書かれるシベリア生活の厳しさは、ぼくの胸に迫ることはなく、ありがちな描写のひとつにしか思えない。その程度の描写に過ぎないとぼくが感じるものを、この作品の一応主人公とされる青年は、そこいら辺にある戦争体験と違い、心に響くものだなどと語っている。もしかしたら作家はミステリー作品を通し、忘れさられていくシベリア抑留という事実を後世に伝えることを欲したのかもしれない。しかし、ならばもう少し読者の心に響く書きようがあったのではないだろうか。それができないがゆえに安易に、「心に響く」という言葉を主人公に使わせ、読者を納得させようとしなければならなかったのかもしれない。しかしそれは大きな間違いである。この作品においては、60年前のシベリア抑留こそ最大のポイントである。ここが書けてなければこの作品は成立できない。そしてぼくはそのシベリア抑留が書けていないことこそがこの作品の最大の欠点であると思うのだ。現代を舞台にしたこの作品のすべては、しかし60年前のシベリア抑留にある。ここが書ききれていないがゆえに、主人公が、あるいは刑事が作品における重要人物が残した俳句の句集から読み取る犯行の謎の種明かしをされても心に響かない。合点がいかない。いや確かにありがちな謎解き物語りとしてのオチはつくのだが、ありきたりだけの作品にしか思えない。それが、途方にくれてしまったということだ。
古くさい正統派のミステリーであっても、文学賞と名づくものなら、きちんと力を持った作品を授賞すべきであろう。残念ながらぼくにはこの作品に力を感じとれなかった。ゆえに評価はそれほど高くはしない。しかしぼくにはあまり面白みを感じなかった本作だが、「お〜いお茶」の川柳だか俳句だかに投稿し採用されたことのある、少しだけ俳句に興味のある家人は面白いと言っていた。本書で扱われる俳句の解釈自体が独りよがりにしか感じられなかったぼくとは、まったく別の感想であった。ひとの感じ方はそれぞれ違う。ぼくの評に惑わされず、面白いか、面白くないか、ぜひ自分の目で確かめて欲しい。


蛇足:しかし来日して殺されたロシアの老婦人が、日本帝国軍人の持つごつい腕時計をショーツに隠していたというのは、どうなのだろう。いったいどんな下着だよ。本当は最初の事件で途方にくれてしまったというのが正解かもしれない。