クローズド・ノート

クローズド・ノート

クローズド・ノート

クローズド・ノート雫井脩介(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、恋愛、携帯連載


オススメ!オススメ!オススメです!
正直、決して巧い作品ではない。さきの展開が読める、予定調和的な物語。都合のよすぎる部分。そして力(ちから)を持ちすぎているが故に物語という観点からすると浮いているエピソード。厳密に客観的に作品を評価するならば、決して高い評価に値しない作品。しかしそれでもぼくは高い評価を惜しまない。主観的に読めたことがとても嬉しい作品。四十歳のおっさんが作品の最後にはぼろぼろと涙を流してしまった。恥ずかしながら泣いてしまったそのことさえ心地よい作品。
ネタバレかもしれないが、これがネタバレならネタバレしないと書けないし、ネタバレしても作品の評価は変わらないはず。最後に主人公の香恵が読む息吹のメッセージ。それはせいいっぱい子供たちとともに生きた息吹がいたからこそ感動を呼ぶ。初めての担任、手探りのなか息吹先生は頑張った。4年2組の生徒たちに、灰谷健次郎の名作「太陽の子(てだのふあ)」からとった「太陽の子通信」を作り、細やかな優しい眼差しで生徒一人一人を観察し、気にかけ、ともに育った一年間。そうした息吹の一年が、香恵という学生の目を通し、香恵の部屋に残された息吹のノートから語られる。そして、香恵を通して出会う息吹の想い人。
たぶんこれは恋愛小説の類(たぐい)。でも、それ以上にひとりの女教師の記録、物語。
あとがきで作家は語る。数年前に不慮の事故で亡くなった作家の姉の遺品を整理する中で、姉の結婚前まで勤めた小学校教員時代の記録を見つけた。作家が知らなかった姉の小学校教師としての顔を知り、そこからこの作品を書こうと思いたった。作品で語られる決して”いじめ”ではない不登校児童の悩みはそこにあったもの。作家の想像だけで作られたものではないこの女教師の一年。真実という強さ。
小説というフィクション(虚構)を作り上げるのが作家とするならば、この作品の一番の強みは現実にあった真実。そして単一の小説という観点で見た場合、この真実の力(ちから)が強すぎて作品としては巧くまとめられたとは言いにくい。そういう意味では作家は失敗している。それがゆえに字句どおりに評価するなら、作品も評価できない。しかし、そんなことはどうでもよい。この作品の真実の力(ちから)を評価できないなら、本を読む楽しみや書評(感想)を書くことなんて何の意味もない。この作品はいい。とてもいい。せいいっぱい子どもとともに生きたある一人の小学校教師の記録として、とにかく読んで欲しい。オススメの一冊。
でも、やっぱり巧くないのも事実なので評価は☆ひとつ落とす。


教育大学に通う香恵。天然と評されることもあるちょっととぼけた普通の女の子。進路についても、現実的には今だまったく決められない。今日は、今度アメリカに留学することが決った同じマンドリンクラブの親友、葉菜のささやかな送別会を香恵の部屋で行なうことにした。そこで香恵の部屋を見上げる白いシャツ男性の姿に気づいた。
その日、香恵は自分の部屋の押入れで前の住人が置き忘れた、ノートを発見した。「伊吹's note」と使い込まれた、小さい文字のぎっしりつまったノート。いつかとりに来るのかしら。
物語は、香恵の日常を描く。大学生活の傍ら、学校近くの文具店でバイトする香恵。その店の売りである「万年筆」を通して語られる幾つかの物語。そして、ある日、香恵の部屋を見上げていたあの男の人が店にやってきた。イラストレーターをしている彼との交流。そして留学した親友の葉菜の彼の不実な行動。
そうした日々のなかで、香奈はふと部屋に置き忘れていたノートを広げてみた。そこには新たに担任を持つことになった若い小学校女教師の日々が綴られていた。一年の終わり、子どもたちの先生へ送るカードから見始めた香恵は、その伊吹という女教師がどれだけ子どもに慕われていたか知り、そして子どもたちの姿に微笑ましい思いを馳せる。そして綴られる日々。子どもたちのよいところを一生懸命探す伊吹の姿。いじめではない(!)不登校の子どもに悩む教師と、母親の姿。熱い思いを感じながら読み進めるうちに、ノートはいつしか伊吹の想い人の姿が綴られるようになっていた。学生時代から伊吹が想い続けるその伊吹が隆と呼ぶその男性は、伊吹の想いにまったく気づいていないよう。自分ひとりで空回りしている伊吹の若い女性らしい一面が、学校生活とともにノートに綴られていく。
一方、香恵もあの日香恵の部屋を見上げていた、そしてバイトする文具店で香恵から万年筆を買ってくれたイラストレーター石飛隆一という男性への淡い思いを胸に秘めるようになっていた。ノートに綴られる伊吹に自分を重ねる香恵。そして香恵はノートを返しに、伊吹に会いに行こうと思い立つ。
ノートに書かれた小学校で知る真実。そして、またもうひとつの偶然と真実。
石飛の個展で、香恵が語る伊吹のメッセージ。それはせいいっぱい生きるものが語る言葉がゆえに呼ぶ感動。


まじめに一生懸命生きなくちゃとつくづく思わされました。さて香恵はこの先はどう生きていくのかな?先生になるのかな。想いは成就するのかな。その辺をまったく触れなかった作家のラストの書き方は、あまり巧くないこの作品のなかで、ちょっと巧いと思った。


書きたい想いはまだまだあるのだが、とまらなくなりそうなので、とりあえずここで筆を止める。
ぜひ、ぜひ、皆に、特に同時代に同じ想いを持った人々に読んで欲しい一冊。オススメです!!


雫井脩介は、ぼくがちょっと苦手なサスペンスホラー系の「火の粉」、ミステリーの傑作「犯人に告ぐ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/1884746.html ]と読んできて、ミステリー系の作家かと思いきや今回はまた随分趣向が変わった。こういう色々な顔を持つ作家とつきあうのは、実はちょっと難しいところもある。次回は何を出してくるだろうという期待と、何を出されるのかという不安。色が決った作家であればこういう毛色の違う冒険もいいのだろうが、読者はちょっと混乱する。作品としては出来のいいのだが、どうしても趣向の合わない「火の粉」でちょっと敬遠気味であったが、ちょっと気になる作家に仲間入りかな。


蛇足:つい最近「でいごの花の下に」(池上陽)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/33692976.html ]で奇しくも「太陽の子(てだのふあ)」のことを取り上げたばかり。この「クローズド・ノート」では簡単に灰谷の作品より「太陽の子」という言葉をとったとしか書かれていないが、灰谷の作品を読んだうえでこの言葉を使われると、この単純な言葉以上の想いを感じずにはおれない。ふうちゃんという女の子のけなげな生き様。また、香恵たちが歌うさだまさしの「案山子」についても然り。「案山子」だけでない当時のさだまさしの世界を感じながら読むことができるならば、心の震え方が違う。ぼくより三歳下のこの作家の、亡くなったお姉さんはきっとぼくと同年代だったのだろう。中学・高校時代、ニューミュージックと呼ばれる時代のさだまさしを聞いていたに違いない。そして作家もその横で聞いていたのだろう。優しさという簡単な言葉ではくくれない人間の心の温かさ、しなやかさ、そして哀しさを唄うさだまさしの曲を選んだことに深い意味を感じるのは穿ちすぎだろうか。作品では決して”さだまさし”とは触れていないのだが、同時代に彼の曲を聞き、ともに生きてきた者としては語らずにはおけない。
小説で音楽がキーになる作品は多くあるが(最近では浅倉卓弥「北緯四十三度の神話」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/29678896.html ]が思い出される)、取り上げられた曲が身近にあったものだと、かくも心の響き方が違うのかと思い知らされた。勿論、選ばれた曲が個人的に特に思い出深い曲であったというのが大きいのは言うまでもないが。
同時代に共有したものをテーマやモチーフにされると、それだけでもうダメ、ヤラれてしまうという部分は否定できない。例えば最近では「忘れないと誓ったぼくがいた」(平山瑞穂)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/32276648.html ]。あるいは「チョコレート・コスモス」(恩田陸)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/33555892.html ]。「チョコレート・コスモス」は、「ガラスの仮面」を読んでいない(!)という家人はノれなかったそうだ。丁度、今「ガラスの仮面」を読んだことがなく、演劇をちょっと囓っている会社の後輩が読んでいるので、その娘の感想を聞いてみたい。早く読みなさい。
同時代って、いいよね。もっともぼくがこの”同時代”にヤラれた作品を他の年代の方がどのように受け止めたかは気になるところ。自分が主観的に良いと思った作品は、同時代だけでない普遍性をも持った良い作品であって欲しいと思うから。
蛇足2:ところで、当時、さだまさしの歌をモチーフにしてよく作品(マンガ)を描いていた、桂むつみが突然思い出された。当時の少女マンガとニューミュージックの世界ってすごく近かった。ふきのとう、あるいはオフ・コースをモチーフにしたと思われる「水平線をめざせ」(高橋亮子)なんてのも懐かしい。
蛇足3:この作品は実は叙述トリックでもあるのだな。