真夏の島に咲く花は

真夏の島に咲く花は

真夏の島に咲く花は

「真夏の島に咲く花は」垣根涼介(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、フィジー、青春、豊かさ


2000年軍事クーデターのあった観光立国フィジーを舞台にし、四人の若者の男女を主人公とした物語。しかし物語は彼ら若者の物語というよりは、友情やあるいは恋愛を通したう彼らのフィジーでの生活を通し、豊かな自然に恵まれ共同生活を営んでいたおおらかなフィジーの人々、彼らの生活が、過去の英国の植民地時代を経て資本主義という経済世界にとりこまれていったなかで生まれたきしみ、あるいはひずみといったものを語る。やるせない閉塞感。それは最近の垣根涼介の作品「クレージーヘヴン」「サウダージ」に見せる作風であり、決して垣根涼介という作家の新境地ではない。


しかしぼくは以前から語るとおり、垣根涼介という作家の持ち味は「明るいクライムノベル」であると信じる。移民の苦渋の歴史を語りながらも、しかし底抜けに明るい主人公が日本政府に復讐する「ワイルドソウル」、あるいは渋谷のストリートギャングのボス、アキがあるプロフェッショナルなギャングに出会い、仲間となり成長する「ヒートアイランド」「ギャングスターレッスン」といった明るく、きっしり書かれたハードボイルドミステリーこそが垣根涼介の魅力だと断言したい。しかし最近の垣根涼介は違う。さきにあげた「サウダージ」は同じ元渋谷のストリートギャングのボス、アキを主人公とした「ギャングスターレッスン」の続編であったが、アキの明るさをかすませるほどのじりじりとした焦燥感、そして作品を覆う影が気になった。「クレージーヘヴン」も同様。そして軽みを見せたが、深みにまったく欠けた「君たちに明日はない」で、少し明るさをとりもどしたかのように見せ、なんだかよくわからない「ゆりかごで眠れ」と、正直不作続きであった。さて本書は?


脱サラして日本を離れフィジーで日本料理店を営むことにした両親に連れられ、高校からフィジーで暮らし、いまやその店の経営を行なう日本人青年、ヨシこと織田良昭。フィジーの魅力にとりつかれOLをやめフィジーの旅行代理店で働く日本人女性、茜。茜とつきあう、ヨシの高校時代からの友人、安い賃金でガソリンスタンドに勤める生粋のフィジー人の青年チョネ。そして勤勉なインド系フィジー人の父親の経営する成功している観光客向けの土産物店を手伝う、ヨシとチョネの高校時代からの友人であり、ヨシとつきあう女性サティー。人種の異なる男女の若者四人の生活を通し描くフィジーという国の持つ問題を浮き彫りにする物語。
作品は2000年、フィジーの人々が「クー」と呼ぶ、軍事政権によるクーデターの勃発した年を舞台にする。フィジーという国の豊かな自然と穏やかな気候が生んだ国民性は、大らかで明るい。勤勉という言葉とは程遠い。こどものように陽気だが、貧乏、しかし人々が共同に助け合って生きる、フィジーとはもとともそんな国であった。しかしそんなフィジーの人々の、悪く言えば怠惰な性格に業を煮やした植民地時代のイギリス人は、働き手として勤勉なインド人をこの国に連れてきた。その結果、この国では勤勉なインド人や中国人が財を握るようになっていた。
クーデターさえ起きなければそうはならなかったのか。それともいずれかは起きたことなのか。同じ国に起きたそれが現実に自分たちに関係しているとは思えないクーデターは、しかし観光を唯一の大きな産業とし、ほかに替わる産業を持たない彼らの生活に少しずつ、しかし確実に影響を与えていた。観光客が訪れなくなったフィジー。そんななか中国人の経営する質屋では、助け合いの精神で少しくらいお金が不足していても質草を返すべきだと考えるフィジー人に対し、断固たる態度をとった。自分たちの国フィジーに来て、自分たちだけ成功している彼ら他国民族に対する不満が募りはじめるフィジーの若者たち。そして事件は起きた。それは恋人へ送ったプレゼントを取り戻すことをきっかけに、あるいは恩師を救うためというフィジー人たちの優しい気持ち、しかし独善的な考えから始まった。事件に巻きこまれるチョネ。果たして本当の楽園とはいったいどこにあるのだろうか?


この作品について読み始めの当初は、日本を離れフィジーに住むことになったふたりの日本人の生活を通し、経済活動を至上にし、いまの日本が失ってきた人間らしさを、フィジーの人々の貧しいながら明るい生活を描くことで訴える作品だと思い読んでいた。
しかし実際はそうではなかった。クーデターという事件の起きる首都と離れて暮らす市井の人々には、それは遠く隔壁されたような場所で起きているようにしか感じられない。しかしクーデターの影響は確実にこれといった産業を持たない観光立国であるフィジーに影響を与え、それが市井の人々の生活を少しずつおびやかしていく物語であった。明るい楽しい、無邪気な人々の国の生活が、いつしか漂う暗い影と閉塞感に蝕まれていく。そしてその重苦しい空気のなか、主人公たちの近くにいる若者がとる行動のやるせなさ。こどものように深い考えのない無邪気な行動。しかしもしかしたらそれはもはや、豊かな自然と穏やかな気候が培い育てたフィジー人の無邪気な国民性が、経済主義の国際社会において通用しないことを意味することなのかもしれない。単純にフィジーの豊かな自然と人間性を求めて本書を読んでいると、手痛いしっぺ返しを喰らう。


しかしそれでは翻って考えると、この作品は何をぼくらに訴えるのだろう。垣根氏得意の、マイノリティーたる国、民族の現状を訴えることはわかる。しかし訴えるだけでなく、作品として何らか解決策を読者に呈し、希望を見せて欲しいとぼくは思う。ただ問題を投げかけられるだけで終わられても、正直困ってしまう。
いや、それはぼくという読者が垣根涼介という作家に望むものが「明るいクライムノベル」という娯楽小説であるからなのかもしれない。しかし実は垣根涼介という作家はぼくの思いとは別に、いまや現代という時代のなかのマイノリティーたる民族、国における問題を、あるいは現代に漂ういろいろな意味の閉塞感を読者に訴え、投げかける作家に変容しているのかもしれない。ならばぼくの思い、感想はボタンのかけちがい、ちぐはぐなものでしかないのかもしれない。


しかしなぜ7年前のフィジーの話を、いまごろ書くのだろうという疑問は残る。たまたまこの本が出版されたころ2006年12月にフィジーでまたもやクーデターが起こったとしても、それはあくまでもたまたまのことである。もちろんフィジーをとりまく問題はこのクーデターという事件によるものだけでなく、もっと根源的な、本質の問題があるにしても、だ。