アメリカ第二次南北戦争

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アメリカ第二次南北戦争佐藤賢一(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、近未来、小説、アメリカ、if、南北戦争


開口一番まず述べたい。おもしろかった。
正直に言えば「色々」ある。しかしロードノベルとして、そして見てきたように嘘を言いという意味でこれは「面白い」小説であった。やはり「小説」とはある意味、嘘をまことしやかに語ってほしいものであるとつくづく再認識させられた作品であった。


2013年4月9日、アメリカ合衆国において南西部諸州が「アメリカ連合国」として独立を宣言した。かっての南北戦争の南軍の旗を掲げ、またかっての敗戦の日を選び、その戦いは始められた。いうまでもないことだが「合衆国政府」は「連合国」の主権を承認せず、それがゆえにこの独立戦争はいち国家内部の「反乱」ないし「内乱」としての位置づけとなっていた。そしてまた国際社会はこの「内乱」に対しなんらなす術を持たなかった。それは?国際社会においてアメリカ合衆国こそが「世界の警察」であった。かかる超大国が主導権を握らない秩序の回復、平和の維持など、国際社会において忘却の彼方にあった。?どちらのアメリカを指示すべきか逡巡した。独立を宣言した連合国初代統合知事会議議長が、二期目の選挙に敗れた前合衆国大統領であったことも大きかった。?国際社会への影響がそれほど大きくなかった。?そしてまたこの戦争による特需景気が国際社会にもたらされた。結果として休戦協定が結ばれた2015年の今日にいたるまで「アメリカ第二次南北戦争」は続いており、そしてまたいまも続く問題であった。


物語は近未来、アメリカ合衆国で再び独立戦争が起こったというシチュエーションから始まる。まさに大嘘である。しかしそれを決してありえないことと思わせないところが佐藤賢一の筆にある。佐藤賢一といえば、史実を足がかりに物語を紡ぐ小説家というイメージがあった。それだけに今回のようにまったくの架空の物語を書くというのはどうなのだろうと思ったのだが、いやこれは想像以上によかった。ところどころそれらしい論文や、雑誌記事の引用を用い(それらはもちろん作者の創作である)、あたかも文献により裏打ちされたかのごとく書く手法は、歴史小説のそれである。しかし近未来に起こる出来事なので、それらはまったくの嘘。現代社会における事実を下敷きに滔々と嘘を述べまくる作家の壮大な法螺。ディティールからきちんと構築した近未来世界という点では、ある意味「ファンタジー」とまで言い切ることのできる堅牢さを持つ枠組み。そしてこのように緻密に組み立てらたれ世界で語られる物語は、しかしその「世界」の緻密さと裏腹にどうしようもないほど「アホ」らしい。
「アホ」らしい。これは褒め言葉なのだ。物語は日本政府から停戦中のアメリカの視察を命ぜられたジャーナリストを騙る一介の政府職員が合衆国から連合国を旅し、そしてその旅を通し、「アメリカ」を知るというものなのだが、ある意味それは「極論」である。しかし佐藤賢一の類まれなる筆力は、その嘘で固めた文献での補強を含め、その極論を「成程」と思わせる力を持つ。


本書のオビに引用された「やや乱暴に譬えてしまえば、アメリカは成功したオウム真理教なのです。アメリカ合衆国というのは、恐ろしく巨大な『カミクイシキ』なんですよ」という本書の一文は、作品を読む前は違和感を覚えたが、読み終わってみれば納得のいくものであった。成程、成程。


作家の意図が、この作品で語ることを「正論」として述べたかったのか、はたまた壮大な「パロディー」ないし「アイロニー」としたかったのかは作品からだけでは解らない。しかしぼくはただ「法螺」話しを広げたかっただけ、まことしやかな「物語」を書きたかっただけだと思いたい。アメリカという国をモチーフに徹底的に大風呂敷を広げてみたかった、つまり「読み物」を書きたかったのだと思う。そこには偏狭な政治的な思惑はおそらくない。だからぼくらは安心してこの作品の「法螺」を法螺として心底楽しむべきなのだと思う。
そのことをぼくは、この作品で書かれる佐藤賢一らしい「女性像」に認めたい。つまり、まぁセックスのシンボルとしての女性。可愛らしく、おっぱいも大きい若い女性が、おそらく貧相に近い主人公に絡み、そしてあっけらかんとセックスを行なう。それは作品に語られる重い(はずの)国家というテーマからすればあまりに「軽み」なようである。しかしこの作品においてまったく違和感がない。他の佐藤賢一歴史小説のなかでのこれらの女性蔑視とも言える描写には、いつもちょっと首をかしげてしまっていたのだが、この作品においては決して違和感を覚えなかった。それは史実(歴史)という枠から解放され、自由に物語を語ることのできるこの作品の自由な雰囲気のなかにあるのかもしれない。壮大な法螺を語るロードノベル。そこには縛られた史実の帰結としての「悲劇」はない。
環境に対する配慮より、ハイブリッドカーがスタンダードとなった国際社会に対し、ひとりアメリカではあくまでも「アメリカ」を象徴する大排気量のガソリンエンジンを持つ車やバイクが大手を振るう。主人公たちもそうしたピックアップトラックハーレーダビッドソンに乗りアメリカを北から南へと旅を続ける。休戦中であれ、戦争の真っ只中にいるはずなのに、そこに悲壮感や閉塞感はない。まさに気ままな旅の物語。


しかし作品は「物語」でありながら物語を語るのではない。あくまでも「アメリカ」を語る物語。旅を続け、主人公は想い、語る。それは「物語」ではない。「アメリカ」なのだ。仮想未来の「アメリカ」を語る物語。あらすじにそれほどの意味はない。ゆえに今回はあらすじをほとんど割愛する。


久しぶりにオススメ!の一冊。ぜひ心ゆくまで「法螺」話を楽しんで欲しい。


蛇足:とはいえ作品の最後に語る主人公の論文は、ちょっと蛇足か。この作品に結論めいたものはいらなかったのでは?