アメリカ第二次南北戦争

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アメリカ第二次南北戦争佐藤賢一(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、近未来、小説、アメリカ、if、南北戦争


開口一番まず述べたい。おもしろかった。
正直に言えば「色々」ある。しかしロードノベルとして、そして見てきたように嘘を言いという意味でこれは「面白い」小説であった。やはり「小説」とはある意味、嘘をまことしやかに語ってほしいものであるとつくづく再認識させられた作品であった。


2013年4月9日、アメリカ合衆国において南西部諸州が「アメリカ連合国」として独立を宣言した。かっての南北戦争の南軍の旗を掲げ、またかっての敗戦の日を選び、その戦いは始められた。いうまでもないことだが「合衆国政府」は「連合国」の主権を承認せず、それがゆえにこの独立戦争はいち国家内部の「反乱」ないし「内乱」としての位置づけとなっていた。そしてまた国際社会はこの「内乱」に対しなんらなす術を持たなかった。それは?国際社会においてアメリカ合衆国こそが「世界の警察」であった。かかる超大国が主導権を握らない秩序の回復、平和の維持など、国際社会において忘却の彼方にあった。?どちらのアメリカを指示すべきか逡巡した。独立を宣言した連合国初代統合知事会議議長が、二期目の選挙に敗れた前合衆国大統領であったことも大きかった。?国際社会への影響がそれほど大きくなかった。?そしてまたこの戦争による特需景気が国際社会にもたらされた。結果として休戦協定が結ばれた2015年の今日にいたるまで「アメリカ第二次南北戦争」は続いており、そしてまたいまも続く問題であった。


物語は近未来、アメリカ合衆国で再び独立戦争が起こったというシチュエーションから始まる。まさに大嘘である。しかしそれを決してありえないことと思わせないところが佐藤賢一の筆にある。佐藤賢一といえば、史実を足がかりに物語を紡ぐ小説家というイメージがあった。それだけに今回のようにまったくの架空の物語を書くというのはどうなのだろうと思ったのだが、いやこれは想像以上によかった。ところどころそれらしい論文や、雑誌記事の引用を用い(それらはもちろん作者の創作である)、あたかも文献により裏打ちされたかのごとく書く手法は、歴史小説のそれである。しかし近未来に起こる出来事なので、それらはまったくの嘘。現代社会における事実を下敷きに滔々と嘘を述べまくる作家の壮大な法螺。ディティールからきちんと構築した近未来世界という点では、ある意味「ファンタジー」とまで言い切ることのできる堅牢さを持つ枠組み。そしてこのように緻密に組み立てらたれ世界で語られる物語は、しかしその「世界」の緻密さと裏腹にどうしようもないほど「アホ」らしい。
「アホ」らしい。これは褒め言葉なのだ。物語は日本政府から停戦中のアメリカの視察を命ぜられたジャーナリストを騙る一介の政府職員が合衆国から連合国を旅し、そしてその旅を通し、「アメリカ」を知るというものなのだが、ある意味それは「極論」である。しかし佐藤賢一の類まれなる筆力は、その嘘で固めた文献での補強を含め、その極論を「成程」と思わせる力を持つ。


本書のオビに引用された「やや乱暴に譬えてしまえば、アメリカは成功したオウム真理教なのです。アメリカ合衆国というのは、恐ろしく巨大な『カミクイシキ』なんですよ」という本書の一文は、作品を読む前は違和感を覚えたが、読み終わってみれば納得のいくものであった。成程、成程。


作家の意図が、この作品で語ることを「正論」として述べたかったのか、はたまた壮大な「パロディー」ないし「アイロニー」としたかったのかは作品からだけでは解らない。しかしぼくはただ「法螺」話しを広げたかっただけ、まことしやかな「物語」を書きたかっただけだと思いたい。アメリカという国をモチーフに徹底的に大風呂敷を広げてみたかった、つまり「読み物」を書きたかったのだと思う。そこには偏狭な政治的な思惑はおそらくない。だからぼくらは安心してこの作品の「法螺」を法螺として心底楽しむべきなのだと思う。
そのことをぼくは、この作品で書かれる佐藤賢一らしい「女性像」に認めたい。つまり、まぁセックスのシンボルとしての女性。可愛らしく、おっぱいも大きい若い女性が、おそらく貧相に近い主人公に絡み、そしてあっけらかんとセックスを行なう。それは作品に語られる重い(はずの)国家というテーマからすればあまりに「軽み」なようである。しかしこの作品においてまったく違和感がない。他の佐藤賢一歴史小説のなかでのこれらの女性蔑視とも言える描写には、いつもちょっと首をかしげてしまっていたのだが、この作品においては決して違和感を覚えなかった。それは史実(歴史)という枠から解放され、自由に物語を語ることのできるこの作品の自由な雰囲気のなかにあるのかもしれない。壮大な法螺を語るロードノベル。そこには縛られた史実の帰結としての「悲劇」はない。
環境に対する配慮より、ハイブリッドカーがスタンダードとなった国際社会に対し、ひとりアメリカではあくまでも「アメリカ」を象徴する大排気量のガソリンエンジンを持つ車やバイクが大手を振るう。主人公たちもそうしたピックアップトラックハーレーダビッドソンに乗りアメリカを北から南へと旅を続ける。休戦中であれ、戦争の真っ只中にいるはずなのに、そこに悲壮感や閉塞感はない。まさに気ままな旅の物語。


しかし作品は「物語」でありながら物語を語るのではない。あくまでも「アメリカ」を語る物語。旅を続け、主人公は想い、語る。それは「物語」ではない。「アメリカ」なのだ。仮想未来の「アメリカ」を語る物語。あらすじにそれほどの意味はない。ゆえに今回はあらすじをほとんど割愛する。


久しぶりにオススメ!の一冊。ぜひ心ゆくまで「法螺」話を楽しんで欲しい。


蛇足:とはいえ作品の最後に語る主人公の論文は、ちょっと蛇足か。この作品に結論めいたものはいらなかったのでは?

最愛

最愛

最愛

「最愛」真保裕一(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、家族愛、姉弟愛、前科


ネットで、真保裕一にしてあまり良い評価を得ていない作品だなと思いながら読んでみた「最愛」。う〜んん、これは。・・・・・。
何を書きたいのか、訴えたいのかよく分からない作品だった。


小児科医を勤めるぼくのもとに、ある日一本の電話が警察から届いた。18年間音信普通だった姉が、事件に巻き込まれ瀕死の重体にあるという。幼い頃、両親を事故で失ったぼくら姉弟はそれぞれ別の親戚の家に預けられ育てられた。ぼくらが育つ年月の間に、ぼくらが預けられたそれぞれの親戚の間に、祖母の遺産を巡る諍いがあり、ぼくらは連絡もとりあえない状況になっていた。そしてぼくに気を遣い、自分の子供として養子にまでしてくれたぼくの家庭環境と、自分の居場所を見つけられなく養家を飛び出した姉との環境には大きな違いがあった。
入院する姉のもとに辿り着いたぼくは刑事から驚くべき事実を知らされた。姉が事件の前日に結婚をしており、新婚のはずの夫の行方が知れないこと。そして、その夫に殺人の前科があること。
最愛の姉を襲った事件について、そして行方のわからない結婚したばかりの姉の夫について知るために、姉の部屋に残された僅かな年賀状を頼りに、ひとり調査を行なうぼく。そこにはかってぼくの知っていた弱い者の味方になり、何者も怖気づくことなく立ち向かう姉の姿があった。
果たしてぼくは姉を重体に至らしめた事件の真相に辿り着くことができるのか。姉の夫となった人に出会うことができるのだろうか。


レビューを書くのが久しぶりだ。三月末から始まった仕事の多忙が、四月に入り頂点を極め、毎夜終電近く、ときに会社に泊まり、休みは勿論なく、実質三週間を過ごした。書けないことは仕方ないとしても、読めないまでに到る忙しさは長年の人生を通して初めてともいえる経験だった、正直二度としたくないである。さてその間読んだ本もあるが、とりあえずレビューは今朝読み終えた本作品を書いてみよう。


この数ケ月、ミステリーらしいミステリーをどうも評価できない傾向が続く。きちんと明かされる、解かれる謎という物語にどうも胡散臭さを感じるようになった。本作について冒頭で最後まで読み終えて、結局何を訴えたいのかわからない作品と述べたが、読んでいる最中もこの「ミステリー(謎解き)」というものに違和感を覚えて仕方なかった。医師として、あるいは人間として、自分がまだ「大人」になりきれていない「ぼく」という主人公がひとり、姉の部屋で見つけた数少ない手がかりをもとに、行方のわからない結婚したばかりの姉の夫を捜す物語にどうにも違和感を覚えるのだ。悪いほうに安定している姉を置いて、捜査ともいえるような緻密な調査を続ける主人公。電話の繋がらない相手には直接出向き、そしてある情報から繋がる情報。最後に辿り着く真相。まさに王道を行く「ミステリー」である。しかしその玄人はだしの調査にリアリティーの欠如を感じてならない。まさに「お話し」を感じた。そしてその調査という行為自体の原動力となるのが、最後まで読んで始めて明かされる「最愛」の姉の為、あるいは音信普通の時間のなかの姉を主人公が知り、その欠如を埋めるという理由なのだが、その最たる理由の姉への「最愛」にもリアリティーを感じることができなかった。18年間音信普通となっていた姉に対していまさら「最愛」と主人公が語ってもとってつけたようにしか思えないのだ。それが主人公にとって正面から見つめることが難しかった、目を背けていたかった過去であればなおのことであり、いまさら「最愛」を述べられても正直困るのだ。いや「お話し」の設定ならば道理が通らない訳ではないないのだが、なんか安っぽいメロドラマを見せられているようなそんな気分がした。少なくともぼくが真保裕一に求めるものではなかった。いや読書に求めるものではなかった。
あるいはリアリティーの欠如という点で言えば、主人公の調査の途中、行方のわからないまだ見知らぬ姉の夫の携帯電話の留守番電話に妄想とも言える思い込みよろしい、主人公の推理、思いを訴える場面も興ざめであった。思いが逸り、訴えずにはいられないのかもしれないが、この主人公の推理がまったく真相とほど遠いものであったら、赤面ものだなと妙に覚めた目で眺めてしまった。


結局、謎はすべて明かされるわけだが、ならば主人公の小児科医の設定や、あるいは主人公がいま付き合う女性の設定になんらの意味があったのだろうかと思わずにはいられなかった。ぼくはこの作品をあまり評価しない。かって罪を犯したことのある弱きものを描きたいという意味でこの作品は書かれたのであろうか?それを訴えるには何かが不足しているような気がする。


蛇足:この作品について、ミステリーという作品においてはそのリーダビリティーの高さと強引な「ミステリー(謎とき)」に東野圭吾の作品を連想させられた。また過去を背負った女性を描くという意味で、昨年読んだがレビューを書きあぐねたままの「嫌われ松子の一生」(山田宗樹)も想起させられた。
また真保裕一自身の作品「奇跡の人」に感じた居心地の悪さを再び感じた。
「前科」というキーワードはこの先、真保裕一の作品のテーマとなっていくのだろうか?個人的には同じ「前科」を扱った真保の作品「繋がれた明日」は同じテーマの東野圭吾の「手紙」より買うのだが・・・。

僕たちは歩かない

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「僕たちは歩かない」古川日出男(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、26時間、東京、山手線


※少しネタバレあり。未読者は注意願います。


2時間多い東京で出会った僕たちの物語。


読みやすい古川日出男。常々ぼくは古川日出男について、「物語」ではなく、文体。選ばれた言葉の奏でる旋律(メロディー)、律動(リズム)、そして彼の思考の紡ぐ模様(パターン)だ、と述べてきた。理解する(わかる)のではない、身を任せるのだ、と。
さて本作、かなり薄い一冊。幾つかの短い章から成る中篇。正直に言おう、古川日出男にしては、かなり読みやすい作品。
この作品に古川日出男のリズムはたしかにある。そしてぼくは嬉しかった。あぁ、これだ。このリズムが古川日出男であり、そしてぼくはこのリズム好きなんだ。
しかしこれはなんというか、灰汁がない。とても読みやすく、かつわかりやすい。
古川日出男は「物語」でないと先に述べたが、この作品は「物語」である。そして、なんというかありきたり。
古川日出男の近著「ルート350」に収められていた「メロウ」というRPGロールプレイングゲーム)ノリの作品があったが、それに近い。ある共通項で仲間になった主人公たちが行なう冒険。そこにはまさにRPGのような、お約束の条件があった。


それぞれ、ふとしたきっかけで2時間多い東京に辿り着く僕たち。その2時間の東京で僕たちは<研究会>を作り、お互い切磋琢磨する。僕たちはシェフにはまだ成れない、調理人たちであった。ある日、<研究会>に出てこなくなった仲間が事故で死んでいたことを知った僕たち。その仲間に会うために僕たちは冥界への冒険に出た。ひとつだけ条件があった。
一度も足をつけないこと。
一度も地面に、足をつけないこと。
異世界に繋がる電車に乗り、車椅子を、自転車を、使い僕たちは走る。目的地に向かう。そして目的地に辿り着いた僕たちが選ぶ、あるいは選ばされた、結論。


残念ながら前半にあった幻想的な雰囲気(ムード)と驚きが、中盤以降薄くなってしまう。文体のリズムは変わらない。しかしありきたりの、分かり易い物語に堕ちてしまったことが、冗長を生む。
「冥界」ってなんだよ。「古事記」じゃないだから、死んだ女性は姿を見せないはないだろう。「それらしく」設定される「二十二時二十二分二十二秒の電車」も興ざめ。そこまで厳格に設定してはいけない。ファンタジーよろしく、設定を厳密にしたことが作品世界を狭めてしまった。あるいは逆にリアリティー(本当らしさ)を欠如させてしまった。そんな気がする。<研究会>の仲間もなんだか多すぎるしね。秘密はやはり「限定された」、顔の見える仲間だけにして欲しかった。


本書の場合、ファンタジーを築くより、作品冒頭にあったようなほんの少しの「ズレ」に気づく程度のポエティックな雰囲気だけでよかったのではないだろうかとぼくは思う。


しかし評価は☆四つ。実はこの作品、あまりに薄く三回も読み直してしまったのだ。☆四つは最初に受けた、リズムの心地よさ。何度も読み返す作品じゃないのかもしれない。


さて、そんなぼくが震えた部分。
まず第一章「僕たちは雪を食べる」の最後(P29)


これが素材なんだな?と誰かが言った。
 それから僕たちは、その雪でデザートをこしらえるために、それぞれにインスピレーションをほとばしらせた。なにより、その前に、僕たちはだいたいみんな手のひらで雪を(舞い降りるさなかの、その白いものを)受け止めて、味を確かめた。
 僕たちは、雪を。


この分断され、切断された文章で終わること。「僕たちは、雪を食べた」でもなく。「食べた。僕たちは雪を」でもないこと
そして第三章「僕たちは悲しい物語を知っている」(P61)


仲間の死も知らずに・・・何日も何日もいただなんて。
そんな。


ここは実は僕が錯覚して震えた箇所。ここでこの章が終わったと誤解して、うわっ、すげぇ、と思ったのだ。しかしこの章はここで終わらなかった。残念。古川日出男なんだから、ここで分断、切断すべきなんだと、ぼくは勝手に思う。
あぁ、やっぱり古川日出男は「わかりやすくて」はいけない。この作品はもしかしたら古川日出男の入門書としては読みやすい一冊なのかもしれない。しかしここに本当の古川日出男がいるかは疑問だ。ならば入門書として妥当なのか?そもそも「古川日出男」に入門書なんて必要なのか?
装丁が素敵な一冊。プレゼントブックには最適な体裁なのだが、それをオススメはしない。
なぜか?
ここに本当の「古川日出男」はいないから。
あ、そうすると☆四つは間違い?

真夏の島に咲く花は

真夏の島に咲く花は

真夏の島に咲く花は

「真夏の島に咲く花は」垣根涼介(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、フィジー、青春、豊かさ


2000年軍事クーデターのあった観光立国フィジーを舞台にし、四人の若者の男女を主人公とした物語。しかし物語は彼ら若者の物語というよりは、友情やあるいは恋愛を通したう彼らのフィジーでの生活を通し、豊かな自然に恵まれ共同生活を営んでいたおおらかなフィジーの人々、彼らの生活が、過去の英国の植民地時代を経て資本主義という経済世界にとりこまれていったなかで生まれたきしみ、あるいはひずみといったものを語る。やるせない閉塞感。それは最近の垣根涼介の作品「クレージーヘヴン」「サウダージ」に見せる作風であり、決して垣根涼介という作家の新境地ではない。


しかしぼくは以前から語るとおり、垣根涼介という作家の持ち味は「明るいクライムノベル」であると信じる。移民の苦渋の歴史を語りながらも、しかし底抜けに明るい主人公が日本政府に復讐する「ワイルドソウル」、あるいは渋谷のストリートギャングのボス、アキがあるプロフェッショナルなギャングに出会い、仲間となり成長する「ヒートアイランド」「ギャングスターレッスン」といった明るく、きっしり書かれたハードボイルドミステリーこそが垣根涼介の魅力だと断言したい。しかし最近の垣根涼介は違う。さきにあげた「サウダージ」は同じ元渋谷のストリートギャングのボス、アキを主人公とした「ギャングスターレッスン」の続編であったが、アキの明るさをかすませるほどのじりじりとした焦燥感、そして作品を覆う影が気になった。「クレージーヘヴン」も同様。そして軽みを見せたが、深みにまったく欠けた「君たちに明日はない」で、少し明るさをとりもどしたかのように見せ、なんだかよくわからない「ゆりかごで眠れ」と、正直不作続きであった。さて本書は?


脱サラして日本を離れフィジーで日本料理店を営むことにした両親に連れられ、高校からフィジーで暮らし、いまやその店の経営を行なう日本人青年、ヨシこと織田良昭。フィジーの魅力にとりつかれOLをやめフィジーの旅行代理店で働く日本人女性、茜。茜とつきあう、ヨシの高校時代からの友人、安い賃金でガソリンスタンドに勤める生粋のフィジー人の青年チョネ。そして勤勉なインド系フィジー人の父親の経営する成功している観光客向けの土産物店を手伝う、ヨシとチョネの高校時代からの友人であり、ヨシとつきあう女性サティー。人種の異なる男女の若者四人の生活を通し描くフィジーという国の持つ問題を浮き彫りにする物語。
作品は2000年、フィジーの人々が「クー」と呼ぶ、軍事政権によるクーデターの勃発した年を舞台にする。フィジーという国の豊かな自然と穏やかな気候が生んだ国民性は、大らかで明るい。勤勉という言葉とは程遠い。こどものように陽気だが、貧乏、しかし人々が共同に助け合って生きる、フィジーとはもとともそんな国であった。しかしそんなフィジーの人々の、悪く言えば怠惰な性格に業を煮やした植民地時代のイギリス人は、働き手として勤勉なインド人をこの国に連れてきた。その結果、この国では勤勉なインド人や中国人が財を握るようになっていた。
クーデターさえ起きなければそうはならなかったのか。それともいずれかは起きたことなのか。同じ国に起きたそれが現実に自分たちに関係しているとは思えないクーデターは、しかし観光を唯一の大きな産業とし、ほかに替わる産業を持たない彼らの生活に少しずつ、しかし確実に影響を与えていた。観光客が訪れなくなったフィジー。そんななか中国人の経営する質屋では、助け合いの精神で少しくらいお金が不足していても質草を返すべきだと考えるフィジー人に対し、断固たる態度をとった。自分たちの国フィジーに来て、自分たちだけ成功している彼ら他国民族に対する不満が募りはじめるフィジーの若者たち。そして事件は起きた。それは恋人へ送ったプレゼントを取り戻すことをきっかけに、あるいは恩師を救うためというフィジー人たちの優しい気持ち、しかし独善的な考えから始まった。事件に巻きこまれるチョネ。果たして本当の楽園とはいったいどこにあるのだろうか?


この作品について読み始めの当初は、日本を離れフィジーに住むことになったふたりの日本人の生活を通し、経済活動を至上にし、いまの日本が失ってきた人間らしさを、フィジーの人々の貧しいながら明るい生活を描くことで訴える作品だと思い読んでいた。
しかし実際はそうではなかった。クーデターという事件の起きる首都と離れて暮らす市井の人々には、それは遠く隔壁されたような場所で起きているようにしか感じられない。しかしクーデターの影響は確実にこれといった産業を持たない観光立国であるフィジーに影響を与え、それが市井の人々の生活を少しずつおびやかしていく物語であった。明るい楽しい、無邪気な人々の国の生活が、いつしか漂う暗い影と閉塞感に蝕まれていく。そしてその重苦しい空気のなか、主人公たちの近くにいる若者がとる行動のやるせなさ。こどものように深い考えのない無邪気な行動。しかしもしかしたらそれはもはや、豊かな自然と穏やかな気候が培い育てたフィジー人の無邪気な国民性が、経済主義の国際社会において通用しないことを意味することなのかもしれない。単純にフィジーの豊かな自然と人間性を求めて本書を読んでいると、手痛いしっぺ返しを喰らう。


しかしそれでは翻って考えると、この作品は何をぼくらに訴えるのだろう。垣根氏得意の、マイノリティーたる国、民族の現状を訴えることはわかる。しかし訴えるだけでなく、作品として何らか解決策を読者に呈し、希望を見せて欲しいとぼくは思う。ただ問題を投げかけられるだけで終わられても、正直困ってしまう。
いや、それはぼくという読者が垣根涼介という作家に望むものが「明るいクライムノベル」という娯楽小説であるからなのかもしれない。しかし実は垣根涼介という作家はぼくの思いとは別に、いまや現代という時代のなかのマイノリティーたる民族、国における問題を、あるいは現代に漂ういろいろな意味の閉塞感を読者に訴え、投げかける作家に変容しているのかもしれない。ならばぼくの思い、感想はボタンのかけちがい、ちぐはぐなものでしかないのかもしれない。


しかしなぜ7年前のフィジーの話を、いまごろ書くのだろうという疑問は残る。たまたまこの本が出版されたころ2006年12月にフィジーでまたもやクーデターが起こったとしても、それはあくまでもたまたまのことである。もちろんフィジーをとりまく問題はこのクーデターという事件によるものだけでなく、もっと根源的な、本質の問題があるにしても、だ。

天涯の砦

天涯の砦 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

天涯の砦 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

「天涯の砦」小川一水(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、未来、小説、SF、宇宙、レスキュー、遭難


もし助かっても、このメンバーにまた会いたくなるとは、あまり思えない。
だが、まあ、生きている。(p259)


ネットの本読み人仲間ざれこさんのブログ「本を読む女」で見かけた本書。正直に言えば、かなり辛い読書であった。冷静で緻密な筆致で描かれるのは、まさに夢や御伽噺ではない、ありうるという意味でのリアリティーに溢れた世界。一般の読者向けというよりも、かなりコアなSFファンを対象とし、彼らを納得させられる記述。それは宇宙ステーションに起こった爆発事故。宇宙ステーションの一画は吹き飛ばされる。宇宙に漂流する宇宙ステーションの残骸のなかでのサバイバル(生き残り)の物語。
しかしこの作品はあまりに冷静で緻密で、抑えられた筆致で物語が書かれるがゆえに、通常こういう作品に一般の読者が期待するような盛り上がりには欠ける。勿論、それが悪いというわけではない。いたずらに無意味なリミットタイムを設定し緊迫感を煽る作品より、この作品に書かれるよほどあり得る状況は、坦々とした臨場感を感じることができる。その分じわじわと感じられる迫り来る死への恐怖。個人的には否定はしないエンターテイメント作品の、ただおもしろさを追求するだけの、あまりにもタイミングよく畳み掛けるように起きる多数の連続事件に感じる「嘘っぽさ」よりはよいのかもしれない。しかし反面、この作品では起こるそれぞれの事件の解決に爽快感を感じない。現実にありうることは、現実同様に決してすべてが爽快な解決をもたらすわけでない。またドラマチックでもない。そこのところをどう評価するかで、この作品の評価は変わるのだろう。


惑星間航行士の試験に落ち、宇宙ステーション「望天」に戻ったばかりで劣等感にさいなまれている「軌道業務員」という雑務要員を職業とする二之瀬英美が主人公。「望天」は地球と月を中継する軌道ステーションであり、ここから月への旅は始まる。
月往還船である「わかたけ」をつないでいた「望天」に、予期せぬ爆発事故が起こった。「望天」の回転を支える中心軸の軸受(ベアリング)に使われていたグリスが、ベアリングの材質と合わないものであったのだ。それと知らぬ間に使われ続けた年月は、軸受けの内部の侵食していた。そして不具合の対策をはじめたところに起きた事故であった。
事故の結果、主人公の居た第四扇区は「わかたけ」をつないだまま宇宙ステーション本体より離れ、宇宙を漂流することとなった。無数の死体が浮かぶ「望天」の残骸であったが、隔離された気密区間のいくつかには生存者がいた。空気ダクトを通し連絡を取り合いながら、生存の道を探る彼ら。それぞれにそれぞれの過去を、人生を背負う彼らは、しかし生き延びるために協力はするものの心から打ち解けあうものでもなかった。
生存の優先順位をつけようと発言する高い技術を有する医者田窪章吾。彼は、その技術と己の仕事に対する自負よりあるスキャンダルに巻き込まれた。露出度の高い扇情的な格好をし、同室の青年をからかう大金持ちの娘キトゥン。両親よりお金は与えられていたが、愛情を知らない娘。キトゥンにからかわれるのは、貧乏でお金がなく苦労しているが、己の頭脳の優秀さのみで苦境を乗り越えてきた青年、大島功。そして彼の心に浮かぶ昏い思い。また、ある理由から地球のレスキューオペレーターの仕事を離れ、月へ向かう女性、長柄甘海。「望天」の事故により両親と離れ離れになってしまった幼い兄妹、佐久間啓太、風美。そして「わかたけ」のブリッジに一人生き残る謎の青年久我山徹夜。また「わかたけ」の機関室に残っていた機関士門前洋一郎のとる行動とは?
壁一枚隔てれば、真空の死の世界が待つなかで、負傷しながらも生き延びる道を探る人々。
そしてまた彼らをのせた宇宙ステーションの残骸が、大気圏内への突入軌道にのってしまっていることがわかった。このままでは大気圏に突入し、焼け焦げて消失してしまう。果たして彼らの運命は?


ぼくにとって、この作品は「よくできた作品」であったとは思うが、「よい作品」だったとはいえない。本レビュー冒頭に取りあげた書いた本作品のなかの一文。宇宙ステーションの爆破、その一画の漂流による危機的状況をともに乗り越えた人々は(蛇足的エピソードの約一名を除き)それぞれ理性を失わず生きることを目的に力を合わせる。しかしそれでも「また会いたくなるとは思えない」仲間たち。現実は、もしかしたらそんなものかもしれない。同じ危機的状況を乗り越えたとしても、ひとはそう簡単に心を通わせられるものではないのかもしれない。リアリティーという点でこの作品を評価はしよう。しかし、やはり「物語」としては正直つまらない。ありがちであっても爽快感(カタルシス)が欲しい。理解しあい、思いやる仲間たち。そういう意味で大金持ちの扇情的な娘に対し少年がとった行動やその後の展開も、もう少し気持ちのいいものにしてほしかった。また生き延びる物語のなかにおいては機関士門前洋一郎のエピソードは余計に思える。こういう要素もありうるのだろうが、このリアリティーある作品のなかでこのエピソードだけが浮いているような気がした。極限状況において、彼だけはひとりで生き延びることができると思っていたのだろうか。生き延びる光明が見えるまでは、かりそめにも協力する姿勢を示しているほうがリアリティーがあるような気がする。彼の行動はこのリアリティーあふれる作品のなかで、唯一「お話し」じみていて残念だ。


総体として辛口の評価となってしまっているが、この作品は最後のエピソードまで読んではじめてよい作品だと思えた。それはあの青年のエピソードであり、蛇足気味の主人公のエピソードではない。ありがちなのかもしれないが、希望が見えるような気がした。あぁ、ぼくはやはり「物語」が好きなのだ。
決して悪い作品ではない。ネットでも好評を多く見かける。ただぼくにはネットの各評で書かれるほどの緊迫感は感じられなかった。どちらかというと閉塞感や、虚無感、無力感のようなものを感じたのだが、いかがだろうか。

つばき時跳び

つばき、時跳び

つばき、時跳び

「つばき時跳び」梶尾真治(2006)☆☆☆★★
※[913]、現代、小説、SF、時空もの、江戸時代


曽祖父の時代に買った、熊本市の郊外にある古い屋敷「百椿庵(ひゃくちんあん)」に住む、三十歳を過ぎて独身の歴史作家である私、井納惇。四百坪を越える敷地のほとんどは庭で、多くの樹木のなかでもとくに椿が多いこの屋敷に私が住むようになったのは、岡山でメーカーの支店長をする父親からの申し出であった。父はこの家に愛着を持っており、定年になったら住むつもりだった。しかし放っておけば家は荒れる。私に住んでもらい、家の手入れをしてもらいたいとのことだった。大学卒業後、一般の会社に就職し、趣味で書いた小説が入賞して以来、不安定な収入の専業作家の道を歩んだ私にとって、それは願ってもない申し出であった。
「百椿庵」には幽霊が出る。女の人にしか見えない女性の幽霊。庭の観音様は、ひいお祖母さんが、あまり幽霊がでるので鎮めるために建てたそうだが、効果はなかった。私も、お祖母さんも、父さんの妹も見たと言っている。でも惇は男だから大丈夫だね。岡山の母が様子を電話で伺ってきた。そんな幽霊と私が出会うことになるとは。
私が出会った幽霊の正体は「つばき」という江戸時代にこの家に住んでいた女性であった。この家にはなにかの力があるのだろうか、彼女は150年のときを経て突然私の前に現れた。そんな彼女にとって、現代は想像もつかない世界であった。「百椿庵」で始まる、私とつばきの生活。しかし、ある日つばきは過去に引きもどされてしまった。私が不用意な外出を一緒にしてしまったばかりに。
つばきを失い、落ち込む日々を過ごす私。しかしある朝、私はあの感覚が蘇った。そして今度は私がつばきの住む江戸時代に飛ばされてしまったのだ。150年前、江戸時代でのつばきとの百椿庵での生活。そこにはかってりょじんさんという人がいたらしい。そしてりょじんさんもある日また消えてしまったという。果たして私とつばきの生活はどうなってしまうのだろうか・。


「削除ボーイズ0326」(方波見大志) [ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/45385133.html ]のレビューで、ぼくはタイムパラドックスやタイムマシンものがあまり好きでないと述べた。よほど巧く書かないとご都合主義に陥りやすいジャンルだからだ。そして本書はまさしく突っ込みどころ満載のそのジャンルの作品である。好きな作家のひとりである梶尾真治。ぼくが彼の作品に出会ったのは「OKAGE」であり、「黄昏がえり」であった。彼の作品の詰めの甘さは気になるものの、そのほのぼのと心あたたまるハートウォーミングの物語を評価してきた。いっぽう実はその方面の彼の作品を今に至るまでに読んでいないのだが、梶尾真治の得意とする分野がまさにこの時間をテーマにした作品である。最近、図書館のホームページから新刊ばかりをインターネット予約で借りていたのだが、今回、たまたま図書館の書棚を覗いたところ、本書に出会うことができた。


いい意味で相変わらずの梶尾真治らしい作品。あたたかな大人の、礼儀正しい想いの物語。ひとつ屋根の下で想いを寄せ合いながら暮らす二人の男女が、身体を交わすことなくただ想いあうだけ。ある意味、いまどきの大人の小説として珍しく、こどもにも安心して読ませることができる一冊。時空を越え礼儀正しく恋する主人公とつばきの優しく、温かく、そして切ない物語を評価する作品なのだろう。まさにカジシンらしいハートウォーミングな一冊。レビューもそこまでにとどめておくべきなのかもしれない。タイムパラドックスの部分や、つばきの現代での生活、あるいは主人公の江戸時代での生活など、突っ込みはじめると切りがなくなるだろう。
辛口、偏屈を標榜するぼくではあるが、以前から語ることようにカジシンには甘い。この作家の持ち味は「ハートウォーミング」であり、緻密な物語ではないのだと割り切ってしまう。
しかし残念ながら、やはりオススメとはいえない。もう少しが足りない。
願わくばこの持ち味を生かしつつ、もう少し緻密な作品をカジシンに期待したい。この作家の持つ素朴な温かさは大好きなのだが、何か物足りないものを感じるのも事実だ。それが残念。


蛇足:この「つばき時跳び」というタイトル、そして「百椿庵」という屋敷の命名は秀逸だと思う。

パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々2−魔海の冒険−

パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々〈2〉魔海の冒険

パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々〈2〉魔海の冒険

パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々2−魔海の冒険−」 リック・リオーダン(2006)☆☆☆★★
※[933]、児童文学、現代、ファンタジーギリシア神話、児童読み物


「盗まれた雷撃」に続くギリシア三大神のひとりポセイドンと人間の母親の間に生まれた「ハーフ」、パーシー・ジャクソンを主人公とした第二弾。今回もお馴染みとなった仲間アテナの娘アナベスとともに、同じくお馴染みとなった仲間サテュロスグローバーを救いに、そして同時にハーフ訓練所の危機を救うためにパーシーの冒険が始まる。今回はなんとパーシーの学校の友人でホームレスの少年タイソンも仲間に加わる。図体はでかいが泣き虫の怖がり、そんな彼の正体は実はキュクロプス(ひとつ目巨人)だった。そして彼はある神とニンフのあいだに生まれたこどもだった。そしてその神とは・・。


あとがきで訳者は、「神話」を持たない国アメリカとイギリスは、神話を持たないがゆえにファンタジーを書きたがると記すが、成程と思う。「盗まれた雷撃」のレビューの際にも触れたが、世はまさにファンタジー・ブームである。他の国と比べ英米という国の文化がわが国に入りやすいこともあるが、確かに最近書店を訪れると昨今の英米のファンタジーの書籍が目につく。それらの作品のなかでどれだけの作品が「生き残っていく」のかは、なんとも想像もつかないが、しかし「ゲド戦記」「ナルニア国物語」「指輪物語」といったいわゆる「名作」が、いまだ昨今の新しい作品とともに堂々と並べられているのをみると、ことファンタジーというジャンルにおいては名作はまさに不朽であることを知る。個人的に評価しつつ、あるいは一部のファンタジーファンには高く評価されていても、一般的に知名度の高くない「闇の戦い」シリーズ(スーザン・クーパー)が最近、新装版が発売されたことも嬉しい限りだ。
さて、そうしたファンタジー作品のなかで本作品がどういう位置に落ち着くのかは、この先の話となるが、モチーフとして既存のギリシア神話を現代アメリカに持ってくるという試みはおもしろい。既存の神話を下敷きにするということは、ファンタジー作品にはよくあることだが、ギリシア神話の神々とそしてその神々の住むオリンポスを、エンパイアステイトビルの秘密の高層階に持ってくるというぶっとんだアイディア。そして現代アメリカに移り住んだ神々は、しかしいわゆる古来からのギリシア神話の神々のままであり、決して徒によれて「人間らしく」はなっていないことが、この作品をありがちな作品から一線を画すものとする。「神の考えることは人間にわからない」。あくまでも我々人間が理解しにくい「神々の論理」で神は行動を起す。たとえば、それは主人公パーシーを含む神々があたりかまわずそこいらじゅうでつくった(言い過ぎ!)たくさんのこどもたち。ありがちな作品であれば、人間の母と神の間に生まれた主人公にとって、父たる神は人間としての母への愛を貫き通すものであろうが、この作品は違う。異母兄弟がちゃかっり現れてしまう。その存在を手紙という手段で現す父親であるポセイドンは、しかし神々の常であるように、意味深いような言葉一言を主人公に伝えるのみ。簡単なヒューマニスティックなドラマにはなっていない。その辺りの乾いた感覚がぼくが本書を手に取るきっかけっとなった装丁のポップなデザインとともに心地よい。ただし、装丁、イラストは米国のものではなく日本人の手によるもののようである。


さて、物語は前作同様にいわゆるお使い方の冒険譚。主人公パーシーが仲間二人とともに、友人であるグローバーを救い、あるいはハーフ訓練所を守る松の木を救うため、それは訓練所を救うことを意味するのだが、前作で倒した敵の復活を願う仇敵ルークの邪魔を退け、あるいはアレサの娘で、パーシーのことをおもしろく思わないクラリサとも冒険に成功する物語。舞台を現代のミステリアス・ゾーン、バミューダー海域に持ってくる辺りも、ありがちで新味はあまりないが、悪いものではない。


本書もいい意味で、前作同様にこどもが読むにおいて楽しい読み物である。次回作以降に持ち越される「16歳までに生き残るビッグスリー、ゼウス、ポセイドン、ハデスのこどもに気ををつけろ。危険な武器になるかもしれない」という予言。それは現在13歳であるパーシーのことなのだろうか?そしてまたパーシとその予言を分かつ人物が最後に現れる。


物語のひとつの形式である「行きて帰りし物語」。気持ちよく読める冒険活劇。本書一冊をとりに成長があったかどうかというと微妙であるが、シリーズを通し、楽しくおもしろい物語を通し、いわゆるふつうの人間界で劣等生であったパーシーが成長していく姿を期待できる作品。
いまの段階ではファンタジー作品として、あるいは大人が読む作品としては決してオススメできる作品ではない。しかし例えば楽しい読み物として、本書を読むことで次はギリシア神話に興味が派生することも期待して、こどもに薦めるにはよい作品かもしれない。