天使がいた三十日

天使がいた三十日

天使がいた三十日

「天使がいた三十日」新堂冬樹(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、文芸、ハートウォーミング、犬、愛

新堂冬樹という作家が好きだ。バイオレンス、ピカレスクアウトロー、ハードボイルド、ミステリー、悪徳、裏社会、底辺の人間たち、どろどろ、愛憎、裏切り、そうした言葉が似合う作品たち。文学でも、文芸でもない、強いて言えば大衆小説、読み物。ともすればワンパターンな擬音、擬態語、どの作品でも見かける同じような暴力描写、性的描写。決して巧い作家ではない。しかし、勢いのあふれる作家。そんな新堂冬樹を、ただ心から楽しむために読み続けてきた。
ところが、このところ、どうも新堂冬樹が変わってきた。純愛とか、心温まるとか、そうした作品を発表し、そして評価されている。新たなファンを開拓し、そして新たな読者は昔の新堂冬樹の作品を知らない、知って驚く。
これは、作家の成長なのだろうか・・?
どうも、ミステリーとかハードボイルドを書いていた作家には、ある時期に変節ともいえるような作風の変化を遂げることが多い。白川道藤田宜永志水辰夫・・そうした面々の名前が思い浮かぶ。

「天使がいた三十日」、新堂冬樹でなければ、まず手に取らないタイトル、作品。そして、読んで後悔した。作品が、ではない。なぜ、こんな作品を書くんだ新堂冬樹・・。

もともと、引っ込み思案で人付き合いも下手な、作曲家日吉は、愛する妻夏乃と出会うことで大きく変わった。妻に連れられ、外の世界と触れ、街中にあふれるありふれたものたちに、きらめきや感動を覚えるようになった。夏乃との幸せな日々は、また作曲家としての成功の時代でもあった。しかし、その幸せの日々は、あっさり潰えた。無謀な運転で突っ込んできた自動車に跳ね飛ばされ、夏乃はこの世を去った。おなかに宿した待ち望んでいた二人の子供、新しい生命とともに・・。
生きる望みを失い、自暴自棄のまま、家も貯金も使い果たし、生きる屍となった日吉。死ぬことを見つめ、ひとりクリスマス・イブの公園で佇む日吉。そんな彼が一匹の犬と出会った。勤務している無農薬食品会社の配送先で、いつも見かけ可愛がっていたアイリッシュ・セターのマリー。なぜ、おまえがここに?。
一匹の犬と出逢い、ともに生きることで、生きる望みをもう一度見いだす日吉の物語・・。

単独の作品として評価した場合、可もなく不可もなしの佳作。どこかでみたようなありがちな設定、ありがちな物語。この作品だからというオリジナリティー、何かも見つけることができなし。しかし、酷い作品、でもない。ツボをしっかり押さえている。そのため、簡単に騙されちゃう読者が、簡単に感動したい読者が、涙なんか流したりし、感動なんかしたりする。そんな作品。
そして、犬好きな人はやられちゃうんだろうな。ネットの本読み人仲間でも、作品はともかく、アイリッシュ・セターのマリーにやられている人、多数(笑)。

個人的には、評価しない。そして言いたい。新堂冬樹さん、そろそろ、やめませんか、こういうの・・。新堂さんの場合、これ確信犯でしょ?

蛇足:この後、続けて、同じ新堂冬樹の「聖殺人者」。イタリアのマフィオソ(言い方がこ洒落ているいるというか、カッコつけすぎ)、ガルシアを主人公とした「悪の華」の続編。いい意味でハードボイルド、悪い意味で中途半端な純愛が絡んでいた。そういえば、この「悪の華」から、少しずつ変わってきたんだよな。さてさて、どうなることやら。僕の好きな新堂冬樹らしいい作品だと良いのだが・・