ゆりかごで眠れ

ゆりかごで眠れ

ゆりかごで眠れ

「ゆりかごで眠れ」垣根涼介(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、クライムノベル、ピカレスク、コロンビア、マフィア、麻薬、新宿


※自分でもとても辛口な気がする・・。読まれる方は、覚悟するべし。


作品は、作家との関わりあいなくその作品単体のみで評価されるべきだと常々思ってきた。しかし、実際には本を選ぶ際、作家は重要な指針であり、またその作家に期待する作品というものがある。


垣根涼介という作家を意識したのは何気なく図書館の書架から手に取った「ワイルドソウル」。ブラジルへの移民施策の失敗の責任を取ろうとしなかった日本政府へ対する、日系ブラジル人による復讐。それだけを聞くと、とてもダークでバイオレンスなものを想像させるが、その実はラテンな女たらしの主人公の性格と行動が、暗い歴史への復讐劇をとても明るく楽しいものにしてくれた。それはおちゃらけたコメディーではなく、上質なエンタティメントとしてのハードボイルドでありミステリーであった。
そして、続いて読んだのが渋谷のストリートギャング、アキを主人公にした「ヒートアイランド」、そしてそれに続く「ギャングスターレッスン」(実際には「ヒートアイランド」はかなり遅く読んだのだが)。これらの作品も、きっちりハードボイルドあるいはミステリーであるが、根底にユーモアと明るさを持っていた。これらの作品と出会い、明るく楽しいクライムノベル作家という位置づけを、垣根涼介に、あるいは彼の作品に期待するようになった。楽しいというのが、ハードボイルドやミステリーに対しての褒め言葉になるのかどうかは別として、垣根涼介という作家にはそういうノリのようなもの似合うと信じた。
しかし「ギャングスターレッスン」に続く「サウダージ」辺りから少し怪しく、そしてその後出版された、関東の地方都市に住むサラリーマンの狂気を描いた「クレイジーヘヴン」で見せたものは、それを新しい境地というべきなのだろうか、今までの作風とはガラリと変わった、どうしようもない暗さだった。おそらく、その時点で垣根涼介という作家に期待する誰もが求めないものを、敢えて発表したかのように思えた。その後、個人的にはあまり評価していない作品「君たちに明日はない」で一瞬軽やかなユーモアとノリを見せ、ぼくらが期待する垣根涼介を取り戻したかのように思えたのだが、そこへ出されたのが本作。
いまさらこのスタイルの物語はないだろうというのが、正直な感想。得意とする南米の人々、今回はコロンビアのギャングたちを登場人物とするのはまだよいとしても、この物語は、例えばそのまま新堂冬樹の「悪の華」を思い出させる作品。なぜか純愛小説を多くものにし、多数の無垢なる女性読者の心を捕らえ、今や「白新堂」と昔からの読者に呼ばれている売れっ子作家、新堂冬樹は、もともとクライムノベル、ピカレスクの雄であり、読む者を選ぶエロとバイオレンス満載の、痛快で下品な物語を多く書いていた。そうした作品を書いていた頃の新堂冬樹を、今や昔からの読者は「黒新堂」と呼び、懐かしがり、また以前のその作風の作品を切望する。ここであげた「悪の華」はその黒新堂と白新堂の切り替えの過渡期にある作品。シチリアマフィアの抗争の結果、マフィアのボスである父を始めとする家族全員を惨殺され、たったひとり生き残った主人公が、叔父を頼りに日本に流れつき、復讐を心に秘め、新宿を舞台に繰り広げる裏社会の物語。そこにあるのは、昔ながらのハードボイルド、昔ながらの「男の美学」。いまどきのハードボイルドやミステリーでは見かけないような、戦闘能力に長けたスーパーマンな主人公が、たったひとりで組織に抵抗する。


本作品も、ある意味、そのパターンの物語。主人公たるギャングのボスは、決して仲間を裏切らず、捕らえられた自分の部下を救うために警察署に殴り込みをかけにいく物語。勿論、日本のヤクザの殴り込みとは違い、綿密な計算のもと、大量の火器を使用しての秒単位の華麗な作戦。そして、また部下を嵌めた者にもきっちりと復讐を行う。アクセントとして、警察を辞めたばかりの若い女性をヒロインとし、そしてまた警察という機構のなかで、自分の存在を必要悪と割り切る悪徳刑事を登場させる。さらに主人公が、コロンビアの貧民街で拾った少女との物語も絡め・・。
どこかで見たような、聞いたような物語。いや、それでも、ありがちな物語であったとしても、それぞれの登場人物に必然があり、それぞれに機能していればこの作品もそれなりに評価できる物語になったのかもしれない。しかし、残念なことに、この手のタイプの物語にありがちな荒事、頭脳ともに有能な主人公が、なぜかひとりの孤児の娘に愛情を注ぎ、それをサイドストーリーに進む、ありがちにしかすぎない物語。さらに興ざめなのは、この僅か6歳の孤児の少女が、主人公に抱く恋情に見せる、女の生々しさ。ちょっと、げんなり。また、自分の居場所のわからない元刑事の女性演じるヒロインもこの作品にいる理由が掴めなかった。そして悪徳刑事も同様。結局、彼はなんだったんだろう。唯一、竹崎という老人の底抜けの明るさが救い。竹崎のようなキャラクターが活躍するのが、ぼくらが期待する垣根涼介という作家の作品だと思う。もっとも、救いはそれだけ、そしてもっとも唖然としたのはそのラスト。はぁ、そうですか。 
「愛は十倍に、憎悪は百倍にして返せ」という言葉が、何度も出てくるが、これも作品に溶け込まずただのかっこいいフレーズにしか見えないのも、口惜しい。


もちろん読者が作家に期待するということは、読者の勝手な思いこみで、作家は自分の書きたい作品を自由に書く権利があり、また自由に創造の翼を広げ、作品を発表するべきなのであろう。従来の作風を大きく変えることでさらに大きく羽ばたく作家も多い。しかし、裏切るなら、裏切るなりの作品を上梓する責任はあるのではないか。いや、決してこの小説が読み物として及第でないという訳ではない。ありがちな物語を、ただ愉しむための読み物なら、それはそれで十分及第な作品であると思う。しかし、垣根涼介を期待する読者ならば、裏切られたと、あるいは垣根涼介の作品として及第に達してないと思わざるを得ないだろう。
ここでぼくは自らの矛盾に気づく。冒頭で述べた「作品は単独で評価されるべき」という考えとの矛盾。
垣根涼介という作家の名前を外して、純粋な意味でこの作品を、そう例えば新人作家の作品として読んだならば、どうなのだろう。おそらく、ここまで苛烈な意見、感想を持たなかったと思う。ただ、ありがちな物語を読んでしまったとだけ思うだけ。
そうであるならば、やはり作家と作品は切り離して読むことはできないのだろうか・・。作品とは別なところで考えさせらる作品であった。


蛇足:この作品の表記のこだわりがが「悪の華」を彷彿させた第一の要因。「悪の華」ではマフィアをマフィオソと描き続けたことがとても印象に残っている。本作品もコロンビア語での表記にこだわる。しかし、表記が統一されないのが気になるところ。例えば「殺し屋」と書いて「シカリオ」と仮名を振り読ませる。あるいは貧民窟(ファベーラ)、麻薬王(ナルコ)など。しかし、表記の統一が取れてなく、突然カタカナで表記したり、また漢字表記で仮名を振ったりと、冒頭のコロンビアの実態を描く部分では、何度もページをひっくり返さねばならなかった。コロンビアの言葉にこだわるのはいいが、もう少し丁寧に扱って欲しかった。
とくに主人公を指す「エル・ハポネス」(日本人)の表記には、通り名のそれか、固有名詞のそれか、きちんと区別するように表記に気を遣って欲しかった。