ケッヘル−下−

ケッヘル〈下〉

ケッヘル〈下〉

「ケッヘル−下−」中山可穂(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、モーツァルト、旅、ミステリー、父子、指揮者、ピアニスト、サスペンス、連続殺人


※少しネタバレあり、未読者は注意願います。
※「ケッヘル−上−」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/37544564.html ]より続く


ああ、残念だ。中山可穂の新境地ともいえる本作品であったが、下巻、それも後半になって急に失速してしまった。この物語は主人公、木村伽椰という語り部を通した、遠松鍵人というあるモーツァルティアン(モーツァルトマニア)の数奇な人生の物語だと思って読んでいた。しかし、終盤からただのサスペンスになってしまい、バタバタとまとめられてしまった。結局、最後はそこで落ち着くのか。この終わり方もありがちとはいえ、決して悪くないのかもしれない。しかし、もしこの終わり方にするならば、やはり前半と同様に書き込んで欲しい。伽椰の出会う新しい恋人、謎のモーツァルト専門の新進ピアニスト安藤アンナと伽椰の結びつきの描写は、まったく不足している。最後を伽椰とアンナの物語にするならば、やはりもう少し深く書き込んで欲しかった。前半、伽椰が連続殺人に巻き込まれるモーツァルトの旅や、鍵人の数奇な人生の物語に比べ、後半の、事件の謎の解決、種明かしはスカスカな感じがしてならない。
正直、伽椰の旅の物語と鍵人の物語が融合する瞬間はとても素晴らしかった。ああ、ここでこの男と繋がるのか。それは想像もしていなかった。いや、鍵人の物語にこの男が出てきたとき、成る程、こういう繋がりがあったのかとは確かに思った。しかしここにこんな事件があり、ふたつの物語がこのような形で融合されるとは予想もしなかった。しかしこの問題の男、本当になんてイヤな奴なんだ。ここまで倣岸に自分本位の男って・・・。
しかし、出来すぎに見えたふたつの物語の融合は、残念なことにぼくの期待したような大きな奔流とはならなかった。この先に怒涛のような、荒れ狂う大河のような物語を期待していたぼくにとって、正直いささか期待はずれな物語で終わってしまった。これでは女流作家の、例えば小池真理子の書く単なるサスペンス小説ではないだろうか。
いや、実はこの小説は恋愛サスペンスであり、ミステリーではないのかもしれない。物語で起こる連続殺人事件はあくまでも、主人公伽椰の出会う恋人安藤アンナに繋がる数奇な運命のひとつであり、この物語はやはり主人公、伽椰の物語なのかもしれない。しかし、もしそうだとするならば遠松鍵人の物語はあまりに余計なものであり、もっと割愛すべきであろう。
そうではない。やはり、この物語の尤も愛すべきエピソードはやはり鍵人と美津子の出会い。ボーイ・ミーツ・ガールの部分であると思う。無人島で出会う、穢れを知らぬ無垢なる魂の出会い。モーツァルトの、ケッヘルの謎に翻弄されこの地へ辿り着いた少年が、少女と出会うこと。ぼくはこのエピソードが、この物語の核であると信じる。残念ながらハッピーエンドには繋がらないが、この物語はこの二人の出会いが中心であるし、また作品としてそうあるべきだったと思う。そういう意味で主人公伽椰の物語に終わったことは、やはり残念であった。


そして、また作品は色々な点で荒さが目立ってしまった。ただの便利屋に終わる鎌倉の友人アロイジア。事務所のよし子ちゃんは、どこまで関わっていたのか。唐突なヘロイン。フリーメイソンの謎の実力者コオロギさん。漁師をしていた遠松鍵人の資産の謎。鍵人と遠松家とのそれからの繋がり。伽椰の前夫の物語。ほかにも幾つか、突然の提示や、投げ出されたままエピソードがある。ぼくが読み落としている部分もあるかもしれないがどうしてもこの辺りの扱いの荒さが気になるところ。


物語は、最後まで書ききられて、あるいは読み終えて初めて評価の対象とすべきなのだ。珠玉のエピソードも、つまり、料理法次第。あるいはこれを料理に例えるならばコース料理なのだろうか。せっかくの素材を活かした料理も、最後の一皿でひっくり返されることもあるなのか。
この作品を、普通に、娯楽読み物として読むのであれば、それはそれで悪くない作品なのかもしれない。しかし、途中まで文芸ミステリー大作を期待して読んでみると(そして、それを期待させる描き方であると)、この終わりはちょっと乱暴。こういう作品は、最後をうまく(?)まとめて、終わりよければ全て良しではいかないと思う。


とはいえ、これからの中山可穂に期待しないというわけではない。中山可穂らしいといえる、ストーリーテラーに変容するならばまた新たな中山可穂との出会いという意味で楽しみである。しかし、もしどこかにいるような女流長編作家のひとりで終わってしまうならば、それはとても哀しいことだと思う。