黒と茶の幻想

黒と茶の幻想 (Mephisto club)

黒と茶の幻想 (Mephisto club)

黒と茶の幻想恩田陸(2001)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、青春、モノローグ、回顧譚


あの頃の仲間とあの頃に戻り、あの頃を語る。こういう物語をぼくは文句なく好きなはず。しかし今回はダメだった。それは個人的な事情、2006年秋現在、ぼくをとりまく状況のせいなのかもしれない。ネットを通じ、予想もしなかった小学校時代の友人との邂逅に始まる、自分自身の「あの頃」への回帰。それはこの物語の主人公たちのより更に若い年代への回帰であった。丁度この前に読んでいた「The MANZA」(あさのあつこ)や、「夜のピクニック」(恩田陸)の登場人物の年代を上限とする男女が無邪気に交流できた時代へぼくが帰ってしまったからなのかもしれない。しかし決して、それだけではないのかもしれない・・・。


恩田陸という作家とは、どうもあまり相性がよくない。ネットの本読み仲間でも心酔し、ファンだと自認するものを多く知る。評判は昔から聞いており、幾冊かのこの作家の本もとりあえず読んではいる。しかしタイミングが悪いのか、はたまた根本的に相性が悪いのか、たまたま似たような題材のもっと深い本を読んでいたり、なんとなくノリきれないで終わったりで、どうもいい印象を抱かぬうちに終わっていた。
しかし今年、恩田版「ガラスの仮面」といわれる「チョコレートコスモス」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/33555892.html ]を読み、やっとおもしろい作品に出会えた。そして今更であるが評判の高い「夜のピクニック」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/39962155.html ]を読みヤラレた。作品で語られる、肉体を酷使し、一夜を通じ歩くことを追体験しようと、東京〜横浜の約30kmを歩く「ぷち歩行祭」をも企画し、実施しようとしている(2006.10.27実施予定)。
そんななか歩行祭の参加者のひとりで、ネットを通し親しくさせてもらっている「こばけんdays」のこばけんさんから、さりげなく薦められたのがこの一冊。「美しい謎」を語ろうか。十数年ぶりに会い、日常を離れた旅を行なう大学時代の男女四人の友人たちの物語。自然に囲まれた屋久島を舞台に、山道を歩きながらあのころを語り合う物語。青春小説大好きなぼくの心に、ど真ん中に響きそうな作品なのだが、残念ながら、今回はダメだった。


十数年ぶりに会った三十代後半の男3人、女2人の大学時代の友人たち。彼らのひとりが家業の医院を再興するために田舎に戻るということをきっかけに集まった。今やそれぞれ別の道を歩む彼らは、それぞれ家庭を持ち、あるいは密やかに離婚をしている者もいた。しかしそれでも仲の良かった者たちが集まれば、そこには友人という関係が今もそこに変わらず存在した。高田馬場にある学生時代の馴染みの焼き鳥屋さんに顔を出せば、今や自分たちのほうがずっと年上のはずなのに、あの頃の自分たちより年長の客の姿に気詰まりを感じる。あの頃の仲間と、あの頃の場所に戻れば、あたかも自分たちもあの頃に戻れたかのように。そして田舎に戻る1名を除き、残りの4人で日常を離れた旅を行うことが企画される。Y島、世界遺産。太古の森の森林浴。それは企画されても行われることはないだろう、そんな酒の席での戯言で終わるはずだった。
しかしメンバーの1名が企画を実行に移し、その日常を離れた旅が行われることになった。
「梨枝子」「彰彦」「蒔生」「節子」の四章からなる長編。それぞれの章のタイトルとなっている人物のモノローグで物語は進む。それは旅の目的地であるY島への旅の物語であり、Y島で過ごし、巨樹を訪ねる徒歩旅行の物語。彼らは旅のなかで「美しい謎」と呼ぶ、日常の謎、あるいは過去の謎を掘り起こし語り合う。そして幾つかの謎の真実に辿り着く。それは彼らのなかだけの真実。そしてまた十数年後にY島を訪ねることを約束して旅は終わる。


何年かぶりに会う学生時代の友人とともに、気持ちはあの頃に戻るというのは大人の青春物語の王道。てっきりこの作品も、そのひとつと思っていたのだが、どうもちょっと違う気がする。この物語ではその時代に投げかけられ、そのままになっていた謎を今一度掘り起こし、謎を解明しようという営みが行なわれる。あの頃を振り返るのではあるが、決してあの頃に戻るわけではない。主人公たちはそれぞれ立派に大人に成長し、結婚し家庭を設ける者、あるいは密かに離婚をする者もあり、それぞれがそれぞれの事情を抱えていた。そんな彼らが日常を離れて向かうのは世界遺産として認定されたJ杉をはじめとする巨樹の森の島、Y島。
ところでY島は明らかに実在の「屋久島」を指し、J杉も「縄文杉」であるのは自明なのだが、作家はなぜかここで固有名詞を避け、「Y」や「J」というイニシャルであらわす。なぜだろう?。ぼくは違和感を覚えた。大学時代の馴染みの焼き鳥屋は「高田馬場」にあり、あるいは旅行の企画の際には「伊豆」という言葉も出てきているのに。それはもしかしたら作品のどこにも明記はされていないものの、この作品がいわゆる「三月」シリーズというものの一作となっているからなのかもしれない。虚構という物語の世界の維持。しかし以前より単体の作品として発表された作品は、単体の作品として成立すべしと述べるぼくにとっては、仮にこの作品があるシリーズものの中のひとつの作品であっても、まず単体の作品として評価したい。なお、このレビューでは余談となるが「三月」シリーズとは、「三月は深き紅の淵を」から始まり、「麦の海に沈む果実」、「黒と茶の幻想」「黄昏の百合の骨」と続くシリーズだそうだ。残念ながら今回はあまり評価できなかった本作品であったが、シリーズを連ねて読むことでまた、別の感想を抱くのかもしれない。


話を戻す。この作品が、もし「大人の青春物語の王道」を進む作品であれば、主人公たちは物語のなかで「気持ち」だけは「あの頃に戻って」物語を進めていくのだと思う。勿論、日常を離れた世界で気持ちをあの頃に戻しても、現実のしがらみを逃れきれるものではないかもしれない。しかしそれでも、あの頃の自分自身にいまの自分を投影することが、大人の青春物語の王道であると思う。しかしこの物語は、日常の生活を離れた、旅という別の世界に身を置くのではあるが、主人公たちはあくまでも今現在の彼らであり、決してあの頃の無邪気な存在ではない。冷静な大人である彼らが「記憶」をあの頃まで「戻す」物語ではあっても、「あの頃に戻る」物語ではない。至極冷静な回顧譚。
もちろん彼らが友人としていちばん仲良く過ごした時代が学生時代であり、それがもはや大人と言える大学時代であったからなのかもしれない。自我を確立し、確固たる己を持った時代であればこそ、それはもはや「あの頃」であっても「いま」と気持ちが変わることがなく、ただ時が過ぎ、取り巻く環境が変わっただけなのかもしれない。
それはまたもや個人的な事象であるが、この作品のレビューに手こずっている間に行なわれた会社の同期の集まりに出席したことで知ることができた。大学を卒業し、入社して17年、その間あまり同期会を行なっていなかったせいかもしれない、同じ会社で働くもの、転職したもの、久しぶりに集まった顔は様々で、会は楽しく、懐かしかった。しかしそれは決して無邪気な「あの頃」に戻るものではなかった。ああ、そうか、そうなんだ。そのとき、やっと作品の本質に触れた気がした。この作品は、ぼくの考える「あの頃」の物語ではない。明らかに読み方を間違えていた。


しかし今更ながら読み方を変えたとしても、ぼくはこの作品をあまり評価しない。顔が見えないのだ。幼い頃の自分と違う、いまや人々の集まりのなかで自然と中心的となる姉御肌的な性格を見せる節子を除くと、主要な登場人物の姿を思い浮かべることができないのだ。端正な顔で、喋りさえしなければと言われる彰彦も、文章で書かれるほどの毒舌も、シニカルも感じられない。女性陣からマキオちゃんと呼ばれ、設定的には善良そうだが、じつはとんでもなく不実で、密かに実質的に離婚をしている蒔生も、状況は分るのだがその姿かたち、性格が思い浮かばない。梨枝子に至っても同様。モノローグで語られる物語で、主要な登場人物が四人のみなのに、その姿や性格が思い浮かばないというのは、どうなのだろうか?
それとも、これはぼくという読み手の資質の問題なのだろうか。多くの読書人がこの作品のなかにある、切なさや、不実と誠実、狂おしい想いなどを評価するなかで、なぜぼくはこの作品を楽しめないのだろうか。
ひとつは、本格推理をきどった部分が相容れないないのかもしれない。「美しい謎」と呼ばれる謎の究明ごっこ。本格と呼ばれる、推理を弄ぶような作品をどうにも評価できないぼくにとって、幼い頃泊まりに行った鎌倉の叔父の家で毎朝叔母が、漬物石を二階の窓から落とす謎や、一晩であるクラスの生徒17件の家の表札が盗まれる謎、新幹線の車窓絡みえた新横浜と名古屋の駅のホームにいた同じおばあさんの謎などを、空想を弄びまことしやかに語ることが合わないのかもしれない。
あるいは学生時代につきあっていた蒔生と梨枝子の物語に共感できないからかもしれない。出会う順番が違っていたら(このモチーフは「夜のピクニック」にも出てくる)。梨枝子の親友、憂里の登場により、別れることになるふたり。(そして、この憂里がまた「3月」シリーズで重要な登場人物らしいのだが)。そして、卒業の際の独演会を最後にその姿を一切消す憂里の謎。
しかしこのつきあっていたふたり、蒔生と梨枝子が、もはや大人であったにもかかわらずこの作品のなかでは、いわゆる男女の仲、ぬくもりを交わす相手であったのかどうかは明らかにされていない。この物語が無邪気な友人関係を描く物語であれば、そのことは重要ではないのかもしれない。しかしこの作品では、実の弟である彰彦への歪んだ愛情ゆえに、その頃の彰彦の友人を誘惑する、彰彦の美貌の姉、紫織のエピソードを語り、あるいは(じつは恋多き男)蒔生の憂里に対して行なった暴力を語る。ならば蒔生と梨枝子の関係についても語るべきであり、大人の恋愛であれば、それは避けるべき話題ではないと思う。そのことが書かれたなかで、なおかつ四人の友情が描かれていたなら、ぼくはもう少し作品世界に入り込めたのかもしれない。
内面をモノローグで語る物語、それは読み手の感情移入をたやすくするスタイルのはずなのに、逆にどこかガラス張りの温室の外から眺めているようにしか作品を感じられなかった。
そして最大の欠点は、この物語を誘う冒頭では友人たちは五人であったはずなのに、除け者にされたひとりが、まったく顧みられなくなってしまったこと。大学時代の馴染みの店で、十数年ぶりに会うきっかけとなる、それほど大事な彼は、振り返る「あの頃」の物語にも登場しない。それって、どうなのだろう。


この作品をぼくは評価しない。しかし、それでもこの作品を評価する人たちの意見に反論を唱えようというつもりはない。ここまでこの作品を評価しないと強く述べておきながら、実はいまだこの作品を理解できない自分に自身をもてないからだ。もしかしたらぼくだけが理解できないだけで、本当は(本当に)素晴らしい作品なのかもしれない。
どこかで、そう囁く声がする。しかしそれでもぼくは、率直にいまの感想を述べておく。まさに石を投げられる覚悟で。