星と半月の海

星と半月の海

星と半月の海

「星と半月の海」川端裕人(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、短編、自然、科学、生き物


それがこどもであれ大人であれ、男の子をとても生き生きと描く作家、川端裕人。彼をぼくはそう評してきた。そしてその一方で、作家となる前TV局の科学記者を経たという経歴のなかで常に科学に対し真摯に向き合う彼の姿勢を評価してきた。そんな彼が今回上梓したのは、「動物」をテーマにした短編集。
「みっともないけど本物のペンギン」「星と半月の海」「ティラノサウルスの名前」「世界樹の上から」「パンダが街にやってくる」「墓のなかに生きている」六編からなる。


正直に言えば、ぼくは動物に対し、それほどの興味を覚えない。犬や、猫の物語を愛す読者家諸氏と比べて、その類の作品はあまり楽しめない。川端裕人の新刊が出たというニュースを聞きつつも、あまり心が躍らなかったのも事実だ。
しかし、川端裕人はやはり川端裕人であった。動物をテーマにした作品たちであっても、いやそうだからこそか、科学に対し真摯に向き合う姿勢は変わらず、そしてまたそれが非常に好ましい一冊であった。正直、観念的でわかりにくい作品がなかったといえないわけではない。いや、わからなかった作品もある。生命の広がりというものの雰囲気をのみ味わったような作品も幾つかあった。一回読んだだけで、そのすべてを理解する(わかる)、あるいは理解しよう(わかろう)とすることが馴染まない作品なのかもしれない。


作品はそれぞれ単独の短編であるが、一部の作品では登場人物が重なる。「みっともないけど本物のペンギン」「パンダが街にやってくる」では某動物園の飼育係を勤める主人公「ぼく」と、その高校時代からの友人で動物園の近隣にある自然史博物館に務める蝦根貴明が登場する。蝦根は「墓のなかに生きている」では主人公を務める。あるいは「ティラノサウルスの名前」で主人公を務める、博物館の主任研究員である野火止誠と、その息子竜太郎(リュウ)と思われる親子は「世界樹の上から」にも登場する。しかしそれらのつながりはそれほど強いものでない。そのことに気づくと少し気持ちよいが、それぞれの作品はひとつひとつの短編として独立している。一冊の作品というより、それぞれの短編で評価すべきなのだろう。


個人的には「パンダが街にやってくる」が一番好きだ。「きみは」で始まる二人称の文体、動物園に勤めながら、野生のパンダに思いを馳せる主人公。そしてこどものころから、野生のパンダに親しんできた同僚の中国人の飼育係。政治の思惑のなかのひとつの駒とされる愛玩動物としてのパンダに対し、その野生を想像する主人公。もし現代の日本の街にパンダがひょっこり現れたら。その可愛らしい姿の下に秘める、荒々しい野生の肉体。そして最後に彼が喰らう、野生を象徴するもの。
パンダが街を実際に闊歩するかどうかということはどうでもよい。愛玩動物として一般的に愛されるパンダという動物の「野生」に焦点を当てる川端裕人という作家の姿勢が好ましかった。


「みっともないけど本物のペンギン」。「パンダが街に〜」とともに、本書のなかでは分かりやすい作品なのかもしれない。絶滅した本物のペンギン、オオウミガラスを巡る物語。19世紀には絶滅したと信じられていた、北大西洋を生息地にしていた、そのみっともない生き物が、日本に、それも20世紀半ばまでいたのかもしれない。北海道に足を運び、あるいはペンギンマニアから情報を辿り、主人公が最後に辿り着くものは。
絶滅した動物に思いを馳せる主人公の思いは、流行の自然保護ではなく、あくまでも科学的知的興味のそれでしかない。動物が可愛そうだからと声高に自然保護を訴えることとは違う、興味の対象としての生き物の喪失に、乾いた哀しみが漂う。


「星と半月の海」動物と心が通うと信じる獣医リョウコ。たしかに彼女はほかの人間と違い、動物たちと心を通わせているかのように動物をうまくあしらっていた。しかしジンベイザメだけは違った。まったく心が通わない巨大な生き物。そしてまたリョウコは高校生に入学すると半年で退学してしまった娘ともうまく心を通わせることができないでいた。日本を離れ、オーストラリアで行なう共同研究のなかで、ジンベイザメ、そして娘と心を通わせることができたリョウコ。しかし、それはとても微かなものであった。
ぼくは人間と異なる精神を持つ「モノ」と、人間の関わる物語が好きだ。人間の常識では理解できないような意思。そういうものに対峙したとき、人はどのように行動するのだろうか。人間としての常識を押し通すのではない、違うモノを認める、そういう物語が好きだ。逆に冒頭に書いたとおり、動物が人間と同じ精神構造を持ち理解しあうという物語はあまり好きではない。人間という存在が、別なる生命に己の常識を振りかざしているような、そんな不遜さを覚える。そういう意味でこのジンベイザメと心を通わせられないというシチュエーションは嫌いではない。そして、ほんの微かではあるがどこか解りあえる部分があるということもまたよしとする。
ただ娘との話を重ねるのは、ちょっとありがちな気がする。


ティラノサウルスの名前」博物館の研究者である主人公は、「恐竜」ではなく、恐竜時代に生きていた生物コリストデラ類を研究する。若い研究者が恐竜を話題にし、それが好きだという姿を見て、少し違うのではないかと思っている。そんな彼のもとに「ティラノサウルス」という名前が使えなくなるとメールが届く。小学校三年生の息子と訪れた夜の博物館で起きる出来事。恐竜好きだった自分のこども時代を思い出す主人公。そして、やはり自分も恐竜に魅せられていることに気づく。
丁度、苦労してこの川端裕人の「竜とわれらの時代」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/44791657.html の再読レビューを書き終わったところだっただけに、ちょっと期待をした恐竜を巡る物語。残念ながら、それほど明快な作品ではなかった。結局、何を言いたいのかを掴みきれなかった。ただ川端裕人という作家がいかに古生物を好きなのかということは伝わる。
ところで作品タイトルになったティラノサウルスの「名前」について、この作品は何を訴えようとしているのだろう。ぼくには、その先を見つめる研究者たる主人公にとって、名前自体はあまり拘りを持っているようには読み取れなかったのだが、いかがなものか。


そして残るふたつの作品、「世界樹の上から」「墓の中」はちょっと観念的に過ぎるか。もう少し解りやすいとよい。はたまた読み手であるぼくが、もっとじっくり読むべきなのか。


この作品も万人にオススメと言えるほどの強さのある作品ではないのかもしれない。しかし、この真摯な作家の姿勢は毎度のことながら望ましく思える。男の子を描く作家としての川端裕人でない、科学作家としての川端博人の魅力に改めて触れることができる作品。川端裕人が好きなら、そしてまたこの作品が好きだと思えるなら、ぼくは先に触れた彼の「竜とわれらの時代」を改めてオススメしたい。少しとっつきにくい部分もあるが、素敵な物語なのだ。