生きてるだけで、愛。

[rakuten:book:11881425:detail]
「生きてるだけで、愛。」本谷有希子(2006)☆☆☆★★
※[913]国内、現代、小説、文学、メンヘル(精神病)


ああ、これはダメだ。どうにも受け付けない。終り。
・・・では、あっけなさすぎるだろうか。


ぼくは人の多様性は認める。すべての人が同じ方向に向いてしまうなんて恐ろしすぎる。しかし「多様性」を認めることと、「多様の人」を認めることは別だ。メンタルヘルスメンヘル)の人たち(精神病の人たち)の存在は認める。そして、かっての時代と違い、そういうことを以前よりは負の要素として隠さないで生きていける現代という社会もよいことだと思う。でも、それとは別にこの作品の女性主人公のように自己中心的な人間はダメだ。メンヘルが問題だというのではない。他人を思いやる気持ちを持てず、自分中心的な視点で、自分以外に文句を言っているような態度がダメなのだ。いや、作品で主人公も自分が人と違うとか、どうしようもないとかいうことは言葉にしている。しかしそれは内側に向かうだけで、外側に変革しようとしない。そういうことが受け付けられないのだ。


この作品の主人公は欝で部屋に閉じこもり、何もできずただ過眠を過ごす二十五歳の女性。同棲している恋人の部屋の物置にしている狭い部屋に二十日間以上篭っている。おなかが空けば弁当を買いに行くが、そのほかは部屋で寝て過ごす。今日は十七時間以上寝てしまった。合コンで知り合いそのまま付き合い、一緒に暮らし三年経つ同棲相手は、そんな彼女に自然体で声をかけてくる。しかし、その行動のひとつひとつが彼女には気に入らない。
そんなある日、同棲相手の元恋人が現れ、女主人公以上に自分勝手な言動を吐き、行動を起す。彼は本当は私とやり直したいはず、あなたに別れを言い出さないのは彼の優しさで、自分から身をひくべきだ。執拗にドアのチャイムをならし、主人公を連れ出し、訴える女。
そしてその女の言うがままに、元ヤンキー夫婦の経営するイタリア料理店でバイトをする羽目になった主人公は・・。


同棲相手の元恋人の(健常人である)女に振り回される主人公と同化して作品を読んでいると、主人公の自分勝手さを一瞬忘れてしまう。いや嘘だ、やはり忘れられない。彼女が欝ということいに甘えているとは言わない。ただ認めてくれる人が居るということで、自分に甘えている、ぼくにはそう思える。
いや違うんだよ、これがメンヘルであり欝なんだ、それを追い詰めるのでなく、解ってほしい。そういうこともわからないわけではない。でもそれはきっとメンヘルに限らないこと。自分を解って欲しい、理解して欲しい、それは人としての根源の願い。だから頭では理解できる、しかしなんだかやはり最近、巷で見かける「メンヘル」「メンヘラー」の言葉には居心地の悪さを覚えてしまう。弱者が、弱者を振りかざしているように見えるのだ。私は弱者だ、だから許してほしい、と。それはまさにこの作品で描かれる彼らのネットでの書き込みに現れる。その自分勝手な思い込みの世界は、決してメンヘルの人に限らないことだと思うのだが、それが「メンヘル」を振りかざすことで許されるように思っているように思えてならない。そしてまさにこの作品にはそのこと感じたのだ。自分の欝を自覚し、ネットの掲示板に仲間を見つけ書き込みをしながら、そこにいる人間が自分に同意している間は同じ仲間だと思い安心しているが、心の底では自分とは違うと思っている。同棲する恋人に無理難題を言い募る。欝であることを知りつつ主人公をバイトとして雇い、「ガッキー」と呼び、その家族家全員で暖かく受け入れるバイト先のオーナー家族に対し、裏切るような行動をとる。
人の心を裏切るような行動を、メンヘルだから許してしまったいいのだろうか。ぼくには、そこのところを理解できない。この物語は結局は何ものを求めない、同棲している恋人の無償の愛によって収束する。主人公を受け入れ、認める存在があればこそ成立する物語。


認めることから始まる。愛は許すこと、無償のもの。そのことは深く理解する。でも、彼らがそのことに甘えるのだとしたら、ぼくはやはり不快だ。理解はしたい、外から見えない辛さがあることも理解する。戦おうとすることが、治癒を遅らせることも頭では知っている。ならばぼくは、何が欲しいのか。


人を裏切るようなことはしてはいけない。自分の病気を認めることと、自己憐憫をすることは違う。そういうことなのだ。病気にかかったことで何でも許される特別な人間になるわけではない。


もしかしたらぼくは全然メンヘルのことやメンヘラーを理解してないのかもしれない。彼らにとっても、それは当たり前のことなのかもしれない。理解はしていても、心がついていかない。それが故に自嘲的なふるまってしまうしかないだけなのかもしれない。しかし、だとしても・・とぼくは思うのだ。


この作品だけで、彼らを理解したり、知ろう、いや、知ったというつもりは勿論ない。しかし、この作品を読んでぼくはどうしても不快感を覚えざるを得なかった。それはやはり、バイト先のイタリア料理店の家族の、色眼鏡をかけない受容に対して、主人公が結果的にとった振る舞いが故なのかもしれない。
恋人が彼女を認めることは、惚れてしまえばアバタもエクボであり、どうでもよい。


そういう意味で併録の「あの明け方に」はまさに、メンヘルの女性とその恋人の物語。自分勝手な主人公と、それを受容する恋人という構図が表題作と同じ作品であるが、よほど気持ちよく読めた。


と、拉致もないことをつらつらと綴ったこのレビューをどうしようと逡巡しているところに、大学のサークルの後輩の訃報が届いた。まさにメンヘルであった彼は、やはり大学のサークルの後輩であったぼくの家人と同級生で、親しくしていた。理解をしようと思いながら、家人から聞く「頭痛さえなければなぁ」と言いながら、語ったという近況を聞きながら、やはり理解しにくかった。同じサークルであれだけ快活に過ごしていた彼が、そんな風になっていることは、ぼくには情報として知るに留まっていた。家人ら、親しかった同級生たちに届いた彼の家族からの「心不全」の言葉の裏には何があるのだろう。二十代のはじめから、三十九歳までのその期間、彼は何を思い、どのように生きていたのだろうか。


彼らを認めないわけではない。ただ、彼らのすべてを認めたいわけでもない。それは彼らが「メンヘル」であるからでなく、いわゆる健常人であれ、認めたくない人間もいるということだ。伝わるだろうか?


蛇足:あぁ、ぼくも相田みつをの氾濫はダメ。解りやすすぎる。
同じように解りやすい言葉を使いながら、深さや広がりを感じさせる詩人、八木重吉を知らしめたい。