P.I.P.

P.I.P.―プリズナー・イン・プノンペン

P.I.P.―プリズナー・イン・プノンペン

「P.I.P.(プリズナー・イン・プノンペン)」沢井鯨(2000)☆☆★★★
※[913]、国内、小説、ミステリー、カンボジアコンゲーム

もと中学の教師イザワは、カンボジアの都市、プノンペンでいわれなき罪で逮捕され、収監された。俺は何もしていない。俺は友人を騙したネパール人を捕まえようとしただけだ。汚職、わいろが当たり前のカンボジアの警察で、叫ぶ主人公の言葉は無視され、懲役12年の判決が下る。失意の獄中生活のなか、起死回生の脱出作を思いつき・・。

私事だが、僕の妹はカンボジアカトリック教会関係のボランティアで派遣され、その地で出会った人と結婚した。彼はこの書で詳しく書かれるポルポトの時代、幼少の頃、家族と離され子供たちだけ隔離された強制収容所にいたこともあったという。いろいろな経緯の中で、小学校5年のとき、難民として日本へ来て、専門学校を卒業後、平和を取り戻した祖国の復興のために戻っていった。妹は、彼とカンボジアで出会ったのだが、彼は、そうした経緯の持ち主なので日本語が話せ、アジアという同じ地域の国で、ぼくらがのほほんと暮らしている間に、常に死と隣り合わせの生活をしていたと聞き、おどろいたものだった。ちなみに、今も銃を持ったボディーガードを雇い暮らしている。

この本は、作品の出来とは別に、そうしたカンボジアに起こったことが、とても簡潔にわかりやすくまとめられている。カンボジアの今に至る歴史を理解するには、よい本だ。
しかし、ひとつの作品として評価すると、途端に評価は下がる。ノンフィクションとして書かれたものならよいのだろう。だが、フィクション、小説として書かれたものとして評価した場合、体験した現実をベースに書かれた種々のエピソードが(それ自体はとてもおもしろく興味あるエピソードなのだが)、決して物語を進める必然になっていない。一例をあげれば、主人公が収監された牢獄で過ごす他の受刑者の紹介が、延々される。しかし、そこで紹介されたことが、作品の中の主人公に絡んでいない。確かに、紹介された受刑者は主人公と作品の中で絡むのだが、わざわざ紹介されたその受刑者の具体的なエピソードが、作品において生きていないのだ。
確かにパワーのある一冊ではある。しかし、それは物語としてでなく、作家の実体験を書いたという意味で、であり、それは作品として評価されるものではない。

妹とその旦那、そして甥たちが過ごす、いま現在のカンボジアが、本書のままなのかどうか、分からない。ただ、実際にこうしたことがこの国にはあったのは事実だ。それは、ポルポトの時代の影響であり、今はもう、なくなっている。そう信じたい。

蛇足:沢井氏の「葉月」という作品を読んだことがある。こちらは完全なフィクション。本書「P・I・P」と同じ匂いがし、ある意味、「P.I.P.」を作家が、昇華させ、完全な虚構(小説)としたともいえる。マッチョな主人公が、渋谷で美少女と知り合い、鍛え抜かれた肉体を武器に少女を救う。主人公には、愛する聖女がいて、たとえ簡単に女を抱ける場面でも、抱きはしない。ほとんど「ファンタジー」(文学用語のそれでなく、現代の日本で、揶揄表現とされるそれ)の世界。それは、それで、きちんと物語されていてよかった。ただ、この作品、最後でよれちゃうんだ。残念なことに・・。