ボディ・アンド・ソウル

ボディ・アンド・ソウル

ボディ・アンド・ソウル

ボディ・アンド・ソウル古川日出男(2004)☆☆☆☆★
※[913]、国内、小説、現代、文学、混沌、フルカワヒデオ

だって、好きなんだもん。古川日出男

サウンド・トラック」を評したときも、述べたが、ぼくにとって古川日出男は、「読む」ことのためにあるという位置づけにある。
小説としての、あるいは、物語としての何よりも、その文体から溢れ出す、彼の思考パターンの生み出す、まさにパターン(模様)に、リズムに、旋律に心酔する。これが、ぼくの彼の読み方。一般的な作家として、万人にオススメできるとは、まったく思っていない。
未読の方は期待して読んではいけない。ただそのリズムに、旋律に身を預け、心地よかったら良し、ダメなら仕方ない。間違っても理解しよう、共感しようとしてはいけない。努力してわかるべきでない。そんな作品。そんな作家。
ネットでも、本読み人の意見はふたつに分かれる。「おお!古川日出男!万歳!」か、「小説であるならば、もっと普遍性を持つべき」。後者の意見、尤も。至極同意。ぼくも古川日出男以外の作家の作品だったら、そう評していた。なんて、いい加減な俺。いや、ぼく。

作品はフルカワヒデオを名乗る「僕」の視点で描かれる、僕の生活、思考。それはこの本の作家、古川日出男の生活と重なる。実在の出版社名、そこに働く各編集者との打ち合わせを描く、その一方で、己の裡にある、漠たる想い、思考、考え、イメージを書く。決して論理的に閉じられたモノでなく、まさしく書き殴られたように、。ひとつのモチーフが日常生活であり、ひとつのモチーフが創られる、湧き上がる物語であり、そしてなくした、亡くした?妻チエ。
一見ノンフィクションの形態をとりながら、実は、現実の古川日出男の世界に拠ったフィクションである。そう読むべきであり、そういう作品と認識すべきだ。たとえ、現実の世界のファクト(事象)を書き、評し、論じた部分があったとしても。

作品に拠れば、古川日出男はぼくと同年代(ぼくより一つ下)。若い頃、小劇団のシナリオライターもしていたようだ。現在の小劇団がどうなのかわからないが、ぼくが高校から大学の頃の、そしておそらく彼が活躍した頃は、ちょうど小劇団ブームのひとつのピーク。饒舌な台詞まわし、象徴的な会話、多重構造の物語といった作品がひとつの形式であった。ぼくも友人が故如月小春の小劇団noiseに関わっていたお陰で(この部分、ちょっと自慢)、よく小劇団の劇を見に行ったもんだ。おしりの痛くなる座敷席で、「まだお客さんがいらっしゃいますので、皆さんの協力で、もう一列席を作らせてくださぁい。いっせいのせっ。」なぞと、早く劇場に来ていても全然いいこともなく、若さと熱気にあふれるだけの作品ばかり観てきた・・遠い目。
ま、そんな匂いのする作家、作品。

今回のアーティクルは、書評でも、感想でもない。ただの戯れ言。でも、それでいいかなと自分では思う。書き続ける意義。

ただ、間違えて欲しくないのは、それでも、この作品はただの書き殴りなどではなく、純然たる文学もしくは文芸として確立した作品なのだ。客観的な完成度の如何はともかくとして。