おがたQ、という女

おがたQ、という女

おがたQ、という女

「おがたQ、という女」藤谷治(2004)☆☆★★★
[913]、国内、現代、小説、文芸

居心地の悪いことが、心地悪い作品。
読んでいて居心地が悪くても、不安や焦燥感を読者に喚起させても、それが心地よい作品なら評価は高い。しかし、この作品は居心地が悪いだけで終わった。文芸書として、一気に読めた。そしていろいろな感想が喚起された、それが作者の狙いなら、当たり。読む分には、読める。途中で投げ出すほどの駄作ではない。しかし、この先何かあるはずと思いながら読んでいて、結局何もなかった。
あくまでも物語が好きな、ぼくの主観としての感想。ネットを見回すと、ぼくの想いとは別に好評。でも、ぼくはそうした意見に迎合しない。

エセ文化人の父と、父に心酔する母の間に生まれた少女の一生。エセ文化人の父とその母は、子どもの泣き声に嫌気がさし、1歳になる少女を沖縄の祖母のもとに預ける。沖縄の自然と、祖母から伝えられる沖縄文化の中で育った娘は、ある日、世間体を気にした両親に、東京に呼び戻される。友人も作らず、ただ一人自分の世界で生きる少女は、自らを「おがたQ」と名乗るようになった。映画をこよなく愛する娘は、映画を作らんがために日大の芸術学科に入った、娘は借りてきた知識を滔々と語る仲間たちとの日々を過ごす。そして、父親の思惑も絡まった中で、CM女優としてデビューする。

とあらすじを書くと、なんだか少女の人生にいろいろあるように思えるのだが、何もない。他人との人間関係を築こうとしない彼女は、かといって、何かを志し、成し遂げようとするワケでもない。聡明で、美しい女性がそこにいるだけ。心酔した、映画という世界も、途中ですっぱり置き去られる。成長のために、何かを置いていくということでもない。

徹底的な第三者の視点で描かれた作品だが、作者は何を伝えたかったのだろう?好意的に見れば、何度も読み込めばわかるのかもしれない。心に残る断片は確かにあった。

ところで表紙の絵、もう少しなんとかならなかったのかなぁ・・