ミッキーマウスの憂鬱

ミッキーマウスの憂鬱

ミッキーマウスの憂鬱

ミッキーマウスの憂鬱」松岡圭祐(2005)☆☆★★★
※[913]、国内、小説、現代、ディズニーランド

ディズニーランドが好きな人は読んではいけない。
本読み人も、よほど読む本が無い限り読んではいけない。
好きな作家の一人である松岡圭祐が、なぜ、このような一冊を書いたのか分からない。以下、もしかしたらネタバレ含むかもしれないので、この先を読まれる方は、覚悟して読んで欲しい。

ディズニーランドという夢の世界の舞台裏で、ミッキーマウスの着ぐるみの紛失事件が起こった。責任逃れと保身しか考えない本社の人々と、ディズニーランドを支えている現場で働く準社員を中心としたキャストたちの物語。最後はお約束の大逆転、大団円。

大逆転、大団円のはずなのに、全然すっきりしない。なぜか。この作品で悪役となるオリエンタル「ワールド」の社員も、ディスニーランドの裏方であるはず。その彼らがディズニーランドは「夢の世界」なんかでなく、あくまでも「商品」としてしか考えていないと言い切ってしまうこと。ステレオタイプに現場の人間を善玉、現場と離れた本社上層部を悪役と割り切るためには分かりやすいのかもしれない。しかし、ぼくらが抱くディズニーランド、ディズニーシーという共同幻想をぶち壊す。なぜ「ディズニーランド」という実在のテーマパークの名称と舞台を、そのまま作品の舞台にしていながら、「オリエンタルランド」社でなく「オリエンタルワールド」社なのか?フィクションとしながら、あたかもノンフィクションのように、舞台裏の話を散りばめるのは何故か?そこにあるのはフィクション(虚構)の形をとりつつ、読者に、でもこれが真実ですよと囁く作者の姿が浮かんで見える。
でも、これは真実なのか?仮に小説に書かれた物語が事実でないとしても、これは真実なのか?
いや、それが仮に真実だとしても、ぼくは読みたくなかった。ディズニーランド、あるいはディズニーシーという日本において稀有に成功し続け、夢の世界を維持し続けるテーマパークの夢を壊す意味が分からない。なんらの大きな作品意図をもってされているのならともかく、ただただ本社上層部と現場の対立を描きたかっただけなのなら、「ディズニーランド」という名称でなくてもよかったはず、それをイメージさせるテーマパークを作品で作ればよかったはず。
最近様様な事件があったが、少なくともいまだに「ディズニーランド」は夢の世界であり、そこを訪れるゲストは心から、そのことを楽しもうとしている。それは心のスイッチを切り替えるように。そして、そのゲストの夢を壊さないように、このテーマパークは常にメンテナンスを行い続けている。それが米国ディズニー社との契約に基づくマニュアルに従うものとしても、そこには徹底的な夢の世界の構築と、維持がある。それは、ハイファンタジーの「世界の構築」のように。
作品の中でもそのことは触れられている、いわく、アトラクションでの「いらっしゃいませ」の禁止。別世界へゲストは参加しているのだから。いわく、ミッキーマウスの中に人間がはいっていることはさとらせてはいけない。その着替えさえ、一部のスタッフのみに委ねられる。あるいは、その中の人の名前が流布しないよう注意する。だれもが、ディズニーランドが虚構であり、ミッキーマウスの中に人間がはいっていることを知っている。しかし、そうであっても人々はひとたびディズニーランドの中に足を踏み入れ、ミッキーマウスに会えば、心から喜ぶ。アトラクションはその長蛇の列に並ぶことさえも、楽しい時間として過ごす。

善意ある裏話であるならば、この作品は楽しめたのかもしれない。
しかし、作者は自分で気づかないのかもしれないが、なんとも悪意を感じる作品だ。俺が夢の世界の本当の仕掛けを教えてやるよ。それは手品のタネ明かしのようなもの。なるほど、確かにこの作者はそうしたことを今までしてきた、そしてそれをぼくも、おもしろく読んできた。ならば、なぜぼくはこの作品に対して、こんなに怒りを覚えるのか?

作品が小説として及第でない。あくまでもタネ明かしだけを楽しんでいる。

このディズニーランドという夢の国のタネ明かしをすることをなぜ、みながタブーとしてきたのか?それが分からない人には、この夢の国を楽しむことはできないだろう。しかし、だからといってこの夢の国を楽しもう、そして現に楽しんでいる人々の夢を奪うことはしてはいけない。
タネ明かしはともかく、ディズニーランドを経営する会社とて、ディズニーの夢の世界に、ぼくらと同じ夢を抱いているはず。ぼくはそう思いたい。

蛇足:インターネットで調べたら「オリエンタルワールド」は栃木のベビーシッター会社だって(苦笑)。