半島を出よ-下-

半島を出よ (下)

半島を出よ (下)

「半島を出よ-下-」村上龍(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、小説、近未来、シミュレーション、北朝鮮、征服

☆は4つ。ただし、徹底とした取材をベースに、これだけの長編を破綻なく書き上げたこと、読み物としての評価。ミステリーとか、物語とか、小説といった観点で作品を評価したら、評価は変わる。

読み手が感情移入する間もなく、物語の語り手、視点が変わっていく。いや、入れ替わった語り手に感情移入し、共感しかけたところで視点を変えられてしまう。長編小説ではよくある手法。序盤で幾つかの視点を入れ替え、幾つかの事象を物語り、そして終盤に一気に大きな流れに突入する。しかし、この作品の場合、その視点の入れ替わりが終盤まで続き、その結果作品が散漫だという印象を与える。それが作家の書きたかったことだと理解はできる。しかし、物語としては成功していない。

以下、少しネタバレも含むので、未読の方は以降注意されたし。

高麗遠征軍に制圧された福岡の街は、一部の不具合を感じつつも通常の生活を続けていた。被害者が絶対的な権力を持つ犯罪者に共感し、協力することで自分の身を守ろうとするストックホルム症候群と呼ばれる状態なのか、はたまた自分たちを見殺しにした日本国政府への反感からなのか、高麗遠征軍にシンパシーを感じる市民も少なくなかった。その中で、詩人イシハラを中心としたいわゆる一般社会からはみだした者たちは、占拠されたホテルの破壊を目論む。一般的に社会不適応者の烙印を押されるであろう彼らは、それぞれに心に傷を持つ。それが故に偏執狂ともいえるほどに、それぞれ独自の分野に秀でていた。目標は、ホテルの該当フロアの柱数百本を高性能爆弾で爆発することによる、ホテル本体の倒壊。そして、それによっておこる倒壊波による高麗遠征軍兵士のキャンプ破砕。
一方、高麗遠征軍の中でも、少しづつ制圧した日本の現実と祖国の理想のギャップを感じ始めるもの出てきた。それは、明らかな形での顕在化には至らないものの、一人一人の心の中で疑問としてもたげはじめる。祖国では食事さえまともに摂れない、水さえ遠い川から小さい子どもが運んでこなければならない状況の中で、日本では蛇口をひねりさえすれば熱いお湯さえ簡単に手に入れることができる。
また、福岡市民、そして国際世論をさえも味方にして高麗制圧軍を維持していこうとすることの現実的な難しさも露見してきた。先遣隊500人であればなんとか維持できる軍も、祖国からやってくる12万人もの兵士を含み維持しようとすると、食費だけでも1日3億円近くかかる。兵士の士気、統制を落とさないようにし、なおかつ市民と共存することの困難さ。
そうした中でホテルに隣接する温室に潜り込んだ反乱軍は、メンバーの一人が大切に飼育していた昆虫たちを武器に、ホテルに潜入する。着々と進む爆砕の準備。すべての準備が完了するのは目前。しかし、そのとき、反乱軍の潜入が高麗遠征軍に気づかれた。彼らの潜入を手助けした暴走族メンバーの不用意な発言から。ホテルを調べ始める高麗遠征軍の兵士たち。反乱軍が準備を進めるフロアへ到達するのは、時間の問題・・・。

物語は、ここにきて物語でなく、まさしくシミュレーションそのものに変化してしまった。
本来、物語に厚みを持たせるために「人」を描くのだが、今回はそれが裏目になってきた。またありうべく想定事象を漏らさず書くことが作品を物語から遠ざける。この物語の主題は「北朝鮮による福岡の制圧」であったと思う。しかし、ここにきてこのドラマ焦点がぼけてきた。北朝鮮の兵士を語り手に変え、その悩み、疑問、過去を通し、その「人」を描くこと、そして福岡の制圧を維持していくことの困難さを描くことが。作者は真摯に、あまりに現実的に作品を書こうとしすぎたのでは?ありうべき事象を書き込もうとしたその姿勢は「シミュレーション」としては評価できる。しかし、物語や小説としてはどうなのだろうか。
最終的にイシハラの下に集まった反乱軍の手により、ホテルは倒壊し、キャンプは破砕、高麗遠征軍は壊滅する。北朝鮮を出発した12万人の兵士も日本に辿り着くことなく終わる。その一方、高麗遠征軍の福岡制圧を阻止した彼ら反乱軍の働きについては、彼らが英雄になることもなく、誰にも知られることなく終わる。
いったい、北朝鮮により福岡の制圧とは何であったのだろう。想定できる事象を描くことに、作家は夢中になりすぎてしまったのではないか。シミユレーションとしては、秀逸、成功。しかし読み手は、この物語にカタルシスを得ることができない。少なくともぼくはできなかった。

とはいえ、この分量に正直読むことに手こずりはしたが、この作品は評価されるだけの価値はある。それだけは間違いない。