死亡推定時刻

死亡推定時刻

死亡推定時刻

「死亡推定時刻」朔立木(2004)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、冤罪、警察、検察、弁護士、誘拐

朔立木(「さくたつき」と読むらしい)。現役の法曹界に身を置く、覆面作家らしい。どこかで女性弁護士とも見かけたような気がするが、作品は作家のプロフィールで評価すべきでないと考えているので、作家の素性はどうでもよい。本作品で語られる警察、検察、裁判所の描写が決して絵空事ではない、裏打ちのある内容ということだということを伝える、予備知識として記しておく。


中学生のひとり娘が誘拐された。身代金は一億円、チャンスは一度きり。被害者の父親渡辺恒蔵は、政治家の後ろ盾を利用し土建業と金融業を営み、あこぎに金を稼ぎ、のしあがった男。もちろん警察幹部とも癒着している。娘を救って欲しい、金なら払う。恒蔵は一億円の現金を用意した。しかし、金目当ての誘拐であるならば次の接触があるはずと判断した警察は、犯人の要求を無視した。結果、誘拐された渡辺美加は命を失うハメになった。
死体が発見された。被害者の死亡時間が、身代金の受け渡し前か、後かによって、警察の失態となるかどうかが決まる。志あると思われた鑑識員も人の子、警察本部長の無言の命を受け、死亡推定時間の改ざんが行われる。
小遣い稼ぎに山菜を採りに行き、被害者の死体を発見したが怖くなり、警察に通報せず逃げた若者、小林昭二が逮捕された。死体発見現場近くで、たまたま拾った被害者の財布から金を抜き取った際に、指紋を残していた。執拗な尋問の中で、警察の思うとおりに作られた自供をする昭二。そして、やる気のない弁護士。かくて冤罪ができあがった。
一審で有罪となった昭二だが、控訴を担当した弁護士川井の手弁当での奮闘により、その冤罪の内容が浮き彫りなってゆく。昭二の冤罪は晴らされ、無罪を勝ち取ることはできるのか・・・・


作者自身があとがきで、これを「フィクション」でなく、「ドキュメント」あるいは「リポート」と呼びたいと語るほど、この作品は「冤罪を生む日本の警察の、検察の、裁判所の体質」を訴える。その実態を知るという点では、驚愕の一冊。ここに語られるのは「事実」ではないかもしれないが、おそらく紛れもない「真実」。この作家自身が身を置く法曹界における、信じたくない真実。
だれもが正義が行われていると信じる、いや「信じたい」捜査、法曹、裁判の世界においても、実は絶対の正義の担い手は皆無で、人間という弱い生き物のどろどろとした感情、計算、組織の論理によって動かされていることを、われわれは本作品を読んで知る。もちろん、ここに書かれる世界が全てではないということも真実である。しかし、現実にこの作品で書かれる世界が真実、存在するということを改めて認識すると、やりきれなさ、恐ろしさを感じざるをえない。


われわれはミステリーを読むにおいて、地域警察同士の管轄争い、手柄争いから起こる警察の不正ということを当たり前の事実としてとらえている。あるいは、検察、裁判所における事務手続きと、組織の論理で動く世界を。それが現実にありうると認識しながら、市井の小市民であるわれわれに、何らかの影響が実際には起こるはずがない、別の世界だと信じる。が、故に絵空事とし、無関心でいられる。しかし、実はいつなんどき自分の身に、こうした事件が起き、こうした不正にさらされるのか分からない。本作品はそれを訴える。
あるべき世界をあるべき姿に変える。そのためには、まず、いまある現実を大勢の人に認識してもらうことから始める、そうした訴えに満ちた本。あるべき姿とほど遠い本書に書かれる世界に、実際に活動し、生きる作者のもどかしい歯がみが聞こえてくるような作品。

しかし、この作品を「小説」としてみた場合、どうしても評価を下げざるを得ない。真実を伝えようとする想いと、作品の質が一致しない。一番の違和感はスタイル。物語の中で、真実を伝えようとし、丁寧に説明しようとする作家の姿が、突然物語の合間に出てくるとき、どうしても違和感を覚える。
物語のあらすじについては、読者の想像の域を出ず、驚きが足りないと評する論も見られるが、そこは問題とは思えない。むしろ、この枠組みにおいて、なぜもう少し人間を書かないのかという点が問題。次々と不運に巻き込まれる被疑者の心の内、あるいは最愛の娘を亡くした被害者の両親の心の内、そうしたものをもっと掘り下げて描くことができたなら、たとえこのカタルシスを得られないラストにおいても、もう少し違った感想を持てたのではないか。小説を、物語を読んだ、という満足感を得られたのではないか。本書の本質は、小説や物語でない。しかし、その目的をしても、もっと小説たり得た部分が残されている。そこが、残念。しかし、読む価値は充分あり。ぜひ、読んで欲しい一冊、小説としてでなく、ではあるが。


蛇足:この文書を書きながら、「ニッポン硬貨の謎」北村薫を読んでいる。そのなかでミステリーを書くということは、小説を書くということと違うという内容の文章に出会った。なるほど、そういう考え方もあるのか。しかし、ぼくは、あくまでも「小説」を読みたいし、「小説」で感想を述べていきたい。