ニッポン硬貨の謎−エラリー・クイン最後の事件−

ニッポン硬貨の謎

ニッポン硬貨の謎

「ニッポン硬貨の謎−エラリー・クイン最後の事件−」北村薫(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代(ちょっと前)、小説、ミステリ、パスティ−シュ、本格

〜彼は、あなたの作品を、小説として読んだのです。けれども、あなたの作品はミステリです。普通の小説の物差しでは測れないのです。もしくは、測れない部分をもっているのです。〜

本書は一冊の小説として読むのは間違いであり、その見地から評価すべき作品ではない。あくまでも、狭義の意味での「ミステリ」の巨匠、エラリー・クインを敬愛し、古典と呼ばれる「ミステリ」(この場合広義な「ミステリー」ではなく)を愛読した人が読むべき本。いわゆる、北村薫の作品のファンであってもどうかなというところ。事実、この作品の中では、ミステリ論を語る必然より、幾つかの古典ミステリのタネ明かしもしている。そのネタを扱う章の章前に、未読の方はご注意をと言われても、もはや作品を読み始めてから警告されても困るといったところ。

かって出版社の招待を受けたエラリー・クインが実在の作家として、日本を訪れた際の物語。観光と読者との親睦を兼ねた訪日の際に、ふとしたきっかけで連続殺人事件と関わり、解決する。そのことを記した埋もれた未発表原稿を、北村薫が翻訳したというスタイル。
ちなみに、エラリー・クインという作家は二人の従兄弟の合作用ペン・ネームであり、エラリー・クインというひとりの実在の作家は存在しない。しかし、作家エラリー・クインの作品はエラリー・クインという青年探偵が活躍するスタイルをとっているため、この作品はそのスタイルを踏襲したパロディーというか、パスティーシュ。いや、エラリー・クインのパスティーシュというより、古き良き時代の翻訳本格古典ミステリに対するパスティーシュと捉えるほうがよいかもしれない。

北村薫らしく、丁寧に真摯に書かれたということが伝わる一冊。そして、それ以上に北村薫のエラリー・クインという作家、作品に対する愛を感じる。小説としてもきちんとミステリしているが、それ以上に、北村薫がエラリー・クインのミステリー論を語りたかったということが伝わる。作品の中でミステリー好きな女子大生にエラリー・クイン論を語らせ、エラリークインに対峙する姿が微笑ましい。
そして、それ以上に、ひと昔前の翻訳ミステリの匂いがぷんぷんするとこがよい。楽しみながら嘘を書いているなとニヤリ。本作品は北村薫の創作であるから、訳者注などあるはずがない。しかし、敢えて翻訳をしているスタイルを徹底し、章毎に訳注を登場させ、訳者の意見をそこで書く。最近は訳者の意見、感想を訳注で見ることがなくなった。あとがきで語るくらいか。よしあし、読みやすさ、読みにくさを別として、とても懐かしい気分になる。

よき時代に翻訳本格古典ミステリを愛読してきた人たちが、この本に手を触れ、読んだときには郷愁を覚えるに違いない。

しかし一冊の小説、物語として見た場合はどうか。残念ながら評価は低い。よくもわるくも古典的な本格ミステリ。最後のタネ明かしも、いまどき、というか当時も現実にはありえない、屁理屈とも云える見事な解き明かし。
この文の冒頭で触れた引用、「ミステリは小説とは違う」に象徴されるように、まさにミステリのためのミステリ。やはりミステリが生き延びるのは難しい。