僕の行く道

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「僕の行く道」新堂冬樹(2005)☆☆★★★
※[913]、国内、現代、小説、母子

少しネタバレあり!未読の方は注意願います。

新堂冬樹は好きな作家の一人だと常々公言してきたが、最近どうも自信がなくなってきた。どこかでだれかが新堂の二面性をして白新堂、黒新堂と書いていたが、言い得て妙、成程納得。
どうも、ここ最近の白新堂の活躍が胡散臭い。売れることを前提にしたストーリー。甘ったるいハートウォーミングのピュアな話。・・・・のはずなんだが、なんだか人工甘味料のような甘ったるさ。
言うなれば、わかっているけれど泣ける話。しかし、その涙は本当に作品の力ですか、と、絶賛する読書家諸氏に尋ねたい。 リリー・フランキーの「東京タワー」に次いで、またもや帯に書店店員のお言葉。最近こういう売り方の本多い。確かに商売として売りやすい本だ。

大志は小学3年生。お父さんの一志と二人で住む。お母さんは、パリでデザイナーの勉強をしている。毎週土曜日の午後、お母さんから定期便の手紙が届く。大志はそれがとても楽しみ。お母さんに会いたいのに、もう何年も会っていない。頑張って勉強しているから。電話でいいから話をしたい、大志はお母さんに手紙を書く。でもお母さんの返事は、声を聞いたら寂しくなってしまう、だから我慢してほしい。
そんなある日、ふとしたはずみで大志は、父宛の手紙の中に、母が撮ったというコスモスの花畑の写真を見つけた。その花畑は教科書で見た「二十四の瞳」の舞台となった小豆島。撮った日は去年の十月。あれ?去年の十月といば、お母さんはパリにいたはず、日本にいたはずはないのに。
山岡静子という名前の差出人、住所は書かれていなかった。でも、小豆島へ行けば、お母さんのことがわかるはず、お母さんに会えるはず。途中出会った人のやさしさに触れながら、小学3年生の大志と愛猫ミュウの旅は始まった。
大志はお母さんに会えるのだろうか。

新堂冬樹の旧来のファンは、いわゆる黒新堂と評される彼の悪意に満ちたドロドロの作品を読んできて、例えそれがワンパターンの描写であっても、その作品のパワーに拍手喝采を送ってきた。しかし、最近の彼はあざといくらいに、売れることを意識し、計算した作品を書く。本作品もそのひとつ。手軽に、簡単に心あたたまり、涙したい人向けに書かれた作品。
でも、何か大切なものが抜けて落ちている、そんな印象がする。

大志の母の明かされる真実。あぁ。そうきたか。巧い。最後がとても巧い。抑えた描写。さすがベテラン。過度な感動を描かない、抑えた筆で胸を打つ。もし、ここで奇跡が起きてしまったら、読者の多くは鼻白むだろう。しかし、この抑えた描写が故に、胸にじんと染み入り、感動を味わってしまう。

しかし本当にこの作品は名作なのだろうか、感動作なのだろうか。正直、疑問。すじがきだけで泣けてしまう作品であり、小説としては重大な欠陥を抱えている。例えば、博士と呼ばれる大志の近所の友人、小学6年生の優等生の行動。小豆島に行きたい大志の思いを組み、嘘を組み立て、大志を旅立たせる。大志がお母さんと無事会える保証もないのに、片道分の旅費しか持たせないで。少なくとも、思慮分別のある小学6年生の優等生の行う行為ではない。お金がないなら、無賃乗車をしても一緒についていくというならともかく、事故をも想定しないで、自分はとっととボーイスカウトのキャンプへ行ってしまう。ボーイスカウントってこんな奴を育むのか?ぼくが作家なら、大志に何らかの定時連絡をさせるくらいのリアリティーを持たせる。同様に旅先で助けてくれた同じ小学3年生の由美の、その母親。幾らなんでも娘と同じ小学校3年生の男の子が、ひとりで旅をしているのを、家に泊め、所持金の心配もしないで送り出すってありうるか。リアリティーがないのだ。

そして、最大の欠点は、少年が旅のなかで成長しないこと。物語で「少年の旅」と言えば、当然、旅を通した成長の物語。しかし、この作品で、少年は旅をすることで成長するわけではない。ただ旅をして、そして最後に唐突に成長してしまう。旅の途中で出会った人々は、まさにお約束の通過点にしかすぎない。

こういう作品を名作とか、感動作とは言わない。

蛇足:ぼくは知っている、こういう作家に浅田次郎という手だれた作家がいることを。