空色勾玉

空色勾玉(そらいろまがたま) (〈勾玉〉三部作第一巻)

空色勾玉(そらいろまがたま) (〈勾玉〉三部作第一巻)

「空色勾玉」荻原規子(1988)☆☆☆☆☆
※[913]、国内、古代、上代、小説、児童文学、ファンタジー、ハイファンタジー古事記延喜式、光と闇


この本も何度読み返したことだろう。初めて読んだのは大学時代、所属していた児童文学サークルの読書会。作者は同じ学部学科卒の先輩。あとがきで作家本人語るようにこの作品は、よき日本のハイ・ファンタジー(本格ファンタジー)。その後、同氏は出版社を変え、「白鳥異伝」「薄紅天女」、空色三部作と称される作品を発表する。どの作品も同じ勾玉をモチーフにした単独作品。それぞれがとても素敵な物語でどれもオススメ。今回は、久しぶりに同氏が上梓した時代ファンタジー「風神秘抄」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14164051.html ]を読んだことをきっかけに再読してみた。


この作品は大人も楽しめる、日本の古代の伝承、風俗を土台にしたハイファンタジー。しかしこの作品は、児童文学として漢字にルビ(ふり仮名)をふって出版したことが、作品を最も活かす形態であったと改めて感じる。高光輝大御神、照日王、月代王、闇御津波大御神、輝の御方、闇の氏族、大蛇の剣・・・これらの言葉を見たままの漢字で読んだとしても、素晴らしい作品である。しかしこれらの言葉にルビがふることで「たかひかるかぐのおおみかみ」「てるひのおおきみ」「つきしろのおおきみ」「くらみつは」「かぐのおんかた」「くらのしぞく」「おろちのつるぎ」と、作家の意図する、上代(=仮名以前時代)のことばで、読者は読むことができる。この読み方が作品の世界にリアリティーを増し、またその世界に読者を引き込む。とくに「闇」を「やみ」でなく「くら」と読ませること、その音のやわらかさが、この漢字の持つマイナスのイメージを払拭させる。この作品では「光と闇(やみ)」というふたつの対立がテーマであるが、西洋のファンタジーのそれと違い、簡単な二元論ではわりきれないものとなっている。闇=悪ではない。このことがこの「くら」という音の選び方によって支えられている。


羽柴の郷の十五歳の娘、狭也。幼い頃、餓死寸前で山をさまよっていたところを拾われた。小さい頃から同じ悪夢にうなされていた。いつも六歳の狭也が五人に鬼に追われるというもの。歌垣の夜、ついに狭也は生意気な少年、鳥彦をはじめとした五人の鬼に出会う。歌垣の楽人を名乗る彼らの正体は、狭也たちの村が信奉する輝の御方に敵対する闇の氏族。狭也を、闇の氏族の水の乙女の継承者、狭由来姫の生まれ変わり、闇御津波大御神に使える巫女として、迎えに来たという。
光と闇の物語。それは天地(あめつち)のはじめの物語。男神と女神が力を合わせ豊葦原の中つ国を生み、国中を八百万(やおよろず)の神々で満たした。最後に火の神を生んだ際の火傷がもとで女神は黄泉の国へ隠れた。女神を取り戻しに死の国へ向かった男神だが、その変わり果てた姿を見て地上に逃げ帰る。そして千引の岩で通い路を塞ぎ、女神と永遠に縁を切ったのだった。そのときからこの二柱の神々は天と地に別れ憎しみあうようになった。光と闇が別れたのだ。大御神は女神を憎むあまり、照日王と月代王という不死の御子を地上に配し、ふたりで生んだ八百万の神をこの地上から一掃し、全てを光の統治の下に治めようとしている。しかし、それは殺戮と略奪の統治。すべての生命は大地によって育まれている。そして、それは二柱の神が生んだ山川の神々があればこそ。しかし、今二人の御子神はそれらの神々をなきものにしようとしている。一緒にこの豊葦原の命を守るため闘ってほしい。岩姫という老婆が、狭也に語りかける。
しかし、狭也はその申し出を断る。わたしはこの村で、長い間輝大御神を信じて生きてきた。大御神に刃向かう人がいるから戦が起こるのだ。申し出を断られた闇の氏族の五人は、狭也を迎えにきた時期が遅すぎたことを知り、空色の勾玉を狭也に残し去っていく。ひとり残された狭也は、行くべき場所もなく、また自分が村の人と違うことの孤独を知り、山中をあてもなく歩き続けた。そして大御神の二人の御子の一人、月代王に出会う。狭也は月代王の采女としてとりたてられるであった。
狭也の輝の宮での、采女としての日々。大いなる神の御子にとって、狭也はたくさんの采女のなかの一人であって、狭也が夢見たようなたった一人の相手ではなかった。そんな狭也を闇の氏族のひとりとして、冷たい視線を向ける月代王の姉、大御神の御子の一人、照日王。
ある日、狭也のもとにおつきの童として、鳥彦が現われた。しかし、鳥彦は照日王によって大祓いの生贄である形代に選ばれてしまう。鳥彦を助けるために宮の中を探しめぐる狭也。そこで出会ったのは大御神の第三子である稚羽矢。照日王に縄で縛められていたのであった。不死の神々をも倒すことができる剣、大蛇の剣(おろちのけん)の遣い手、稚羽矢と、大蛇の剣を鎮める水の乙女、狭也との出逢いであった。
狭也とともに輝の宮を抜け闇の氏族のもとへ向かう稚羽矢。闇の氏族の古い言い伝えによれば、大蛇の剣を自在に操り振るうことのできるたった一人の者を、風の若子と呼ぶ。闇の側に水の乙女と風の若子の二人が揃った。
闇(くら)と光の最後の決戦の火蓋が、いま落とされようとする。最後に勝つのは、闇か、光か・・。


この作品の魅力を語りだせば、きりがない。まず古代の伝承「古事記」「延喜式」といった上代文学を土台にした、リアリティーにあふれる、構築されたファンタジーの世界。光と闇、天と大地、不死と限りある生命、しかし、その生命は移り変わり繰り返される、男と女・・・種々な二つの対が単純な二元論に終わらず、求め合うように、魅かれあうようにすすむ、骨太で壮大な物語。この物語には絶対の正義や悪はない。
そして、この物語を支える丁寧に書かれた魅力的な登場人物たち。
闇の氏族の巫女でありながら、それを知らず輝を信奉する村で育った狭也。出会う人々と、出会う事件を通し、揺れ動く心。
大いなる力を持つ不死の神の御子でありながら、限りある生をしか持たぬ闇の氏族の人々とともに、狭也とともに輝の軍と戦う稚羽矢。輝の御子として、そして不死の力があるゆえに疎まれ、不死の力ゆえに生ありながら、死の苦しみを味わう運命。
命を落としたあとも、狭也のためにカラスに身を移す鳥彦。(鳥彦はこの後、鳥彦王を名乗り、この存在は「風神秘抄」につながる)。不器用な稚羽矢に稽古をつける開都王、この師匠と不出来な弟子の関係というエピソードが、作品のなかでおこる哀しい事件を際立たせる。あるいは狭也のおつきの女性、奈津女とその夫、柾の物語。神々はその大いなる存在ゆえに残酷なまでに「情(なさけ)」が無い。はっとするような行動、事件も神々の論理の中では些事に過ぎない。その神々である大御神の御子である輝日王にしても、月代王にしても、大御神という神の下では、小さな存在。その哀しみ。黄泉の国の女神の存在感。そしてさらに古いわだつみの神。


ボーイ・ミーツ・ガール、あるいはガール・ミーツ・ボーイ、少年少女の恋愛譚、そして若者の成長譚も忘れてはいけない。しかし、この最後は本当にハッピー・エンドなのだろうか?


単純でない構図のこの物語を読むとき、ぼくたちは「物語」のおもしろさを味わい、「物語」に秘めた作家の想いを知り、そして人が生きるということの意味を考えるだろう。この作品は物語好きな人に、本当にオススメだ。


蛇足:決して似ている訳でないのだが、同じ古代に舞台が重なる当時ぶーけに連載していた「イティーハーサ」水樹和佳が思い出される。とてもよいハイ・ファンタジーコミックであった。
蛇足2:西洋の、光と闇の戦いを書いた作品もおもしろい。「光の6つのしるし」スーザン・クーパーに始まる、「闇の戦い」シリーズもオススメにあげておく。
蛇足2:本感想を書き上げた際に、本書について書かれたとても素晴らしい書評(ブログ)があったので、ここに勝手に紹介する。「ぽちぶくろ」[ http://pochimi.cocolog-nifty.com/pochi/2004/12/post_4.html ]。