鬼の橋

鬼の橋 (福音館創作童話シリーズ)

鬼の橋 (福音館創作童話シリーズ)

「鬼の橋」伊藤遊(1998)☆☆☆★★
※[913]、国内、児童文学、ファンタジー小野篁平安時代、鬼

読む時期が悪かった。同じ児童文学の時代ファンタジー「風神秘抄」「空色勾玉」(荻原規子)の直後に読むべきではなかった。作品を比べて読むつもりはないが、どうしても比べてしまう。時期が悪かったとしかいいようがない。
決して悪い作品でない、いや、たぶんとてもいい作品。ただ、先にあげた同じジャンルの作品二冊に比べて、もう一歩の深さが足りない。素っ気無い。勿論、無闇に文章を連ねて書けばいいというものではない、しかし、書き込むことで深まることもある。もう少し、もう少し、そう思いながら読んでしまったことがちょっと残念。


平安時代の実在の文人小野篁の少年時代を舞台とした物語。ある日篁は、可愛がるあまりにおこしたいたずら心から、異母妹の比右子を事故で亡くしてしまう。そのことを悔やみ、いつまでも自分を責め続け、何事にも身のはいらない日々を過ごしていた。ある日鴨川を渡る五条橋でひとりの浮浪児の少女と出会う。執拗に父が作った橋の欄干を蹴飛ばしたことを謝れと叫ぶ少女を振り切り、比右子を亡くした荒れ寺へ向った。荒れ寺で比右子の命を奪った井戸の中に吸い込まれる篁。そこは死者の世界へ続く橋のかかる河原。
比右子に会うために、橋を渡ろうとする篁を止めるのは、先の征夷大将軍で父の友人であった坂上田村麻呂。彼は葬られる際、帝より死後もなお都を守るようにと立ったまま葬られた。そのため橋を渡り、死者の世界に行くこともできず、鬼が地上へ出てゆかぬように橋の警備を続けてなければならない。蝦夷の地で、罪も無い人々を伐ってきた罪だと言う。
地上へ戻った篁は、流木が引っかかった橋を救ってくれるよう、道行く人に手当たり次第に頼む少女阿子那を見かける。阿子那の父はこの橋を作る工人のひとりで、橋を作る際事故で亡くなったという。その橋が今、大雨で水かさが増した鴨川の上流から流れてきた流木によって壊れんとする。そのとき、ひとりの大男が現われ、橋を救うため普通の人間とは思えない巨大な力を振るう。それは田村麻呂に角をひとつ折られた鬼の非天丸だった。
非天丸を慕い、親子のように暮らす阿子那の姿を、少し面白くない気持ちで見つめる篁。鬼から人に変わりたい非天丸。しかし、鬼の非天丸は、火を通したものを食べられない。阿子那に気づかれぬよう、隠れて生きている魚を、動物を、血をしたらせ食べていかねば生きてはいけない。そして阿子那もそのことに気づいていた。自分を美味しそうに眺め、よだれをたらし、それを我慢し涙する非天丸の姿を知っていた。非天丸の想いを知るが故に、恐怖を隠し、気づかない振りをする阿子那。信じている、それが叶わぬときは仏の定めた運命。信じあう二人の気持ちを知る篁。果たして鬼は人になれるのだろうか。


阿子那の守ろうとした橋は父の思い出の橋。焼失したその橋が新たに大きく作り直されようとするとき、阿子那は非天丸とともにその建造を手伝う。橋は人が渡るためのもの。父は人が渡る橋を作っていた。新たな橋を作ることは父の遺志をひきつぐことでもある。
そしてまた橋は渡るためのものであるが、簡単に渡っていけない橋もある。
地上の橋と、死者の世界へ繋がる橋、このふたつの橋が作品のなかで描くものは何か。そして鬼とは何か。読者は作品を通じ、それらの象徴するものを考えなければならない。


これは少年の成長譚。異人としての阿子那と非天丸に出会うことで、成長する篁の物語。少年は、出会いと別れを通し、大人になる。元服という儀式を経て、父と同じ地平に立ち、大人として父と共に陸奥にという地に向かおうとする。それは、異人との別れ。あるいは子供時代との決別。きちんと物語の類型を踏んでいる。


あとがきによれば、昼は朝廷に仕えながら、夜になると冥府に通って閻魔大王のもとで役人として働いていたという伝説もある小野篁。その辺りの伝説や、魑魅魍魎が徘徊していた平安時代という時代をもう少し書いて欲しかったというのは贅沢であろうか。
内容はよい。しかし、やはり読んだ時期が悪かった。むむむむ。