光の六つのしるし

snowkids992005-11-02


光の六つのしるし (児童図書館・文学の部屋 闇の戦い 1)

光の六つのしるし (児童図書館・文学の部屋 闇の戦い 1)

光の六つのしるし-闇の戦い1-」スーザン・クーパー(1981)☆☆☆☆★
※[933]、海外、ファンタジー、ハイファンタジー、児童文学、光と闇、アーサー王伝説

<闇>の寄せ手が攻め来る時、
六たりの者、これを押し返す
輪より三たり、道より三たり、
木。青銅、鉄、水、火、石、
五たりは戻る、進むはひとり

児童文学、そしてファンタジーを語るとき、何度もぼくが言及してきた作品、それが今回久々に再読したこの作品。図書館で借りてきた本が昭和56年発行となっており、まさに僕が高校時代に初めて出会った本と同じ。もはや四半世紀近く前の作品かと思うと感慨深いものがある。しかし、思い出というのはどうしても美化するものなのか。再読してみて思ったのは、残念ながら、一冊の作品としてみた場合、それほど完成度が高い作品ではなかったのかなということ。光と闇の戦い、500年ぶりに生まれた<古老>の物語、確かにおもしろい。しかし、これは一冊の作品ではない、闇の戦い4冊+外伝1冊でこその作品、序章の一冊であったなと感じた。とはいえ、決してオススメでないという訳ではない。オススメの作品。ただ、この一冊で判断するのは勿体ない。

「闇の戦い」シリーズは、シリーズとして発行されていない「コーンウォールの聖杯」(2002年学研より復刊)という単独の作品から始まる。サイモン、ジェイン、バーニィというドルー家の三人の兄、妹、弟が、夏の間過ごすコーンウォールという港町で、メリィおじさんとともに古文書を解き明かし、アーサー王の失われた聖杯を探す物語。ファンタジーというより冒険小説の度合いが高い。大きな力を持つこの失われた聖杯を巡り、闇の手が迫り、追いつめられる子供たち・・。
その後、この聖杯をめぐる「光と闇の戦い」というテーマをふくらませ書かれたのが、この「闇の戦い」シリーズ。「光の六つのしるし」「みどりの妖婆」「灰色の王」「樹上の銀」の四冊。「光の六つのしるし」ではメリィがメリマン(実はアーサー王伝説のマーリン)という名で、そして「みどりの妖婆」ではドルー家の三兄妹(弟)も現われる。故に、未読の方が読まれるなら、まず外伝ともいうべき「コーンウォールの聖杯」からがよい。

冬至前日、いつもと違ううすら寒い雰囲気の漂う一日、11歳の誕生日の前日を迎えたウィル、スタントン家の9番目の末っ子で、七男坊の七男坊(特殊な能力を持つと言われている)は、近所の農場主ドースンさんから、鉄で出来た平たい輪で十文字に交差した二本の線四つに仕切られた飾りのようなものをもらった。
そして、翌日。11歳の誕生日。それは、この500年で最初で最後の<古老>の目覚めであった。<古老>とは、光と闇との戦いに身を捧げるべく、生まれながらに定められた運命の持ち主。<古老>の力を引き継いだウィルの使命は、六つの偉大な<光のしるし>を探し出し、護ること。<しるしを探す者>としてウイルの使命が果たされたとき、<古老>たちが、<闇>の力を滅ぼす方向に向けなければならない、三つの偉大な力のうちのひとつを動き出させることになる。
最後の<古老>の目覚めと時を同じくし、<闇>もまた目覚め、立ち上がる。<旅人>が徘徊し、<騎手>も現われた。偉大な導き手メリマンとともに、ウィルの<しるしを探す者>としての探索が始まる。ウィルは、果たして光の六つのしるしを探し出し、闇の寄せ手を跳ね返すことができるのだろうか。

物語は冬至の前日から、というと12月20日辺りからか、クリスマス、元旦を挟んだ、三週間ほど。舞台はウィルの住む、家、そして村を中心とした世界。振り返ると、とても、狭く、短い世界。しかし物語としては、壮大なものであったような印象を持つ。それは、<古老>たちが、同時に幾つもの次元、時間を生き、同じ場所で今現在と、数百年前を行き来する存在であったからであり、また大雪に閉ざされた村で、ウィルと<闇>の騎手が立ち向かう世界が、雷の鳴り響く嵐の中であったかもしれない。読み応えは確かにあった。
そして、また十一人という大家族の無邪気な末っ子が、古老として目覚めることで、家族のだれもいない世界へひとり向かい、どこかしら大人びていく。いつまでも無邪気でいられない、成長するということの哀しさ。それが大人になり、独立していくこと。少し早い、成長のドラマでもあった。

この作品のテーマ「光と闇の戦い」は、まさに西洋の二元論で描かれた。正義と悪。正義は気高く、崇高であり、それが故に情(なさけ)がない。使命を遂行するためには、多少の犠牲を伴うことは致し方の無いもの。それが故に物語では、迷い、闇にひかれる旅人が登場する。もとは光の<古老>の友人であった彼は、ある日、光の非情さを知り、闇によろめいてしまうのだ。その書き方は非情で、厳格。しかし、読者は旅人に対し同情はしても、共感はしない。なぜなら、光は最後まで信じるべきものなのだから。この書き方が、まさに西洋のそれ。個人主義の風土、信じるべき味方と敵をすっぱりと切り分ける。日本のような曖昧さを赦さない。
これを、最近再読した「空色勾玉」荻原規子http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14771799.htmlの描く、日本のファンタジーとしての「光と闇」と比べると、とても興味深い。荻原も「光」をその気高さゆえに情け容赦のない存在として書く。しかし、その一方で「闇」に引かれる人間の弱さを好意的に描く。いや、「闇」自体の書き方が違う。荻原にとって、あるいは日本人にとって、「闇」とは、決して「光」に相反するものでなく、表裏にあるもの。
どちらが正解ではない。一読者として、ぼくはどちらの書かれ方も納得し、共感した。そして、その矛盾の中で、それぞれを考え、生きてきた、成長してきた。それは、とても有用で、誇れるものであったと思う。そういう意味で、ぜひ、若い人たちに、そして全ての本読み人に、出会うべき時期にこれらの作品を、どちらでなく、両方とも読んでほしい。そして考えて欲しいと願う。

蛇足:本シリーズは、アーサー王伝説をモチーフにしている。本作品ではほとんど触れられてないが、その下敷きがあるということを意識し、あるいは知っているともっとおもしろい。
蛇足2:本作品は、映画化の話も出ているよう。ちょっと楽しみ。読むなら今のうちですよ!(笑)
※参考blog「見てから読む?映画の原作」http://hamchu.exblog.jp/1909227
http://hamchu.exblog.jp/2312653/