告白


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「告白」町田康(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、近代、明治、小説、河内十人斬り、河内音頭


町田康に最初に出会った小説がこれだったら、過日あまり評価できなった同氏の短編集「浄土」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14257991.htmlの印象はもっと違ったものになっていただろう。多くのネット評者が語る「町田節」というものはこの作品だけではよくわからないが、読ませる文章、読ませる内容。強いて下手な関西弁で言えば、たぶんそれが一番似合うと思うが「ごっつうええ話」だった。
676ページに及ぶ大長編。河内弁で語られる主人公城戸熊太郎の心の声と、作者の語りで進められているため、厚さの割には読みやすかった。しかし、この河内弁という手法はどうなのだろう?関西弁が身近にないために、僕は文字としてふつうの関西弁と同じようにしか読めなかった。そして、それは存外読みやすいものだった。しかし関西弁が身近にあり、関西弁の中でもかなりガラの悪いらしい河内弁を読みながら頭のなかで聞ける人たちは、同じこの作品の印象も大きく違うようだ。強烈、らしい。そういう音のある読み方ができないのは、ちょっと残念かもしれない。


河内音頭のスタンダードナンバーである<河内十人斬り>、この曲は明治26年に起こった実在の事件を基にしている。そして、この作品はその実在の事件の犯人である城戸熊太郎の一代記である。しかし、この事件や河内音頭を知らずに読んでもまったく問題ない。というより、実際にこの事件を知って読んだ人は少ないに違いないし、この町田康という作家の作品を読む人間が、河内音頭をその歌詞まで知っているというのは、たぶんない。関西の事情は知らないが、少なくともそれらなしでも僕は充分楽しめた。
江戸から明治、近世から近代に変わる時代に、同じ村の知人一家を大量虐殺し、ときのヒーローとなった事件をモチーフに、町田康は創作を行ったのである。


河内国の水分の百姓の子として生まれた城戸熊太郎。幼い頃から、自分の内側でいろいろと考えを巡らし、それをうまく言葉に表現できない。生みの母を早くに病気で亡くし、父親平次の後添え、豊に慈しみ、ほめそやされ育てられてきた。しかしある日、近所の子と遊んでいて、自分がそれほど優秀でないことに気づく。思弁的で、見栄っ張りで、かっこつけの熊太郎は、その思想することが仇となって近所の子どもと遊ぶにおいても常に自分との違和感を感じ、わけのわからないひけ目を感じていた。それがまた妙な方向に出てしまい、真面目で一所懸命にうちこむことに恥ずかしさを覚え、さらに虚無・退廃な方向に走ってしまう。
子どもたちの中で相撲をするにおいても、独自な技を考え、使い、大将になっていても、本当の自分は弱いもんだと決めつけている。
そんなある日、運命の出会いがあった。森の小鬼、葛木ドール、モヘア兄弟との邂逅。葛木神の子孫、神様の一人と名乗るふたりと熊太郎が出会った。葛木兄弟に殺されそうになり、抵抗したところ、兄ドールを撲殺してしまう熊太郎。熊太郎が殴ったところ、ドールの顔面が膨れ上がり破裂してしまった。
人を殺めてしまったという暗い想いが、あるいは、殺人の舞台となった御陵を荒らしたことで、古代名品名物を蒐集する趣味を持つ当時の県令に罰せられるのではという思いが、熊太郎の生涯にわたるトラウマとなる。
青年となった熊太郎は、あいも変わらず放蕩の生活を続ける極道者に成り果てていた。さきのトラウマのせいで、諦観した人生観となり、何事にも真面目にできなくなってしまったのだ。
酒と博打の日々を過ごす熊太郎。ある日、村の者が喧嘩の仲裁を頼みに来た。他所者が暴れているので助けてほしい。普段は自分のことを、仲間はずれにしているのに困ったときだけと思いつつも、ええかっこしぃの熊太郎は現場へ行く。果たしてそこには屈強そうな若者の姿があった。これが奇遇なことに以前賭場で、助けてやった谷弥五郎であった。かくして、伝説の<河内十人斬り>の主人公二人が揃った。熊太郎をアニキ、アニキと慕う弥五郎。情けは人のためならず。
そんな熊太郎を、いいようにあしらう村の豪族の松永伝助の息子松永熊次郎。その弟寅吉は兄とは別に熊太郎を慕う。いろいろな思いをいたずらに複雑に考え巡らしている内に、女神のように崇め、愛する妻縫が不義をなす。鬱屈した思いが、熊太郎と弥五郎を伝説の河内十人斬り事件に誘った。


実際には、あらすじはどうでもいい。ひたすら内省的に思弁する熊太郎の姿を描くことが、この作品のポイント。もともと「言は意を尽くさず」の不完全コミュニュケーション手段である言葉で、さらにわけのわからなく複雑に思索、思推する熊太郎の思いを表現することは、どんな言葉をもってしても他人には伝えられない。熊太郎が考えることはよくわかる。読み手としてとても共感する。他人からは、そんなこと考えても仕方のないと思われることも考えずにはおけない気持ち。石橋を叩いて、壊してもまだ叩く。だから、それはやり過ぎなのだ。


熊太郎の居た場所が、生きるということを最優先する近世から近代へ繋がる時代の百姓の村でなく、現代の思索、思考をする余裕のある時代であればもっと他者に理解されたのかもしれない。
でも、どうかなぁ、考えるばかりでぐずぐずとしている奴だったら現代でも友達できないかもしれないなぁ。


謎の葛木ドール、モヘア兄弟、空に浮かぶ白い三角形たち。本書で解決されなかったこれらの謎を、どう評価するかによってこの城戸熊太郎という人間の評価は大きく変わる。
一人称の城戸熊太郎に感情移入していると、他人に理解されない早熟の天才のとても哀しい、切ない一生。
対して、村の住民の立場からすると、頭のいかれた村の奇人のあばれまわった生涯。後者がホントのところか。切ないラストであったが、やっぱり村の人間は迷惑だったろうな。


とはいえ、大長編であるがオススメの一冊。是非、一読を!


蛇足:帯の「人はなぜ人を殺すのか」という惹句は、多くの本読み人が語るように、この本には合っていない。熊太郎の殺人動機はとても個人的な理由、普遍的な殺人動機ではない。第一この作品の主題は大量殺人ではなく「思弁すること」。最近の帯はこんなのばっかり。


蛇足2:この本のスタイル、どっかで見たような既視感が最初から最後まで離れなかった。花村萬月あたりが近いのか?それほど、独自という気はしなかった。


蛇足3:冒頭で述べた関西弁の表現については、同じ本読み人仲間のざれこさんのblog「本を読む女。改訂版」でとりあげた記事を読むと、関東人の読み手との違いがよくわかる気がする。
url:http://blog.zare.boo.jp/?eid=278534