ぼくの・稲荷山戦記

ぼくの・稲荷山戦記

ぼくの・稲荷山戦記

「ぼくの・稲荷山戦記」たつみや章(1992)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、児童文学、自然破壊、稲荷、ファンタジー


図書館の児童書の書架からいつもぼくを呼ぶ本がある。「月神の統べる森で」。たつみや章という作家、東逸子のイラスト。おそらく日本の古代をモチーフにした作品。連作ファンタジー。いつもまとめて読みたいと思っている。しかし最近は追われる様に読書をしているようで、次から次と図書館で予約した本がやってきて、それを読むので精一杯。仕事が忙しくなってきたのもあるが、読む暇、書く暇がない。そんななかで借りたのが本書「ぼくの・稲荷山戦記」。たつみや章のデビュー作、神様三部作の一作目となっている。


中学生のマモルの家が、代々巫女として仕える稲荷神社のある裏山の自然を守るため、マモルが、お稲荷さんの使いのキツネが、そして開発企業の社長の息子が、開発企業の開発に立ち向かう物語。ファンタジーという手法を活かし、自然保護を訴える、まさに次代を担うこどもたちに読んで欲しい一冊。現代ファンタジーとしても、きちんと世界を確立している。


「・・・初音さんやおれが、どうやって負けていったかも、ね。しっかり見ておいてほしい」「え?負けるって・・」「九十九・九パーセントね。心情主義で経済論理に勝てる状況じゃないんだよ」「だからこそ、後継者がいるんだよ。きみみたいな、初音さんやおれの想いをうけついでくれる若い連中がね」(P291〜P292)
開発会社の社長の息子で、裏山の自然を守るため身を挺して開発工事を止めようとする鴻沼さんが、マモルに語る。


祖母と二人で住む、代々、巫女として稲荷神社を守る家柄のマモルの家に、ある日下宿人がやってきた。
いまどき和服、素足にゲタ、そして腰まで届く長い髪をした美形な男性、守山初音さん。M大の院生、専攻は考古学で、専門は古墳。裏山にある古墳を守るため、そしてそれを口実に自然を守るため、マモルに手伝って欲しいという。実は、守山さんの正体は・・。
守山さんとふたり、裏山をレジャーパークの開発を計画する四井商事に向かったマモル。そこで社長の息子、次男の鴻沼秀二に出会う。長男、光一が帝王学を学び次期社長の道を進むのに対し、秀二は閑職でまだ若いのに盆栽やら、俳句やら。ついたあだ名は「ご隠居」。ひょんなことからその鴻沼さんに、守山さんの正体がバレてしまう。しかし鴻沼さんは事実を受け止め、マモルたちを手伝うという。「人が考慮するのは、人の損益だけであろうが」「・・損得ぬきでやらなきゃいけないこともあるんじゃないかってね。」
守山さんと、鴻沼さんが立てた計画、それはマスコミや有名な大学の教授たちを集め、裏山にある古墳を初めて開くこと。集められた人々の前で、石室の鮮やかな朱色が空気にさらされ、みるみる色を失う。学術的にとても貴重な資料。そこには愛しあう二人の若者の遺体。瑞穂秀穂佐戸見和気命(みずほひでほのさとみわけのみこと)と初瀬の王。初瀬の王こそ、マモルの母の生まれ変わり。マモルの心にあふれるせつない思い。
そんな人々の前に、現われる古代の人々の姿。いとおしき自然の姿。マスコミは、白昼の怪異としてとりあげ、人々は「稲荷山の自然を守る会」を結成。しかし、その陰に、力を使い果たした守山さんの姿があった。
そして、一見成功に見えた作戦も、古墳のみの保管に終わり、自然は再構築されるというニュース。ありのままの自然でなければ、意味がない。
鴻沼さんとマモルの新たな戦いが始まる・・。


この作品のテーマは「自然保護」あるいは「反・環境破壊」。地球という惑星において、人間の開発が自然のバランスを崩している。人間をも含めこの惑星で生き物が生きていくために、効率や便利だけでなく、守らなければいけない自然がある。そのことを大上段に構え説くのでなく、主人公の身近にある裏山を守ることから始める。ありがちな話といえば、確かにそうである。しかしこの作品の非凡さは、安易にその場限りに作品のなかで、自然を、裏山を守る話でない。主人公たちは負ける。しかし次代に、主人公たちの世代に課題を託す。その場限りで終わるのでない。継続するのだ。
この作品を読んだ若者たちがこの課題を、作品を読んだその場限りの奇麗事でなく、自らの課題として、受け継ぎ、何かに繋げることができるなら・・。それこそ文学の、小説の持つ力。ぜひその力を発揮して欲しいと願わずにいられない作品。まさしく「こどものための物語」である。


ファンタジーについてもピーターパンを引用し、この作品の魔法を構築している。
「あの中にこんな一節がある。『妖精が少なくなったのは、子どもたちが妖精を信じなくなったからだ。そんなものはいないさと、世界のどこかでだれかがいうたびに、妖精がひとり死ぬんだ』・・。真実に限りなく近い虚構だよ。『不信』という負の意志力が、われわれのような存在にあたえる致命的な影響を、ほとんど正確にいいあてている」(P82)
「否念」や「不信」が身近なあちらの世界の生き物を見えなくする。だから、信じるものは見ることができるし、信じないものに見せようとすると非常な力を必要とする。傲慢、我欲、嫉妬、怨嗟、『悪しき気』で満ちる四井商事の中で、私利私欲のためとはいえ、稲荷神を信奉し信じる年老いた社長の姿が、もしかしたら一筋の光明なのかもしれない。


登場人物(?)たちも活き活きと描かれている。とくにバイキャラクターである、ワダツミ一族の潮彦が、妙に魅力的。


大人というより子どもに読んでほしい一冊。こういう作品こそがまさに児童文学である。


蛇足:唯一の不満、文体がちょっと・・。