影との戦い-ゲド戦記1-

影との戦い―ゲド戦記 1

影との戦い―ゲド戦記 1

影との戦い-ゲド戦記1-」ル・グウィン(1976)☆☆☆☆★
※[933]、海外、ファンタジー、ハイファンタジー、児童文学、闇、人間


ネタばれあり!というか、詳細なあらすじあり。未読の方は注意願います。


スタジオ・ジブリゲド戦記を映画化するというニュースが流れたのは丁度、昨年末。昨年は、ファンタジーづいていてかって読んだ名作を再読する機会に恵まれていた。その流れの中で、ゲド戦記も、もちろん読もうと思っていたのだが、今回はジブリのニュースに促されて再読してみた。


いまさらゲド戦記の魅力と称して、ゲドが自分の中から飛び出した「闇」と立ち向かう姿を語っても、あまり意味がないので割愛する。いや逆に、この名作が名作のゆえんとされる「闇」と立ち向かうゲドの姿は、本来人間にとって普遍のテーマ。ところで、この作品の世界では、ゲド以外の人間は自らの「闇」と立ち向かうことはないのだろうかと、実はなんだか妙な読み方になってしまった。
ゲドのおごり、うぬぼれにより事故が起こり、それが故に明確になった自らの「闇」。おごり、うぬぼれを反省し、ひっそりと生きる道を選ぶゲドであった。しかし、それは、それと意識していなかったものの、立ち向かうことからの「逃げ」であった、逃げている間は「闇」は強く、ゲドを取り込もうとする。しかし、ゲドが決意し、自らそれと立ち向かおうとしたとき「闇」の力は弱まっていく。そして、最後、自らの「闇」と立ち向かい、そして自分のものとして取り込むゲド。なるほど、ここに象徴される事象があるがゆえにこの物語は名作であり、それを否定するつもりはない。しかし、この数度目の再読において、それではこの世界のゲド以外の人々は自らの闇と立ち向かうことはなかったのか、大賢人とよばれる人も、と思ってしまったのも事実。
え?天邪鬼な読み方?否定しない。ぼくはなんでこんなことにひっかかるのだろう。


ゲド戦記という作品は、「指輪話物語」の作者で有名なJ・R・R・トールキンがその講演で語った、構築した架空世界が舞台となるファンタジー。架空世界がきちんと構築されていなければ、ファンタジーは解けてしまうとトールキンの語った架空世界が、ゲド戦記ではアースシーという架空世界、文化でしっかりと構築されている。本書の裏表紙に描かれたアースシーの地図。物語のゲドの旅をきちんと地図で追うことができる。きちんとした設定を作ることで物語に齟齬が起きないようする、好きな人にはたまらない世界。この設定、物語の土台として構築されることは大事だと思うが、個人的には作品であまり書き込まれてもなぁと思うところもある。初めて「指輪物語」を読んだとき、第一巻の冒頭に泣かされた記憶が蘇る。尤も、それが「指輪物語」の魅力のひとつでもあるわけだが。
余談であるがさきに触れたトールキンのファンタジー論が書かれている「妖精物語について―ファンタジーの世界」(評論社)は、ファンタジー好きな方には、ぜひ一読を進める。体系として「ファンタジー」という文学ジャンルの考え方の根拠をひとつきちんと知っておくことも、ファンタジーという物語を楽しむ上でとても役に立つ。


多くの魔法使いを生んだ、アースシーの東北の海にある全島山の島ゴント。その中で最高の誉れ高く他の追随を許さぬ者、ハイタカ。”竜王”と”大賢人”の二つの名誉をかちえ、今日も数々の歌にうたいつがれる男の、まだ歌にもうたわれぬ頃の物語。
ゴント山の中腹、”北谷”の奥”十本ハンノキ”というさびしい村でうまれたダニー。彼の名をつけた母は、彼が一歳にならないうちに亡くなり、村のかじ屋である父親に育てられる。6人の年の離れた兄はそれぞれ独立し、かまいつけられず育つダニー。
ある日、村のまじない師である伯母の呪文を真似るダニーに、並々ならぬ魔法の力があることに気づいた伯母。もともと彼女自身はきちんとした魔法の教育を受けていない。まちがいだらけの知識のなかで、それでもまっとうな術だけを幼き甥に伝えようとする。真(まこと)の名を呼ぶことで、ヤギも野生のタカも自分のもとに来ることを教わるゲド。山腹の牧草地でしばしば獰猛な鳥といるダニーの姿を見かけ、村のこどもたちは彼をハイタカとあだなをつけた。そして彼もその名を借りとおし、その後もずっとこの名を呼び名として使い続けるのであった。
そんな日々のなかでカルガド人がゴントの征服を狙い”十本ハンノキ”の村にもやってきた。幼いながら霧集めの術を使い、村を救うダニー。しかし、すべての力を使い果たしたダニーは、口もきけず、食べることも眠ることもしない、何も聞こえない、なにも見えない、有様となってしまった。近辺の村には彼を助けるすべを持つ者はだれもいなかった。
村を救ったダニーの噂は、各地で人々のくちにのぼるようになっていた。そしてひとりの見知らぬ男がダニーのもとを訪れる。長いマントをはおり、身の丈ほどのカシの木を携えた男、ル・アルビの大魔法使い、地震鎮めの、沈黙のオジオン。彼の手により、救われるダニー。そしてオジオンはダニーの父に言う、噂を聞きダニーに名前を授けたい、そしていっしょに連れて帰り、弟子とするか、ふさわしい教育を受けさせたい。
ひと月後、ダニーの十三になった日、オジオンはダニーに成人の儀式を行った。幼少の頃から慣れしたんだ名前をとりあげ、真の名前「ゲド」を授けた。そしてゲドは、生まれ故郷であった村を離れるのであった。
オジオンとともに旅するゲド。修行は始まっているとオジオンに言われるものの、これといった魔法を教えるでもなく、また見せるでないオジオンに少しだけ物足りなさを感じる。冬至近く、オジオンの故郷であるル・アルビにたどりついた。オジオンの家でも、胸躍るようなこともなく、神聖文字の分厚いページを繰る日々が続く。そして、春。薬草摘みに出たゲドは、そこで出会った領主の娘のそそのかされ、ひとり家に戻り、オジオンの持つ「知恵の書」に書かれた「死霊を呼び出す呪文」を読み始めた。呪文を読み終え、ようやくのことで顔をあげたゲド。肩越しの、閉まったドアのかたわらに何か闇よりもさらに濃く、どろどろとした形の定まらない暗黒の影の塊がいることに気づく。そのとき白い光とともにオジオンが戻ってきた。解かれる呪文。強く叱責するオジオン。光に影がつきものと同じに、力には危険がつきまとう。魔法使いが何かをするときは、それがどういう結果になるかよく考えなければいけない。そして本心として自分の手もとに置いておきたいが、ゲドが望むなら、ローク島で高度な術を学べる道があることを指し示す。オジオンとともに過ごし深く彼を愛していたゲドであったが、若さゆえに、のろのろと遠回りすることよりも、ロークへ行き、魔法を学ぶことを選ぶ。
ローク島の学院で魔法を学ぶゲド。はじめてロークで出会ったカラスノエンドウとは、その後お互いの真の名を交し合うほどの友情を結ぶが、同じく同じときに出会ったヒスイとはうまくいかない。お互い、うまが合わない。そんななかで、ゲドはオタクという、めずらしい動物をともにするようになった。
優秀な成績を収めるゲドであったが、ある日ヒスイの挑発にのり、死んだ霊を呼び起こす術を軽はずみにも使ってしまう。軽率な行動が呼びおこしたものは、大魔法使いであり、大賢人であるネマールの死、消すことのできない傷跡と自由に身体を動かすことのできないゲド、そして、この世に放った死の精霊のひとつ。事件のあと、ひっそりと一人寡黙に、過ごすゲド。そんな彼のもとにひとりの客が訪れる。正式の魔法使いとなり、島を離れるカラスノエンドウであった。別れの挨拶に立ち寄るとともに、真の名エスタリオルをゲドに教えるカラスノエンドウ。真の友情の印。
ロークでひとり修行に勤しむゲドであったが、ある日、ロー・トニングの島の長たちからの学院に懇願された、魔法使いの派遣に応ずることになった。ロー・トニング近くのベンダーの年取った竜が最近卵をかえして、あらたに竜の被害が心配されるからとのこと。後に”竜王”と呼ばれるようになるゲドと竜の戦いの物語。
自らの身に近づく影の存在に気づくゲド。同行する旅人スカイアーとの戦い。オスキルのテレノン宮殿での美しい領主の妻セレット、太古の精霊の閉じ込められた魔法の石テレノンとの物語。それらを経てオジオンと再会するゲド。オジオンの助言により、影に追われることより、向き直ることを決心する。新たなゲドの旅立ち。
旅の途中、漂着した島で出会う、たった二人で住む言葉さえ通じない老いた兄と妹。今や身に纏うのはアザラシの皮を不器用に縫い合わせたものだけという老婆がゲドに見せるのは、小さな子ども向けの真珠が散りばめられた絹のドレス。胸元にはカルガド帝国の兄弟神をあらわす絵模様。そんな彼女はゲドにドレスのスカートのかくしにしまっていた、黒っぽい金属のかけらで、腕輪かなにかの装身具の片割れをプレゼントする。おそらく、高貴な家の出であったと思われるふたり。
旅を続け、親友であるカラスノエンドウと再会するゲド。そして、カラスノエンドウとともに、影と向き合い闘うゲドの旅が続く。影と戦い、滅ぼすまでは、たとえ辿り着く先が世界のはてになろうとも・・。


敢て、詳細なあらすじを載せたのは、既読の方の記憶の呼び起こしの手助けになればと思ってである。個人的にはジブリのアニメ化にはまったく期待していないのだが、もしも、見る機会に恵まれた方が、本書を再読するまでもなく、記憶のなかの作品と照合する手助けになればと思い、記してみた。もちろん、詳細とはいえ、抜粋にすぎないのであるが・・。
ジブリの作品は、ゲド戦記の三作目「さいはての島へ」を原作とするらしいが、やはりゲドが、ゲドたるゆえんは「影との戦い」を経た上であることは否めない。映画公開までに二作目「こわれた腕輪」そして「さいはての島」まで読み、レビューを書けたらと思う。一時は、この三作で「ゲド戦記三部作」であったが、現在では「帰還」(1990)、「アースシーの風」(2001)までが加わり「ゲド戦記五部作」となっており、また「外伝」(2004)も発刊されている。


いまさらながら、おごり、うぬぼれる主人公が、事件をきっかけに反省し、さらに旅を通じ成長する物語の類型(パターン)を踏んだ物語であったのだなと再確認。しかし、魔法もこれだけ制約を受けると、魔法使いもつらいねぇ。
カラスノエンドウの妹ノコギリソウとの楽しげな会話を除くと、色気もなにもない物語。主人公に共感し、その心の動きを同じくして読む小説というより、第三者の目で読む物語というところか。ちょっと、とっつきにくいところは確かにある。名作である。しかし、万人におもしろいと勧められるかどうかは正直、疑問。好きな人には応えられない世界だし、また、非常に厳格に「正しい」物語ではあるが。


蛇足:「闇の戦い」シリーズのウィルもそうだが、ゲドも七人兄弟の七番目。七番目の男の子特別な力を持つという言い伝えは、欧米の文化に当たり前のものとしてあるのだろうか。