バケツ

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「バケツ」北島行徳(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、身障者、ビジネス


個人的に、とてもよかった。でも、万人にオススメかといえば、どうだろう。
気負いも衒いもなく、まさにそこにあるものを描いた。そういう作品。
故に、小説としてみた場合の消化不足などの欠点もある。そこが、オススメできるかどうか客観的に迷う所以。
主観的には、ぜひ皆に読んでほしい。そして、もっとこういう問題を、当たり前として受け入れようよと語りたい。
涙も、感動も少ないかもしれない。でも、それがこそ、こういう問題を当たり前のこととして書いたこと、それがこの作品の価値だと思う。


神島とバケツを主人公とした「バケツ」「噛む子」「駄目老人」の連作中篇三篇から成る作品。


「バケツ」
神島大吾、幼い頃父を亡くし、何かと面倒を見てくれた伯父の経営する運送会社「ゴールデン運輸」に勤める25歳。もとも気が小さく、それを克服しようとボディビルで身体を鍛えるが、性格は変わらない。会社では伯父の後継者としての神島に色々な思惑で、近づく者、敵愾心を燃やす者がおり、気を遣う日々。もともとが小心者、ついに神経性の下痢にかかってしまう。ある日の帰宅時、アパートは目と鼻の先というところでついに脱糞をしてしまう。もう駄目だ。
「ゴールデン運輸」を辞め、転職したのは養護施設「海風学園」。小学一年生から高校三年生までの子供が生活するこの施設で、さっそくマッチョ先生とあだ名をつけられた神島は、ひとりの少年と出会う。バケツと呼ばれる少年。複雑な家庭環境の中、母親から遺棄されこの施設に暮らす、知的障害と盗癖のある中学三年生。180センチほどの身長に、か細い身体、異様な容貌。この施設に来る際、バケツを鞄代わりにやってきたことからバケツと呼ばれるようになった、そんなバケツと神島の物語が始まった。
指導という名目で体罰を許容する施設で、神島はひとりの指導者的女性教諭とバケツの処置を巡り、ぶつかる。愛情を持てばこそ、体罰をふるう。それが故に、この施設の成績はよいという事実。しかし、反面、落ちこぼれた子供を「失敗例」とうそぶき、切捨て、せせら笑う職員たち。理想だけでは生きていけない、現実に職業として割り切らなければやっていけない。それは事実である、しかし、それでいいのか。
姉にひきとられ、卒園したバケツであったが、姉の勝手な都合で行く先がなくなり、神島のアパートへ転がり込んできた。海風学園ではもう受け入れてくれない。そして神島にとっても、この職場はもう潮時だった。辞表を書く神島。施設を去る神島に、女性教諭のかけた言葉は「告発なんかしないでしょうね」。彼女は彼女なりの信念をもって、それが正しいと信じた行動なのだ。
神島の学生時代のボランティアの先輩黒田凛子。今は障害者を集めて劇団「犬の後ろ足」を主宰。障害者が悲惨な目に遭う、シニカルなブラックコメディが一部のマニアに熱烈な支持を受け、雑誌などでもその名を見かけるようになった。最近は「ハンディキャップ・アクター。スクール」も開き、希望者殺到で大繁盛だそう。障害者だけど凄いではなく、障害者だから凄いという役者を育てあげたいと語る。稽古場で、ひときわ迫力を持って身体を振るわせる重度の障害者。実は黒田の弟。筋萎縮症でいつか身体が動かなくって死んでしまう、だからこそ凄みがある。あっけらかんと話す黒田。
施設をやめた神島は、黒田の劇団の倉庫にバケツとともに転がり込み「日焼けサロン」を経営することにした。できることはバケツにも手伝わせて。夏を迎え、当初は繁盛していた日焼けサロンも秋の訪れとともに閑古鳥が鳴き始めた。売り上げ不振で、生活を切り詰め始めた途端、バケツの盗癖が始まった。バケツの手の届くところから、お金の鞄を遠ざければ盗むこともできなくなる、しかし、敢てそのままにしたい。売り上げ不振が続く中、最悪の状況ばかり頭に浮かび、不眠と不安、ノイローゼ寸前の神島。そんななかで、バケツが売り上げのお金を盗もうとする場面に直面する神島。「ふざけんな!」思い切りバケツの顔面を平手で張り倒す。
少し休み、日焼けサロンに出かけ、神島が戻った倉庫にバケツの姿はなかった。汚い字の書置きを残してバケツは去ってしまったのだ。行く宛てもないのに。
バケツを探す神島。「バケツのためにと思ってやってきけど、本当は僕があいつに助けられていたんだ。あいつを必要としていたのは僕だった・・」神島はバケツと再会できるのだろうか・・・。


「噛む子」
バケツとの生活も二年が過ぎようとしていた。神島は日焼けサロンに次いで、次なるビジネスとしてフランチャイズの無認可保育園の経営を始めていた。相変わらず黒田の劇団の倉庫に間借りして。保育士として雇った、息子を大学に入れ手が離れたというベテランの須藤と、アルバイトの若い女の子二人がぶつかることもあるが、概ね良好な経営状態。そんな神島の保育園にはいろいろな親子がやってくる。まだ遊びたいからと自分の母親と一緒に園を訪れ、子ども預ける若い母親。離婚協議中の幸薄そうな母親の連れてきたのはふたりの子供。弟の剛は、なにかあると姉の優美を噛む。噛む癖のある子は、愛情を求めているという話もある。そんなある日、その子、剛が高熱を出し、ひきつけを起こす。母親に連絡をとろうとしても連絡がつかない。なんとか連絡がついた母親も、できるだけ早く迎えに行きますと電話を切る。ビジネスに徹しきるべきなのだろうか・・「天国、地獄、どっちへいく。やっぱり、天国いきたいよ。なんとかしてよ、なんとかするよ。」バケツの歌っていた歌を、神島はつい口ずさんでいた。
バケツの恋心も交えた、小品。


「駄目老人」
バケツとの生活も五年目になった。日焼けサロン、無認可保育園に続き、老人向け「プライベートヘルプ」をスタートさせた神島。介護保険の利かない隙間を狙った新規ビジネス。保育園のほうを任せている須藤の、大学休学中の息子伸二を従業員として雇いいれた。実は伸二は、第一志望の大学の受験に失敗してから脅迫神経症になっていた。須藤によれば、神島との仕事のなかで、すこしづつ快方に向かっているらしいが。
さて、バケツはといえば、一人で新聞配達を始めていた。無理だと、神島は反対したが、ぼくも大人にならなければいけない、いつまでも先生を頼ってはいられないと主張し、目覚ましを四つかけ仕事に臨むバケツ。数日で駄目になるかと思えば、存外続いており、バケツの一人立ちを寂しく思う神島。「花嫁の父みたいな心境。嬉しいのか、哀しいのか」
いっぽうプライベートヘルプのほうは、脳梗塞の後遺症の花沢老人の依頼に四苦八苦する神島。花沢老人の希望は家族にも内緒にしていた女装を手伝ってもらうこと。そして、ある日、新宿の街を女装で買い物したいと言い出して・・。


施設、知的障害児、無認可保育園、老人サービスと、この作品でこの作家は、一般的に弱者とされる人間たちを、特別な思いいれなく、淡々と描く。ともすれば感動を呼ぼうとし、針小棒大に描かれやすいテーマを、当たり前のことのように描く。いや、実際当たり前で、そういうことを当たり前に皆が受け入れてこそ、本当のバリアフリーであるのだが、作家はそういうことさえ声高に叫ばない。その姿勢が個人的にとても好感が持てた。
作品のなかで作家は、ボランティア学習に来た学生に対し「障害者は学習素材じゃない」と切り捨てる。おためごかしやきれいごとでなく、生きる人間に手を貸すこと、それは当たり前であるべきこと、決して「素材」ではない。尤も声のかけ方などは、まだまだ「学ぶべき段階」というの現実ではあるが。
作品では書かれていないが、障害者でも、老人でも、弱者をカサにきてイヤな奴もいれば、いい奴もやる。同じ人間だから、当たり前。そうしたなかで、人に手を差し出せる人間になりたいなぁというのは、マザー・テレサの映画[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/10282991.html ]を見たときも思ったけど、なかなか難しい。


この作品のよさのもうひとつは無認可保育園も、老人向けのサービスも、きちんと対価を得る事業(ビジネス)と捉えていること。フランチャイズ保育園の本部の社長の言う、女性には母性があり、安い給料であろうと、保育士をすることに喜びを得ているので、賃金を低くしても構わないというのも納得。思い込みだけではなく、事業として捉え、理想との狭間に悩みながらも、事業を運営する神島の姿は、好ましい。決して拝金主義だけでなく、決して思い込みだけでもない。こういうバランスは大事だと思う。


とにかく読んで欲しい、そして考えて欲しい。個人的には「東京タワー」(リリー・フランキー)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/11726205.html ]なんかより、もっとずっとみんなに読んで欲しい作品。考えて、行動に結び付けて欲しい。
弱者というレッテルを貼り付けた人にでなく、すべての人に優しい自分でありたい。そう願えるように。


蛇足:キャラクターとして、バケツの話し方は、とてもリアリティーを感じた。対して、神島のボディビルでマッチョな肉体は、もっと作品に絡めてほしかった。せっかくの特異性の設定が、その場だけで終わってしまったような感じ。勿体無い。