沼地のある森を抜けて

沼地のある森を抜けて

沼地のある森を抜けて

「沼地のある森を抜けて」梨木香歩(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、幻想、生命


ネタバレ?ありなのかなぁ。未読者は注意。


「家守綺譚」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/11777750.html ]、「村田エフェンディ滞土録」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14233051.html ]と、削ぎ落とされた文章で、心に響く作品を発表してきた梨木香歩の作品。残念ながら未読の「からくりからくさ」という作品に連なる作品のよう。
この作品、正直、個人的にはそれほど評価しない。ぬか床から生まれた、少年たちの物語かと思いきや、どうも「生命」というもの物語?その「生命」の書き方も、ちょっと疑問。普遍的な生命を描こうとしたいのか、主人公に繋がる局地的な、特殊な「生命」を書きたいのかもよく分からない。物語にリアリティーを与える生物学的な知識、情報と、寓意をもたせたサイドストーリー、あるいはパラレルストーリーの寓話がうまく融合していない気がした。
ぼくに読解力が足りなく、読み切れていないせいかもしれないが、万人にオススメの一冊とはいえない。


大学時代両親を交通事故で亡くし、家族もなく独身一人暮らしのとある化学メーカーの会社員久美が主人公。ある日亡き母の妹である時子叔母が亡くなった。会社を無断欠勤した時子叔母を心配し、叔母の高校時代からの友人、会社の同僚である木原さんが家を訪れたところ、心臓麻痺で亡くなっていた叔母を発見した。時子叔母も、久美と同様に独身の一人暮らしであった。今は結婚して、家族を持つもう一人の叔母、加世子叔母と葬儀をし時子叔母を弔った。そして、久美は時子叔母のマンションと、久美の家に代々伝わる家宝のぬか床を遺産としてもらうことになった。
かけおち同然に故郷の島から出た祖父母が、たったひとつ持ってきたものがこのぬか床。祖母は戦争中、空襲警報鳴り響く中、命がけでこのぬか床を守り通したという。毎日手入れをしないと文句を云い、また相性があって、加世子叔母は相性が悪く、手を突っ込むと呻くという。久美とぬか床の日々が始まった。
ある日、ぬか床のなかに卵のようなものが生まれた。取り出していると牛ガエルのように呻く。加世子叔母に電話をすると、それはすごいと言う。60年に一度くらいしか起こらないこと。あなたには素質があるといわれたが、嬉しくない。この卵をどう始末したらいいだろう。
そうこうしているうちに卵から一人の男の子がうまれた。半分透き通ったようなパンフルートを吹く小学校中学年くらいの少年が久美の部屋に住むようになった。少しづつ成長しながら。そんな、久美のもとに小学校時代からの幼馴染フリオがやってきた。フリオは、久美の母から、ぬか床から人が湧く話を聞いていた。そして久美の部屋にいる少年を見た途端、少年時代、フリオのヒーローだった、級友の光彦だと言う。その少年を光彦と呼び、まるで子供の頃に戻ってしまったかのようなフリオ。そして、少年はフリオとともに、久美の部屋を出て行ってしまった。
光彦のいなくなった久美の部屋に、新たな住人が卵から生まれた。カッサンドラと名乗る目のない嫌味な中年女性。彼女の奥行きのない目だけが、蛾のようにヒラヒラと部屋を舞うのであった。
久美は、木原さんの話から、叔母がぬか床について相談していたという風野さんという男の人に辿り着いた。風野さんは、たまたま久美と同じ会社の研究所に勤める、酵母菌を専門に研究する研究員。家柄だけを自己アイデンティティとし、病気の母親を奴隷のように使い、死に追いやった父権社会の権化のような、父と、祖父に抗議するために、男を捨てた人間。それは決して、女性になることを選んだのはない。無性を選んだと言う。
酵母や真菌、粘菌を愛する風野さん。古びたアパートで、ケイコちゃん、アヤノちゃん、タモツくんと名づけたそれらを愛で、育てていた。
そんな風野さんとともに、久美は、故郷の島を訪れることになった。ぬか床の、そして自分の家系の源を探るため。島民もほとんど去り、荒れ果てた島。そこに残された手記、そして沼地。秘められた真実とは・・。


一方、物語は、「かって風に靡く白銀の草原があったシマの話」をサイドストーリとし、久美の物語と並行に、交互に進む。それは個性なく、皆同じ姿形をし、同じ行動「移動」する「僕たち」と、それを育てる「叔母」たちの物語。そのなかで、個性を持つ「僕」が「家」から離れ、水門(ロック)に辿り着く物語。水門守(ロックキーパー)と出会い、そして僕はロックオープナーになった。


人間と真菌たち、「生殖」という言葉を乗り越えた「生命」の物語。無性であろうと、有性であろうと、そうした概念を越える「生命」の大きなうねりを、この作品には感じた。しかし、ならばカッサンドラの物語は必要だったのか。あるいは性を越えたかった風見さんが、最後に久美と結ばれることは必要だったのか。
ぼくがもし読み間違えてないのだとしたら、この作品が語ることは、「生命」が次代に生命を繋ぐ物語。人智を超え、あるいは人の想いなどとるに足らないものとして「生命」は生命を繋いでゆく。その温かな羊水のような肌触りの心地よさを、この作品に感じながらも、しかしぼくは違うと思う。人の意志が、人の生命を繋いでいく物語でないのなら人が「人間」である必要などなくなってしまう。
ひとりひとりの意志(will)があればこそ、ぼくたちはこうして小説、物語といったものを楽しめるはず。遺伝子に組み込まれた大いなる意志を否定するつもりはないが、もっともっとひとりひとりの意志に重きを置いた作品であって欲しかった。
またぬか床と、そこから生まれた少年の物語もきちんと完結してほしかった。

え?もしかして、全然。読み方間違えている?


蛇足:最近読んだ本で、「マルコの夢」(栗田有起)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/5263232.html ]、「ポーの話し」(いしいしんじ[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/8258697.html ]、
デカルトの密室」(瀬名秀明)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/24016130.html ]を融合させたような小説。もしかしたら、「デカルトの密室」の、「パラサイトイブ」を書いた瀬名秀明なら、同じテーマをもう少し分かりやすいエンターテイメント作品にしあげられたかな、とも思う。