ナラタージュ

ナラタージュ

ナラタージュ

ナラタージュ島本理生(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、恋愛、青春


読了して、ふうっとため息がこぼれた。
切ない、若い恋。あぁ、こういう想いはどこかで経験した。懐かしい痛み。もっと器用に生きたのなら、こういう痛みは経験しなかったろうな。でも、この痛みはとても大事なもの。


表紙をめくるとカバーの袖に「ナラタージュ・・映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ること」。本作品は回想譚。はじまりは、結婚を目前に控えた男女。新居となるマンションを見にいった帰り途、男性が女性にそっと尋ねる。「君は今でも俺と一緒にいるときに、あの人のことを思い出しているのか」「そんなふうに見える?」「見えるよ。君に彼の話を聞いた夜から、俺は君を見ていてずっと思っていた」「それならどうして私と結婚しようと思ったの。」じっと立ちすくむように川を見ている主人公に男性は「きっと君は、この先、誰と一緒にいてもその人のことを思い出すだろう。だったら、君といるのが自分でもいいと思ったんだ」。
今でも呼吸するように思い出す。だけど、実際に二人がまた顔を合わせることはない。私と彼の人生は完全に別れ、ふたたび交差する可能性はゼロに近い。


プロローグで、忘れられない彼とは、別の男性と新しい生活を主人公が始めることが描れる。新たな生活をともにする彼は、彼女の過去を全て知ったうえでともに生きることを選ぶ。そして、また読者は回想の物語が決して成就しないことを意識する。成就しない想いの物語。それがゆえこの物語には切なさが溢れるのだろう。もし、このプロローグがなかったら?それでも切ない物語に変わりはない。しかし、これほどまでに物語全編に切なさを漂わせたかどうかは疑問。


大学一年の冬、父の海外転勤で両親はドイツへ引っ越していった。工藤泉は日本に残りアパートでひとり暮らしをすることになった。
ゴールデンウィークを控えたころ、懐かしい声が携帯から流れた。高校のころの演劇部の顧問、葉山先生からの電話。いま演劇部は、高校三年生の部員三人しか残っていない。文化祭の時期の遅い高校なので、受験を控え、父兄から文化祭では活動しないで欲しいと言われている。彼らの引退を、少しにぎやかにしてやりたいので、顔を出して欲しい。電話を終えた泉は、弾む気持ち、甘い想いがよみがえりそうになった。
葉山先生の依頼で、同じ演劇部員であった同級生、志緒、黒川、そして黒川の連れてきた小野君とともに現役の高校生、柚子ちゃん、新堂君、伊織君を手伝い、公演を行うことに。
そして、泉の切ない恋の物語が語られる。
葉山先生への溢れる、止まることを知らない想いを、頑なに自制という蓋で押し留めようとする泉。
真面目に、不器用に、泉を傷つけないようにしようと、逆に泉へ向かう想いを中途半端に自制するが故に、泉を苦しめる葉山先生。
一見、気持ちのいい好青年、しかし、若さゆえに、自分自身への自信のなさが、泉の自分への想いを確かめずにいられない。そしてそれが強く抱きしめるという形でしか表現できない、安心できない小野君。彼も痛々しいほどに真面目に泉を想っているのに・・。
真面目とか、不器用としか言えない三人の主人公たち。想いは、自分があるべき方向に進まない。それがもどかしくて、それがゆえに切なく、狂おしい。


一歩間違えば、ただのメロドラマ。書き方さえ間違えてくれれば、いい加減にしてくれと捨て去ることもできる恋愛物語の王道。それを、かくも多くの人にこの切なさを共感させ、賞賛の声を呼び起こすことができたのは、この作家の力。この作家の持ち味である、静謐に淡々と、丁寧で細やかな描写で物語を進める。私のモノローグで進む小説だが、主人公の主観的な気持ちを語るのでなく、細やかな事象を描くことで進む。それが、この作家の、この小説の魅力。
久々に多くの人が褒めることに心から同意し、また共にに拍手を送ることができた。本当にオススメの一冊。若い人もそうだが、ぜひ「あの頃、あの痛み」を忘れかけた大人の人に読んで欲しい。


740枚、373ページ、たぶん「長編」なのだが一気に読み終えた。いや、一気というほど勢いをもって読んだわけでない。淡々と読み進めて、気がついたら終わってしまったという感じ。終盤、多少冗長に思える場面がなかったわけではないが、丁寧に書かれた文章が、いつのまにか大きな事件もないこの作品を終わりまでぼくを誘っていた。
あぁ、ぼくはこの人の文章が好きだなと改めて感じた。そして、また、この作家も、成長といえば聞こえがいいが、大人の作家になっていってしまうのだなと寂しく感じた。「一千一秒の日々」を読んだとき、ぼくは「この人にはセックスを書いて欲しくないな」と評した。しかしというか、やはり書いてしまうのか。セックスを否定するわけではない。ただ、おそらく、この物語もセックスは必然ではなかった。それがなくても切ない想いは充分伝わった。性愛を描写することはいろんな意味で契機(きっかけ)を表現しやすい行為だと思う。しかし、たかがそんなことのため、この作家にありふれた性愛描写をしてほしくなかった。その描写は決して徒に過激なものでなく、充分作品世界を表現していたにも関わらず、ぼくはそのことを残念に思う。
しかし、それでもぼくはこの作品は高く評価する。
ぼくにとって不必要なに思える性愛の描写も、この作品の価値を減ずるほどのものでなはい。それほどにこの切なさを訴える力、表現力、文章は素晴らしい。
ただ、その代わり柚子ちゃんのエピソードは本当に疑問に想う。このエピソードが、作品に必要な事件だったとは思わない。この事件のきっかけも、また終わりも。この世にこうした不幸な事件があるとしても、この作家が、自らの身を切り刻むような痛みをもって、この作品のなかでとりあげる必要があったのか首をかしげる。残された手紙という形で種明かしをするくらいなら、なくてもよかったのでは。男性の力づくの行為を受け入れるしかなかった、それも、もしかして恐怖のあまり媚びるよう態度さえとってしまったかもしれない女性という----それは主人公泉にも通じる----立場を書きたかったということは理解できる。
しかし、読者の勝手な感想であるが、ぼくは不快であった。ここで申し訳ないが☆ひとつ落とさせてもらう。余談であるが、往年の少女漫画の名作「生徒諸君」(庄司陽子)で同様のエピソードを描いていたことを思い出す。このことを書くなら、わがままかもしれないが、希望を持てる未来を描いて欲しかった。


島本理生という作家をこの先読んでいけるかどうかについては、正直、自信がもてない。実は昨年末に「新潮」に掲載された「大きな熊が来る前に、おやすみ」という作品を読んだ。テーマはDVであった。「ナラタージュ」にも少し出てくる愛する人から受ける暴力という題材。作家の成長を読者がどうこういうべきでないが、少なくともぼくはこの方向性は好きではない。彼女の成長、あるいは進む方向が読者としてのぼくの好まぬ方向ならば、残念に思いながらも、別離をしなければならないのかもしれない。だが、その別離は島本理生という作家、作品と出会えた喜びを損ねることではない。


彼女は、どこへ進むのだろう。


この作品が書かれたことこそ、堀田あけみのときにも感じた、少女が大人の女性へと変容していくことの証なのかもしれない。認めたくない・・・(・・・with a sigh.)。イツマデモ、コドモノママデハイラレナイ。ダケド・・・。


蛇足:この作品、実は得意でない女流作家小池真理子の雰囲気と似たものを感じた。切なく狂おしく行き場のない想い。尤も、島本のほうが年少なせいなのか、それとも節度ある文章のためか、清廉さとかを感じるのだが。
蛇足2:これから新しい生活を始める二人。彼が、泉の過去をすべて受け止められる器の人であれ、と願うばかり。一歩間違うと小野君の再現になってしまうような気がした。小野君を描く描写が、好青年の第一印象から、とても弱い本質が現われていく姿にとてもリアリティーがあっただけに、受け止める新しい男性にもあてはまるのではないかと心配。泉は、もしそういう状況になっても、それは仕方ないことと、自分がしてきたことが悪いと、諦念でもって受け止めてしまいそうで・・。最初の場面が、抜けるような青空の場面でなく、夜というのが象徴的。
蛇足3:ぼくが今までに評した島本理生の作品(参考)
「リトル・バイ・リトル」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/8114125.html
「生まれる森」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/8844909.html
「一千一秒の日々」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/13229048.html
「大きな熊が来る前に、おやすみ」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/20552313.html