はるがいったら

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はるがいったら

「はるがいったら」飛鳥井千砂(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、文芸、姉弟、老犬、第18回すばる新人賞受賞作。


!ネタバレあり!。特に未読者はこのレビュー読まないでください。超辛口です。


銀座のデパートで受付カウンター嬢をする姉の園(その)。幼い頃から身体が弱く入退院を繰り返し、そのため高校を一年留年している弟、行(ゆき)。ふたりの両親は9年前に離婚、園は銀行員である母親についてゆき、行は中国料理店を営む父について残った。父は再婚をし、行は真奈美という新しい母と、忍と云う兄を新たに得た。
園は、自分の生き方を貫き、きっちりと物事をこなしながら日々を過ごす。時に周囲の人を厳しい目で的確に評価しながら。いっぽう行は身体が弱いが、それを気にすることなく、すべてのものごとをそつなくこなし飄々と生きている。両親が離婚しても交流を持つふたりの生活を、幼なじみであこがれの恭司や、あるいは行の同じ中学で後輩だったがいまは同級生のなっちゃんを交え、描いていく。
体調を崩し入院する行。あるいは園に対する無言電話、中傷の手紙。大事件とまではいえない日々のできごと。そして公園で14年前ふたりで拾った老犬ハル。もはや自分の力で動くこともできず、ただ横たわるだけの日々。細やかな筆が、ふたりの姉弟とそのまわりの人々、そして老犬の姿を描く佳作。


あちゃぁ、頭を抱えてしまった。え?これ、みんな評価しているの?ネットの書評を見ると、好意的な意見ばかり。でも、ぼくは評価しない。これを新しい感性というなら、ついていけなくて結構。本作品は敢えて自ら辛口と割り切って、ばっさり斬る。


この作品、ちょっと変わった姉弟の物語のように思われているようだがそれは違う。一人の自己中心的で、自己愛の激しい、そして自立していると勘違いした女の物語。ぼくはそう読んだ。


デパートの受付嬢を勤める薗(その)。167センチという女性としては長身、童顔だがキツめの目、常に自身をコントロールし、痩せすぎとも思えるほどに身を削ぎ落としている。
「ストレッチで痩せた身体は心地よいムダな肉が一切ないのは、身体が浄化されて、汚いものを削ぎ落としたかのように快感である。」
生活もシンプル。ムダの一切を切り落としたかのよう。友人は、たったひとり、美佐。彼女だけが自分を分かってくれて、自分を心配してくれる。それだけでいい。
会社の同僚とのムダなつきあいもしない。そつなく会話はこなすが、決して馴れ合いで社外でまで食事や、飲みにいったりというつきあいはしない。基本的に仕事が終わるとまっすぐ家に帰る。お昼も、自分で作ったお弁当を持ってくる。洋服は、きちっと決める。そして、そういう自分の生活を、自分で評価し、認めている。こういう生活こそ、あるべき姿と、思っている(に違いない)。だから、自分を慕うかわいらしさをまとった女の子の同僚が嫌い。20歳にもなって、母親にお弁当を作ってもらう。ファッションや化粧が似合わない。香水が耐えられない。心のなかで値踏みする。部署の違う女の子は”シンプルだけど似合っている”と評しているのに。
幼馴染みの男性とは、彼が婚約者がいると分かっていても、平気でデートをし、セックスをする。これは男が悪いと言ってしまえばそれまでなのだが、本人も罪悪感もなく、ただ心地よさに身を任せているだけ。
「幼なじみ?兄妹みたいな関係?浮気?不倫?何でもいいや、私と恭司は、今、純粋な二匹の生き物だ」
本当だ、これは心ある人間じゃない、生き物だ、動物だ。全てが自分を中心にまわっている女。他人に対する優しさが足りない、思いやりが欠けている。
そんな彼女宛の無言電話、中傷の手紙の犯人がわかったときも、赦すでもなく、真剣に怒り、人間として分かり合おうとするわけでもない。「私だってなんでもできるわけでなく、努力してるんだよ。生まれつきじゃくて」犯人の境遇を理解した素振りを見せつつも、あるのは自分の肯定。友人の美佐が「友達としても手抜きすることをお勧めしたくなる」と助言しても、それは遠い言葉。「そんなのわかんなくても。園はかわいいし、しっかりしてるから。大丈夫だよ」幼なじみで、憧れだった恭司が言ってくれたその言葉だけを拠り所にする。
つまり、他の誰でなく自分だけが愛されたい女。そんな主人公の物語ではないだろうか?
愛されたい想いというのは決して悪いわけでない。しかし、愛されたいだけではダメだろう、やはり行動しないと・・。主人公は作品で、愛を求める姿は晒さない。たぶん、それはシンプルなことでなく泥臭いことだから。たったひとりの幼なじみとしか身体を重ねたことはないと言う。でも、それって愛じゃない。結局言い訳。傷つきたくもない、格好悪くもなりたくない。こういうのって、共感を呼ぶの?私も同じ、同じ、って?


おそらく反論として、この女性がこれから変わっていく希望を描いているという意見も出るだろうし、そういう意見も見られた。
タイトルにもなった、幼い頃からともに育ってきた老犬との別離を通し、変化、成長(?)する兆しが見える。たとえば、それは幼なじみへの”ばいばい”であり、あるいはアパートの隣人にパジャマ姿といった隙を見せるという行為。憧れや、高みばかりでなく、本当の意味で地に足のついた生活。そういう変化の兆しを読みとることができる。確かにそれは否定しない。でも、ちょっと弱い、弱すぎる。穏やかな余韻といったような言葉で誤魔化されはしない。


そして、何より残念なのは肝心なタイトルともなった老犬の物語が、ぼくにはとってつけたようにしか感じられなかったこと。ただただ、死を待つかのような老犬の姿。たとえ、そこにあるのが”死”だけだとしても、何か主人公たちに希望や、きっかけを与えるエピソードがあってもよかったのでは。糞尿の垂れ流しを、主人公たちが汚いと思いつつも、そこに”生”を感じるエピソードとか。これではまさに”逝く”ためだけの存在ではないか。新堂冬樹の「天使がいた三十日」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/10023907.html ]でも感じたが、こう”犬”というだけで許せる読者を意識した作家のあざとさのようなものを感じてしまったというは言い過ぎだろうか。


「となり町戦争」に続く、第18回すばる新人賞受賞作。多くの人が、好意をもって評するならばこそ、敢えて苦言を呈する。ぼくの読み方が間違っているなら、それまで。ただ、こういう読まれ方をすることもある、と。決して、破綻しているとか、作品の完成度が低いとかではない。


・・・・でも、やっぱり、ぼくの読み方が普通でないのかなぁ。かなり自信なし。


蛇足:このブログの幾つかの感想で触れている、ぼくの青春のバイブル「はみだしっ子」(三原順)の、アナザーストーリー「ロングアゴー」で「ぼくは媚びを売る生き物は嫌いです」と語る主人公に、媚びを売ることでしか生きていけない動物はどうしたらいいのかしらと答える、主人公の友人の母の姿があった。そのことが、ちょっと思い出された。


おまけ:家人に読ませたところ、彼女いわく、最初の頃のキツイ園が、最後に成長していくまでが緩やかに描かれるのがよく、それを読み取れないのはあなたは読解力がない、だそうです。
そう読めるように書いて欲しいと言ったのですが、却下されました。さらに彼女は言うに事欠いて、私は園タイプだからわかる・・だって。悔しくて、鎖骨で金魚飼ってみろといったらひどく怒られました。(涙