「みんな一緒にバギーに乗って」

みんな一緒にバギーに乗って

みんな一緒にバギーに乗って

「みんな一緒にバギーに乗って」川端裕人(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、連作、短編、保育園、保育士


大好きな作家、川端裕人氏の作品。読むのが遅くなったが、やっと読んだ。率直に感想を言えば、?あれ?、なんか違和感。期待していたから期待を外されたとかそういう問題でなく、作品として違和感を覚える。そういえば氏の作品、「ふにゅう」のときもちょっと違和感を感じたことを思い出す。作品世界に入り込めないのは、読者としてのぼくの問題であるとは思うが、川端氏が最近描く子育てに関わる作品は、訴えるものを読み取れない、感じ取れない。
変わらず丁寧な取材によって書かれた現場の真実は描かれていると思う。ネットの感想を見ても、現場で働く保育士の目から見ても驚くほどリアルという言葉を多く見る。しかし、真実、事実はあれど強く訴えたいものが感じられない。
本作品は、ある区立の保育園を舞台とする。この保育園にこの春、大学卒の二人の新人男性保育士と短大卒の新人女性保育士が配属された、そんな彼ら新人保育士たちと、そしてベテラン保育士と、視点を変え、語られる、保育園の出来事。新人保育士の仕事の悩み、ベテラン保育士の生き方の悩み、そして最終章で語られる保育園の民営化の問題。
ひとつひとつの作品は珠玉の佳作と云い得る、丁寧で真面目でそしてあたたかな小品。しかし、一冊の作品として通してみたとき、作品を通して何を伝えたいのかが判らない。そこが作品を高く評価できない理由。いや、深く考え読み込めば、見えてくるのかもしれない、一筋縄で行かない主張が、。
保育という現場には、決してこれといった決った正解はない。そのなかで、それぞれの主人公が壁にぶち当たりながら、暗中模索で手探りで先を進む様子。それは”真実”だとしても、物語や小説を読む読者にとっては、とりあえず作家が整理した結論、主張がなければ、なんだか消化不良のような気分。育児をテーマにしたが故に、断言を避けたとするならば、おそらくそうなのだろうが、まじめな川端氏らしい作品といえなくもないのだが、それでも消化不良はおさまらない。


作品は、春そして夏と季節の変わり目と、最終話に登場する謎の男性の姿を描くごく短い挿話二編と、新人保育士を中心とする各保育士の視点から書かれる幾つかの短編から成る、連作集。


「めだかの学校」
田村竜太は、この春大学を卒業し、区立桜川保育園に保育士として着任した。一緒に配属されたのは同じ大卒の男性保育士秋月康平、短大の保育科を卒業した中島ルミ。
大学二年の同窓会で元クラスメイトの短大の保育科に通う女の子と話をし、男性でも「保育士資格」が取得できることを知った竜太は、子供が好きだったこと、そして子供相手に仕事をする自分の姿が容易に想像できたことから、保育士になることを選んだ。周囲の皆も、おまえらしいよと言ってくれた。それ以上に保育士になる理由なんてなかった。しかし、同期の秋月は違った。これからは男性が育児にかかわるのはあたりまえの時代。保育の現場に男がいないのもまたべつの意味で不自然。より豊かな社会のために、保育の仕事は男にとって最前線の仕事だから、保育士を選んだと述べた。
理想をもってきびきびと、颯爽と仕事をこなす秋月に比べ、身体はマッチョだが、どちらかというとひっこみ思案な竜太は、現場でももたついてばかり。子供を預ける親からも、男の保育士?と思われ、また新人で安心して任せられないという表情に会う度に萎縮する竜太。また、そうした竜太の心の動きは子供たちにも察せられらるのか、悪循環に陥ることもしばしば。そうした毎日のなかで、子どもたちに助けられ少しずつ成長していく竜太、そして子供たち・・。


「コロチュ」
保育園の子供たちの間に「殺す」と言って、ほかの子供に暴力することが流行りはじめた。それはある一組の兄弟たちの口癖が周囲に移っていったものだった。「殺すなんて言っちゃだめなんだ」「きみたちは誰も殺したり、殺されたりしちゃいけないんだ」子供たちを強く抱きしめ、さとす竜太。子供たちの間で流行は収まったかに見えた。
誕生会の出し物の最中、王子とアリスを助けようと「コロチュゾー」「コロチュ、コロチュ」と、竜太の演じる怪人に小さな身体を全部預け、怪人を倒そうとする一組の兄弟の姿があった。真実を知る竜太。「コロチュ」は彼らにとって、愛情表現の言葉であった。でも・・。


「ナウなヤングな王子ちゃま」
保育園は、働いている親の子供を預っているので夏休みはない、そんな夏の日。これからの子育ては男女の区別なく関わっていくべきと考える秋月康平は、園児の女児に王子様と呼ばれ、おままごとで昔ながらのお父さんの役割を割り当てられ、ちょっと不愉快。そんな彼もプライベートに戻れば、学生時代からのつきあいの彼女、紗耶香がいた。大学時代は鎌倉にある紗耶香の実家にも何度も遊びに行ったのだが、秋月が保育園勤務を決めた頃から、紗耶香の両親の態度が変わった。保育士の給与は、短大卒の女性をモデルにしているから、大卒でも大した稼ぎにならないようじゃないか、紗耶香の父親も痛いところをつく。そんな紗耶香だが、秋月の意志の強さとか、強情なところが紗耶香の父に似ている、結果的に女性は父親に似た男性に惹かれるというのは本当なんだとうそぶく。
秋月は「男、女、という区別なく、自分の個性を表現できればよい」という考えの持ち主。「こうあるべき」とか「理想」なんて言葉を簡単に信用しない。そうしたなかで理想の父親像という問題と直面し、自らがほとんど母子家庭であったことに思い至る。
保育園での子供たち中心の生活のなかで、少しずつ変わっていた秋月。そんな秋月に、恋人の紗耶香は、最近の秋月は角がとれ、男っぽさがなくなった。私は、強烈で、強引で、切れやすい男性的な人に惹かれる。理屈ではない。と秋月のもとを去ってしまった。
残された秋月は、今の自分の居場所が、保育園での子供たちとの生活にあると気づく。


「ハチオオカミはふーっト吹く」
竜太や秋月とともに、新人保育士として桜川保育園に配属された中川ルミ。同期で、区役所に配属された妙子との、仕事とか生活の違いを意識する。そんな妙子と合コンに参加した。でも、なんか違う。合コンの席の話題は、流行のドラマの話ばかり、保育士の仕事に興味をもってくれたと思った男性も、保育士という言葉のなかにある優しさのイメージでしか見てくれない。
保育士としては、可もなく不可もなく、器用でもなし、不器用でもない。田村竜太のように熱心でもないし、器用でいろいろ考えている秋月みたいでもなく、中途半端。向いていないのかなぁと時々思う。
そんなルミが、子供たちの考えたハチオオカミと出会うことで、自分の進む道を見つける。


「妖精の棲む小さなおうち」
桜川保育園のベテラン保育士、大沢恵子。30を過ぎて、独りでいることに母親はいい顔をせず、お見合いの話を持ってくる。短大時代はお洒落なことに気をつかっていたのに、今では、化粧っけもなく、軽いルージュとファンデー、ジーンズに動きやすいカットソー。でも、保育の仕事は一番心地よく、充足した空間。
そんな大沢であったが、学生時代に少しつきあっていた三輪君の子供を預るようになり、ちょっとだけ違和感を感じるようになった。彼の子供を通し、交わす育児日誌を通じ、擬似家族的な交流を楽しむ。そして、同僚の久保先生が、三人目を妊娠したという事実を聞き及び、ふと自分だけが”独り”ということに気づく。


「元気せんせい」
久保先生の産休の間にやってきたのは天野先生。元気で溌剌とした保育のベテラン。保育士が男性に門戸を広げたばかりの頃に資格をとった男性保育士。子供の仕事は、遊び。遊びの王様は外遊び!今日も子供を外に連れ出して遊ぶ。理想を持ち、細やかな目で子供たちを見守り、そして元気に遊ばせる天野先生のおかげで保育園の様子もだいぶ変わった。保護者の間では、賛否両論。そうしたなかで、天野先生は竜太に、昔の自分に似ていると気にかけてくれていた。
ある日、保育園に民営化の話が持ち上がる。理想の保育園を作りたい、竜太と秋月に語る天野先生。ぼくは保父でなくガキ大将になりたいんだ。
冬の日、事件が起こった。いや、事件はきっかけに過ぎない。天野先生は保育園に来れなくなった。天野先生の昔の同僚だった窪川主任に、竜太は天野先生に渡されていた封筒を託した。それは天野先生の理想の保育園の、現実的な計画書だった。ぼくには、持てません。見てあげただけで充分だわ、でもね、天野先生も、今のあなたのように子供のことだけでいっぱいいっぱいだったのよ。
いまの竜太には、未来のことなんて考えつかない。ただ、ただ、目の前の子供といっしょに居る姿だけしか思いつかない。


もしかしたら最終話の元気せんせいを、ひとつの理想として書ききってもらったほうが、わかりやすい小説になったのではないかと思う。尤も、元気せんせいの理想の保育園も、もう少し細かく書いてもらわないと、ちょっと乱暴な気もしないではないのだが。あえて言えば、すべての子供が外遊びを好むものではない。そこについては、理想を賛同する人が、理想の保育園に来ればいいと書くが、保育園って肝心の子供が選べる訳でないんだよね。難しいな、この問題。万人に向けてではなく、できるところからやるというのも頭では理解できるのだけど、そこは、もっと作品で訴えて欲しかった。
とても丁寧で、まさしく「素晴らしい小説」なのだが、こじんまりとしていて、なおかつ、視点の揺れもあり、まとまっていない。それが作家の誠意であることは間違いないのだが、残念なことにひとつの作品としては客観的には高く評価できない。それがファンを自認する者として歯がゆい。