月への梯子

月への梯子

月への梯子

「月への梯子」樋口有介(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、ハードボイルド


青春ハードボイルド(?)の雄、樋口有介はどこへ向かおうとしているのだろうか。前作「船宿たき川捕物暦」で、突然、時代小説をこなしてみせ、唖然とさせれらたのだが、今回は現代小説。一応、殺人事件を中心としているのでミステリーか、文体はハードボイルド、しかし内容は、いわゆる”大人のファンタジー”?。
作品のオチ、そしてミステリー(殺人事件)の真相は、ちょっと首をかしげざるを得ない。しかし、作品は微妙な余韻を残す。いつものように辛口批評で、作品の欠点をあげ連ねるだけではいかない、そんな何かがある作品。評価は、読む人によって、賛否両論だろう。ぼく自身、決めあぐねている。
いちばん気になるのは、このラストで終わるならば、作品のなかで登場するそれまで不遇な人生を送る少女が、主人公と出会うことで、新たな人生を希望に充ち生きようとしたことはどうなってしまうのだろうかということ。すべてが一からやり直し、そこから先は読者に委ねる。もし、そういう作品なら、あまり評価したくない。しかし、そう簡単に一言で終わらせてはいけない何かがあるのではないか、そんな気がしてならない。突っ込みはじめたらキリがない、しかしそれさえも作家の計算ではと思わせる。
正直、ぼくは途方にくれる。どう評価すべきなのか。


四十になる今でさえ、「僕、僕」と自称し、周囲の人から「ボクさん」と呼ばれる主人公、福田幸男。幼少の頃の病気がもとで、頭の回りが少し遅い。ゆっくり考えれば、自分が何をしていたのか、何をするはずなのか思い出せるが、普通の人に比べると心許ない。親が遺してくれたアパートと土地の収入で暮らしている。
商店街にある惣菜屋「沢渡屋」には、中学は特養学校に進んだために学校は違ったが、ボクさんの小学校のときの同級生、幼なじみの京子がいる。その母トキとともに、昔からの呼び名で「サッちゃん」と呼び、なにくれとなくボクさんを気にしてくれる。京子もトキもボクさんのいまは亡き母、寿子ともども家族づきあいのあった人たち。そんな昔なじみに見守られ、また築二十年の古びたアパート「幸福荘」の大家として、昔から住んでいる住人たちに囲まれ過ごす、穏やかな日々。
そんなある日、事件が起こった。アパートの壁の塗り替えをしようとしたボクさんが梯子から落ちた。そして、時を同じくしてアパートの一室で、その部屋の住民の女性が殺害されているのが見つかった。
一転して変わるボクさんの人生。梯子からの転落事故の影響か、今まで働かなかった頭脳が急速に回転するようになった。閉ざされた書庫からあふれ出る書物のように、湧き上がる知識、そして見えてくる真実。温かな善意のなかで暮らしていると思ったボクさんであったが、真実は違った。事件とともに、アパートの全ての住人が行方をくらます。アパートの住民たちは犯罪者や、身元不明の人々ばかり。懇意にしている不動産屋も暗い部分も見えてきた。殺人事件を、そして失踪した住人たちの謎を探り始めるボクさん・・。


脳の何らかの問題で知能の程度が低い主人公が、知能を取り戻すというシチュエーションより、ダニエル・キースの名著「アルジャーノンに花束」になぞらえる書評も見かけるが、どうなのだろう。当たり前だが、物語の状況が全然違う。気がつかなければ善意のなかでだけ生きていけた(かもしれない)ボクさんが、知能を得ることで、見えてしまう真実。騙される前に、気づいたからよかったのか、それとも騙されたとしても、それが善意であると思いながら生きていくのがいいのか、問題を投げかける。


善意のなかで生きてきたと思っていた主人公が、知能を得たことで世界に善意はほとんどないことに気づく。どんでん返しのほろ苦さ。ただ、まったく全ての人たちが悪意ある人たちではなかったことが唯一の救いか。善意を持ち続ける人が確かにいた。ただ、この善意ある人たちさえも、穿った見方をすると善意だけではないのではと思わせる部分があるのだが、ここは敢えて善意があったと読みたい。
また不遇の少女が、人並みに知能を得た主人公により救われる姿は、感動的。しかし、最後のオチでぶち壊し、か?。いや、それとも、救いはあるのか。


書評、感想としてはまとまりを欠いてしまったが、とにかく気になる作品。高い評価はとりあえずできないのだが・・。


蛇足:この作品では性描写が無意味な気がした。とくに幼なじみの京子との描写は無意味に細かく、何もそこまで冷静に描写しなくてもなぁ・・とも思った。というより、この作品に性描写は必要ないでしょ?
追記:性の描写の必然について[おいしい本箱Diary]というブログで興味深い書評があった。なるほど、ここまで読み込めば、確かに必然かもしれないなと思わされた。
[おいしい本箱Diary]「月への梯子 樋口有介 文藝春秋」url [ http://oisiihonbako.at.webry.info/200602/article_23.html ]