魔法使いハウルと火の悪魔

ハウルの動く城1  魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

ハウルの動く城1 魔法使いハウルと火の悪魔 (ハウルの動く城 1)

魔法使いハウルと火の悪魔ハウルの動く城〈1〉」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(1997)☆☆☆★★
※[933]、海外、ファンタジー、児童文学、魔法使い、ドタバタ、コメディー、ホームドラマ


※ネタバレあり!未読者は注意を!


ジブリのアニメの原作。映画はどうも食指が動かなかったのだが、友人からDVDを借り、観る機会に恵まれた。正直どうも最近の(といってももはや10年くらい前から)ジブリの作品は分かりにくく、観る気がしない。本作品も、なんだかよく分からなかった。いや、分かろうとすれば朧気ながらたぶんこれだろうなと思うところはある。しかし、それならばもっとストレートに語ってほしい。どうも最近のジブリは直球なメッセージを、妙にぼかして表現しているように思われてならない。それを分かったように観なければいけないのというのは、個人的には「家族で観る」を前提にしたアニメ作品では、どうなのだろうと思ってしまう。もっと単純に楽しめる作品を、とジブリには望む。「となりのトトロ」「紅の豚」「天空の城ラピュタ」って、スゴク楽しかった。「風の谷のナウシカ」も名作だ。さて次は「ゲド戦記」、どうかなぁ?


で、このレビューは原作の方。まず、映画と似ているがまったく違う作品と思ったほうがよい。映画にはおそらく「戦争」というものに対するメッセージが込められているが、原作にはそれがない。あくまでも動く城を舞台にした、ソフィーという主人公を中心にした人々(?)の日常の風景。似て否なる作品。故に、映画と並べて論を進めるのは無意味。映画を主題とし、原作との違いを語るならともかく、原作を論ずるのに、原作を題材にした映画作品と比較しても意味がない。どうもその辺りを混同する論をネットでは多々見かけた。しかしこの場合映画は原作を読む契機にしか過ぎない。


実は、この本、映画化云々以前に一度挑戦していて挫折した作品。いわゆるぼくの好きなタイプのファンタジー作品ではない。きちんと「現実の世界」に並立する「魔法のある世界」を確立しており、そういう意味では間違いなくファンタジーではある。しかし、一本筋の通った物語があるというものでなく、どちらかというと、ホームドラマのようなドタバタコメディ。よくいえばラブコメディーなのだが、ラブコメディーと言い切るには、ちょっと描写が不足。確かに最後はめでたし、めでたしの大団円(あっ!ネタバレ)なのだが。某所で、読むのに苦労していると読中の感想を述べたところ、少女マンガや少女小説を読むみたいに読めばいいとの発言があった。なるほど、主人公を中心とした日常生活を描く作品。「赤毛のアン」の続編以降の作品と話しの作りは似ているのかもしれない。つまり、主人公の日常を描く作品。もっとも、魔法使いの城での生活だからいわゆる普通の生活とはちょっと違うのだが・・。(「赤毛のアン」というひとつの作品については、アンの日常生活を描く作品ではあるが、まさに少女から女性への成長譚。続編以降と比較した場合、成長という観点での「青春小説」の完成度高く、それが故にこの作品は単独作品として傑作である個人的には考える)


訳者あとがきで荒地の魔女(Witch of Waste)が「オズの魔法使い」の西の魔女(Witch of West)にひっかけたり、キャロルやトールキンシェイクスピアがモチーフになっていると述べているが、確かにこの作品を本当に深く楽しむためにはお伽噺から、イギリス文学までの知識が必要。ハウルが名乗るペンドラゴンも、アーサー王伝説。ソフィーを中心とした、ハウルの城でのドタバタした生活を読みながら、文学、物語的素養を身につけるというのが、この作品の本来の価値なのかもしれない。翻訳で「物語」を読むだけでは本当の楽しさは分からないのかもしれない。


舞台は、昔話でおなじみの七リーグ靴や姿隠しのマントが本当にあるインガリー。帽子屋の三人娘の長女、ソフィーは昔からの言い伝え「長女は失敗する」にとらわれながら、美人の妹レティーと、昔話で必ず成功すると言われる末の妹マーサの世話をしながら過ごす日々。母親のファニーは、ソフィーとレティーの母親が二人がまだ小さい頃亡くなったあと、後妻として迎えられ、そしてマーサを生んだ。それでも、三人の娘をわけへだてなくえこひいきなく扱う。
巷では悪い荒地の魔女の噂がふたたび流れ、王様の命令で魔女を退治に出た王室付きの魔王使いサリマンは、逆に殺されてしまったらしいとか。町のまわりには魔法使いハウルの空飛ぶ城が丘陵をうろついている。魔王使いハウルは、若い女性の魂をむさぼるとか、娘の心臓を食らうとか、ひどく冷酷で無慈悲な魔法使いだということで、町の娘は決してひとり歩きはするなと言われている、そんな人物。
そんなある日、三人娘の父親であるハッター氏が借金を残し急死した。今までのように気ままな生活はできない、母親であるファニーは、次女のレティーはパン屋へ、末娘のマーサは魔女のフェアファックス夫人のもとへと、それぞれ奉公先を決め、長女のソフィーは家を継ぐのが筋だからと帽子店に残り手伝うようにした。帽子店で朝から晩まで帽子作りに励むソフィー。そんなソフィーのもとへ荒地の魔女が現われ、呪いをかけていった。若い女性だったソフィーが関節痛で悩む、よぼよぼの老婆に変身させられたのだ。
このまま家にいたら、ファニーが卒倒しちゃう。家を飛び出すソフィー。行く当てのないソフィーの目に映ったのは、ハウルの城。若い娘にしか興味がないハウルがわたしの魂に興味なんてあるはずがない。かくしてソフィーはハウルの城に飛び込んだ。お城にいたのはハウルの弟子のマイケル、ハウルは外出していて明日まで戻ってこないという。マイケルを言いくるめ、城で休むソフィー。そして暖炉にとらわれている火の悪魔カルシファーとある契約を結ぶことに。かくてソフィーのハウルの城での生活が始まった。
老婆になり、言いたい放題、やりたい放題で家事をするソフィーをハウルはうとましく思いながら、しかし決して出て行けとは言わない。マイケルもソフィー同様にして、ハウルの城の居候になったという。若い女の子に恋をしては、自分のほうに向かせることに夢中になっているハウル。魔法使いの仕事はマイケルに指示して、今日も明日も、女の子の元へ出かけている。そんなある日ハウルの恋の相手が自分の妹だと知るソフィー。はてさて、ハウルの恋の行方は、ソフィーの運命は・・?


あらすじをまとめてみたが、ちょっと違うような気がする(苦笑)。まぁ日常生活を描いた作品だから、あらすじをまとめようと言うことに無理があるのだ。この作品の本質はホームドラマのコメディー、ソフィーがドタバタと考えなしに動き回り、ハウルは自分のことしか考えないように見える、そしてハウルの助手のマイケルだけが色々心配をして、こっそりへそくりなんかもしちゃう。そんな城のなかの世界はドタバタしてても丸く収まっており、そういう日常生活のやりとりを楽しむ作品なのだ。だから、この作品に寓意性を見いだそうとすることはとても簡単なのだが、きっと違う気がする。色々な女性に恋をして、その女性が自分のほうを向いたときに恋は終わってしまうハウルの姿は、女性の愛情、すなわち母親の愛情に飢えているとか、他人への愛し方を知らない、あるいは人と向き合うことを知らないとか、ソフィーが老婆になってこそ生き生きと活動する様子は、逆に若さゆえの自信のなさを表現しているが、外見を気にしない自分らしい姿こそ真の魅力的な姿だとか、。そういう解体をすることは可能だが、この作品には似合わない。この作品はモンティ・パイソンにも通じる英国のナンセンスで不可解で高尚なギャグ(?)を楽しむだけでよしとしたい。
しかし、とはいえこの作品、もう少し丁寧に書いて欲しかった。書き殴ったのでは?という感じもする。一例をあげれば、老婆になったソフィーがハウルの城に転がり込み、そして嫌がられながらも住み着くところはもっと細かく必然をもって欲しい、或いは最後の大団円で、ソフィーが老婆から若い年ごろの娘のもどる(らしい)のだが、そこもきちんと描くのでなく、髪の毛の色が変わったことだけで表現するのは、ちょっと筆が不足しているのではないか。それが計算と言われればそれまでで、確かにおもしろいという読者もいることはいるのだが、。


個人的には、可もなく、不可もなく。ただホームドラマを意識して、もう一度アニメ映画を観たら、また違った作品になるかなとちょっと思う。


蛇足:なさぬ仲と思われていた、継母ファニーのみが唯一、ソフィーの変わり果てた姿を見抜くというエピソードはとても気持ちがいい。この話、お伽噺では長女は不運で、まま母にいじめられるをひっくり返してくれた。あ、でも、めでたし、めでたしで終わっているか。
蛇足2:「荒地の魔女」は訳者をあとがきを読むまで、映画「マイフェアレディー」で主人公の花売り娘イライザが下町訛りを直すために唱えさせられた「スペインの雨は、主に荒れ野に降る(The rain in Spain stays mainly on a plain)」のパロディーだと思っていたのだが違った、残念(苦笑)。