北緯四十三度の神話

北緯四十三度の神話

北緯四十三度の神話

「北緯四十三度の神話」浅倉卓弥(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、姉妹、恋愛、青春


雪深い、北緯43度の街の物語。女のくせにと思われながら大学で助手をしながら、生物工学の研究を続ける桜庭菜穂子、28歳。両親を中学の頃事故で亡くし、ひとつ違いの妹、和貴子と祖父母の家で暮らす。姉の菜穂子は地元の大学に進み、そのまま大学の助手に、妹の和貴子は東京の大学を卒業し故郷に戻り、今は地元のラジオ局に勤め、深夜番組のDJをひとつ任されていた。そんな二人の間には、今も、三年前に事故で亡くなった和貴子の恋人樫村宏樹の存在があった。
樫村は菜穂子の中学のクラスメイト。中学の頃、姉妹ふたりでスキー場へ行った際、同級生ということも意識することもなくすれ違った。それもきっかけだったのだろうか、同じ進学校の高校に進んだ樫村と、同じ中学であったことや、彼の気さくな性格のおかげで、菜穂子にとって数少ない貴重な異性の友人となった。一度だけ、樫村から交際めいたことを仄めかされたこともあったが、その話題はすぐどこか遠い違う場所へ飛んでいった。それきりの青春時代の淡い思い出、思い出せばほんのりあたたかく切なく痛いような、そんな思い出のひとつで終わるようなことであった。しかし地元のラジオ局に就職を決め帰ってきた和貴子が、結婚したい相手として祖父母に紹介した相手が樫村だった。受験に失敗した彼は、翌年妹の和貴子と同じ東京の大学に進学し、そこで知り合いつきあっていたのだ。和貴子が在学中からつき合っている男性がいるのは知っていたが、それがまさか自分が知っている男だとは思わなかった。菜穂子の胸にわだかまりのようなものが生まれた。
大学を留年し、さらに次にまた別の学校に入りなおしたいという彼に対し、祖父母はいい顔をしなかった。しかし、和貴子と樫村の遠距離恋愛は続いていた、あの日まで。
突然、和貴子のもとに届いた訃報。樫村がグライダーの事故で亡くなった。そしてそのとき、菜穂子は初めて自分の気持ちに気づくのだった。ずるいよこんなやり方で気づかせるなんて。ただ自分の気持ちをもてあます菜穂子。
物語は、それから三年後。大学助手と、ラジオ局のDJというそれぞれの生活をもった姉妹が、姉妹が故にの不器用な交流を交わす。むかしはあんなに仲がよかったの、妹のことをわかっていたはずなのに。
亡くなった妹の恋人、クラスメイトである樫村がふたりの胸のなかでは、それぞれ生きている。そして、その樫村の思い出、姿を通し、ぶつかり、そして分かり合う姉妹の姿。
妹が作品のなかで見せる、リスナーと強く結びついた今も変わらない深夜放送のDJの様子が、また作品に深みを増している。


正直、前半の巧さに比べ、後半がありきたりの”お話し”で終わってしまったことが残念。それだけの作品ではないのだが・・。
”いい”話であるのだがどこかで聞いたよう。本作は、間に一人の男性への想いを置いたある姉妹の日常を描いた品。そういうことは、特別なことではない。どこにでもあるような話しであり、そうであればこそ読者の共感を得やすい。それは自分に置き換え、主人公の気持ちになり共感することがたやすいということ。こういう日常の共感をテーマにした作品を”良い作品”にするのは、すべて作家の腕次第。共感し、心地よく思い、よかったと思う読者もいるだろうが、ありきたりを、ありきたりで終わらせただけの作品なら一過性の作品で終わってしまう。それを一過性だけでない、普遍のものすることは作家の書き方で決まる。ありきたりの素材を、どう調理するか。敢えて、こういうテーマを素材とした作家は、このことを意識し、作品を書かなければならない。


と、ここまで書いて、昨今のライトノベルの正体って、まさにそういうことかなと朧気に見えてきた。ライトノベルで描く、人を愛する痛いような切ない想い、あるいは愛する者が失う哀しみ、痛みというものは、つきつめてみれば、人の根元の感情。ヒトを好きになる想い、ヒトを失う痛み、そこに焦点をあててみれば、それらの作品のテーマは、すべての人間に共通する感情。各作品が描く種々の状況は、確かに自分の周りを見回してもあまり見かけない事例なのかもしれない。しかし、白血病だの、癌だの、アルツハイマーだのは劇的なシチュエーションであれど、あくまでもヒト失っていく過程という点で見れば同じこと。現実にそれらの要因で愛する人を失った人の気持ちを逆なでするつもりはないが、どうもぼくが、その”劇的”なシチュエーションを扱った作品を個人的に敬遠する傾向にあるのは、それがまさしく”劇的”に扱われるから。読まず嫌いはいけないのだろうが、以前から何度も書くように、ぼくはお手軽に泣くための本は読みたくない。それらの本を読めば、確かに心動かされ、いつしか涙を流してしまうこともあるかもしれない。しかし、お気軽に書かれたそれらの作品、いや作家は一生懸命書いたのかもしれない、しかし真の力を持たないそれらの作品は風化が早い。本の風化ではない。心が洗われる”ような”作品なのかもしれないが、洗われた心がすぐ風化し、またすぐにもとの汚れた心に戻ってしまう。洗われた自分は、確かに気持ちよい。しかし、本当にそれでいいのだろうか。なにかに繋がっていけばこそ、そういう力をもってこそとぼくは思う。特に感動を与える作品とは、その場しのぎで終わってはいけない。古くさい考えかも知れないが、そういう作品を読みたいと思う。


と、閑話休題。この作品の感想を書くつもりがめいっぱい横道に逸れてしまった。


さて、本作品であるが、ライトノベルかと問われれば、辛うじてちょっと違うのではと答える。何かが、うまく言えない何かのカケラのようなものがあったような気がする。それが、前半に強く感じられた。淡々と書かれる、姉を視点とした日常の生活を中心に、地方ラジオ局に勤める妹がDJを担当する深夜番組の描写を交えて紡がれる物語。男性のぼくが、この姉妹の気持ちに共感して読む、というのもなんだかヘンな言い方だが、この切ない想い、あたたかい思いに共感を覚えてならなかった。大きな事件もないままに進む物語。読者の勝手な感想を言えば、後半に現われるどんでん返しのような小さな衝撃の事実、それは妹の胸にずっと突き刺さった棘であったが、このエピソードはなくてもよかったのかな、とも思う。
この事実の明るみによる妹の行動と心の動き、そして姉の心の動きがぼくは追えなくなってしまった。なぜ、彼が亡くなって何年も過ぎた今、それを明かす必要があったのだろうか。それが大きな疑問。劇的なエピソードが、ぼくには、ここまで丹念に積み上げてきたも何気ない日常を、いわゆる”お話し”にしてしまったように感じられ、残念であった。ここからぼくの共感はズレてしまい、結局、最後までシンクロ(同調)できずに終わった。最後の妹のエピソードさえ、とても好感を覚える物語だったのに、どうしてもシンクロできず、結局評価を高くできなかったことが歯がゆい。
尤も、掌編ともいえる作品であり、もともとが人にオススメするという観点ではそれほど高い評価を得られるようなジャンルではないのだが。
つまりこの作品、こうは書いているが、それほど悪くないというか、評価を下げているわけではないという言い訳。


浅倉卓弥は「四日間の奇跡」で第一回このミス大賞を受賞した作家。「四日間の奇跡」も、悪くないけど、どうもどこかで見たような、聞いたような物語だなぁと思ったことが思い出される。もっともこのとき、え?これってミステリーなの?のほうが大きかったが。今回はぼくが手にした彼の二冊目の本。もしかしたら、何かがあるのかもしれないと今回も思わせてくれたが、それを力強く断言させてくれないのが残念。いましばらく、ときどき手にとってみようかなと思える作家。
振り返れば、これだけ莫迦みたいに長文のレビュー(苦笑)を書かせるだけの作品を書いているわけなのだ。


蛇足:本作品は、洋楽に詳しいとまたさらに楽しい作品のはず。DJの妹が、その番組で紹介する楽曲が、洋楽のヒット曲。たぶん頭のなかでそのメロディーを感じると、それはまた違った楽しみがあるはず。作品のなかでも語られるが、歌には力がある、そしてまたその曲がヒットしたときの同時代の想いは作品に深みを増す演出。残念ながら洋楽に疎いぼくにはまったく楽しめず、そこが勿体なくも哀しい。だって、本当にぼく英語弱いんだ。
蛇足2:本文で触れられなかったが、遺伝子に絡めた生命と人の想いの話は、ちょっとそろそろ陳腐化では?この作品にうまく融合できていたとは思えない。それとタイトルに絡めたエピソードと、まとめは、無理になくてもよかったのでは?
蛇足3:男性作家の書いた女性の、姉妹の心理描写は女性読者にはどう感じられるのだろう。共感とは、きっと性を越えるものだと信じたいのだが・・