てのひらの迷路

てのひらの迷路

てのひらの迷路

「てのひらの迷路」石田衣良(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、短編


石田衣良が二年間ある雑誌に連載した短編24編。
ここで正直に語ると、実は”掌編”という言葉を今まで誤用して使ってきたよう。過去のレビューで幾つか誤用をしている。
”掌編”とは、ごく短い小説、原稿用紙10枚程度の小説を指す言葉。言葉の字面から、内容が温かい短めの小説を指すかと誤用していた。やれやれ。すみません。過去の記事は、いずれ訂正していくつもり。そういう意味でブログの”検索”機能はありがたい。
閑話休題
ぼくは、いわゆる短編小説集が苦手だということに本作を読み終えて、あるいは読んでいて気づいた。一編の短編、あるいは同じテーマや、関連する主人公たちの連作集は別として、色々な話が一冊の本に掲載されている形式は、どうも目が回って仕方ない。あたかも車窓の風景が次から次へと目まぐるしく変わっていくかのようで、頭の切り替えに疲れてしまう。この作品も、一冊に24もの話しが詰まっており、正直、読後感はヘトヘト。
尤も、読み手であるぼくの資質が大きいということは否めない事実なのだが、この一冊、とくに中盤以降は、実は作家もちょっと疲れているのではと思うほど、凡庸というか、魅力なく感じられた。”擦り切れた”という言葉が思い浮かぶほど。
この作品のスタイルは、小説に入る前に、新聞の第一面最下段にあるコラムのように15文字×30行程度の作家の言葉が、落語の枕のようにあり、続いてその枕を受けた作品が、掌編と呼ぶにふさわしい程度の短さで語られる。それらの物語は、おそらく作家自身を投影した主人公たちの物語であるのだが、語り口を変え、様々な物語が語られる。おそらく、一気に読むべき作品ではなく、ひとつひとつの物語を、”気楽に”味わって読む作品なのだろう。二年間に渡り、毎月雑誌に連載されたという、この作品のもともとの発表形態が、きっとこの掌編たちには最もふさわしかったのだと思う。この、まず作家が語ってから本題にはいるというスタイルで発表されたのならば。(尤も、多くの読者が語る「片腕」とそれにアンサーする形で書かれた「左手」は、「左手」のみが別の雑誌に掲載されたということだから、こうして連ねて発表するほうがカンバッセーション・ノベルとしての楽しみは深い)


今回、一冊を通して読んで感じたのは、とにかく後半の凡庸さ。決して前半が秀逸というほどのものでもないのだが、前半のキラメキにも似た何かが後半には感じられない。これは作家自身が作品で書いているのだが、初めはストーリーを練る時間、余裕があったのに、後半はただ締め切りに追われるように書いてきたということが大きな要因だろう。掌編を、心の赴くままに自由に書いていたはずだったのが、ただ締め切りに間に合わせるだけの作品に墜ちてしまった、そう思われる。事実、後半の作品は、前段となる作家の言葉と作品がほとんどシンクロしており、前半の作品ほど、軽やかさとか、前段の言葉と作品との連携の自由度がなくなっている。同じような表現が前段と作品で出てきてがっかり。例えてあげれば「地の精」〜今住んでいるマンションもまだ購入してから四年足らず。そのうち家を建てるのもいいけど、まだまだ先の話しだよな、という表現。あるいは「イン・ザ・カラオケボックス」で取り上げる”彼女”が三日間風呂にも入っていないのに、妙に清潔感がある、などの記述。あるいは、作品は別だがロードレーサータイプの自転車を取り上げ、タイヤの幅はほぼ親指程度、重さは指二本で軽々と持ち上げられる・・と、同じように描写すること。
短編は自由に気軽に書けるのかもしれない。しかし、読み手としては逆にエッセンスのみがゆえに、もっと気を遣って欲しいなと思うところが多かった。


”擦り切れた”と先に述べた。実はこの石田衣良という作家、会社の後輩にIWGPの第一作を勧められて以来、お気に入りの作家。ずいぶん追いかけてきた作家である。しかしこの一年くらいで、どうも見方が変わってきた。悪い意味で売れっ子になってきた。マスコミへの露出もそうだが、発表する作品の数も急激に増え、そして作品の数に反比例するように作品のクオリティが下がってきたように感じられる。作品の魅力というものが、ぼくらが知っていた、好きだったものから大きく変わってきたような、そんな印象。分かりやすい物語、しかしそれは以前の作品に感じられたナイーブさとか、あるいはうまく言葉で表現できない”何か”とは隔たった作品、そんな印象を覚える作品ばかりを最近発表しているような気がする。十割バッターはいないというのは、よく分かっている。しかし、この変容は何なのだろう。この短編集は、まさにその変容の時期、2003年から2005年にかけて発表された作品。”作品”を語りたいと常々述べてきたぼくとしては、作家論はあまり語りたくないのが、この一冊はまさに石田衣良という作家の、変わる様を映しているかのように感じられた。”擦り切れた”というのは言い過ぎなのかもしれないが。


全体としては、不可ではない。最後の楽屋オチのような2編、あるいはその前から数えた3編は置いておくとして(この3編は、ちょっとひどい)、気楽に、気軽に、読む分には充分の、いや、最近の石田衣良にちょっとがっかりしていた分、前半の作品は久々に読める作品だった。惜しむらくは、やはり後半か。


収録作:
「ナンバーズ」入院した母の病室には、入院した患者の年齢が書かれていた。そんなある日、ぼくは父に渡されたお金で何事もなかったかのようにガールフレンドとデートをした。
「旅する本」その本は、読む人によって内容を変え、希望を与える。 
「完璧な砂時計」彼女は正確に時を計る、砂時計のように。そんな彼女の話。
「無職の空」会社を辞めて、横浜の公園で過ごす日。
「銀紙の星」あるひきこもりの青年の話。
「ひとりぼっちの世界」あなたはいつもひとりね。彼女はぼくにそう言った。
「ウエイトレスの天才」彼女は、以前ぼくらが頼んだ料理を正確に記憶していた。そして本当に美味しそうに食事をする。
「0.03mm」コンビニでバイトするぼくは、30を少しすぎた、つまり僕より10歳近く年上の女性と出逢った。
「書棚と旅する男」客船で旅する僕は、世界でたった一冊の本を探す男と出逢った。
「タクシー」タクシーのなかで交わす会話。
「終わりのない散歩」街を歩いていて顔見知りになった老女。ある日、街を歩いていると不安そうな顔でぼくに声をかけてきた。
「片脚」彼女の片脚だけが、宅配便で送られてきた。パーツ・デート。新しい遠距離恋愛の形。彼女の片脚と過ごす夜。
「左手」前作、片脚のアンサー・ノベル。彼女のもとに、彼の左手が届けられた。彼の左手と過ごす夜。
「レイン、レインレイン」雨が好きな青年の話。
「ジェラシー」仲のいい夫婦に赤ん坊が生まれて・・・。
「オリンピックの人」四年に一度、偶然だが、必ず出逢う人がいる。
「LOST IN 渋谷」渋谷の街で、過ごすぼくのある日。
「地の精」ぼくは、とても気に入った土地を買った。
「イン・ザ・カラオケボックス」テレビ番組のために出逢った彼女は、とてもエキセントリックな格好をしていた。埼玉の家から出てくると三日くらいは帰らないという。そんな彼女の話を聞いた。
「I氏の生活と意見」I氏は何もかもうまく行く男だった・・。
「コンプレックス」女性って、どうして、こうみんなコンプレックスを持っているんだろう。
「短編小説のレシピ」連載の最期が近づいてきた。こんな短編小説を書いてみよう
「最期と。最期のひとつまえの嘘」妻の友人である女性を愛人にした男の話。妻も、愛人も愛している。そんな彼が愛人といたホテルで倒れてしまう。
「さよなら さよなら さよなら」これで、この短編の連載はおしまい。最期にぼくがさよならした愛すべきものたち。ラジカセ、自転車、そしてワープロ・・。


こうして24編を並べてみると、「ウエイトレスの天才」は秀逸、ありがちかもしれないが。「タクシー」はボブ・グリーンのコラムを彷彿させられた。「0.03mm」「片脚」「左手」は、彼の最近の官能小説のような作品への萌芽を感じた。ただ玉石混淆というほど、”いい作品”はない、どこかで見たような印象を否めない。

蛇足:誰も触れていないのだが、ぼくはこの作品を読み始めたとき、実は村上春樹に似た匂いを感じた。よいとかわるいでなく・・。