平成マシンガンズ

平成マシンガンズ

平成マシンガンズ

平成マシンガンズ三並夏(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、文芸、中学生、家庭、文藝賞、15歳受賞


※すこしネタバレあり。でも文芸小説だからネタバレしても問題ない?未読者は注意。


だから、何?というのが読了後の正直な感想。


あたしが絵画コンクールで入賞した賞状を見せても、自室で仕事をしていた父はこんなの嬉しいのはこどものときだけだよと賞状を宙に投げた。表彰されたという優越感は砕けた。二年前に家を出た母の断片がまだ少しだけ残った家には、父の愛人の姿とその影が浸食するようになった。学校では目立たぬように、いじめられないようにと地味に過ごすことを心がけてきたつもりだったのに、他愛のないことで仲間に嫌われ、無視され、そしてそれは皆に広がっていく。いじめといえないようないじめ。でも、あたしの居場所はどこにもない。心の中で、死神に渡されたマシンガンをぶっ放すあたし。あたしは、どこにいけばいいの・・?
※すみません、このあらすじちょっと違うかもしれません。


史上最年少15歳での文藝賞受賞が話題になった作品。作品と作家は切り離して読みたいと常々語るぼくではあるが、やはり15歳というインパクトは強い。中学生が書いた作品と考えるなら、随分スゴイ作品。スゴイというのは、作品の内容というより、年齢に似合わない難しい言葉をうまく使っているなという点。もっとも、知人の小学校二年生の男の子もきちんとナルニア国物語を全部読み切っているというので、年齢で判断するのは間違い。でも、これが高校生が書いたと聞いたなら、それほど違和感なく、このこ賢しい高校生めと思うに違いないが、中学生だと思うと、やっぱりスゴイ。。
作品冒頭に敢えて、「〜句点も読点もなくノンストップでただつらつらと続いていくような、そういうお付き合いだった」と書かれたことが、この作品のテーマか。作中で使われる文章の一部(主人公の感じる想い)も句読点がなく、ただつらつらと言葉が流れる。それが狙ったものだと判っていても、正直読みにくい。しかし読みにくいのだが、判りにくいわけではない。変な例えで申し訳ないが、小林秀雄の解り難さはその文章を吟味して読んで初めて解るものだが、この作品の文章は吟味するまでもなくいいたいことは判る。それが単にスタイルだから。そして、そのつらつらと長い文章を敢えて使う部分と、短いセンテンスで書かれる部分とは使い分けているので、まぁ、いいんじゃないの。・・って、どうも投げ遣りだな。ただ、このスタイルを続けていくのは個性といえどツライかも。
「あたしは父プラス寂しさとプライドと父の愛人と逃げちゃったお母さんと構ってほしいなんて思ってしまう自分の子供心と闘うのだ」(P10)の文章で、え?お母さんはお父さんの愛人と逃げちゃったのか、すげぇなと思った。しかしどうも違う。「あたしは父プラス寂しさとプライド、父の愛人と、そして逃げちゃったお母さん、それに(だれかに)構ってほしいなんて思ってしまう自分の子供心と闘うのだ」という意味のようだ。いろんなものと闘うことを決意をする女の子の決意とかを現す文章だった。読み進めて判ったとき、ありゃりゃとか思ってしまったわけだ。句読点の使い方は難しいし、それが狙いにしても活字だけで伝わらないニュアンスをなんとか伝える努力は、とくにこういう短い文芸作品では頑張ってほしい。でも、お父さんの愛人と逃げるお母さんって、想像するとおもしろい。お父さんの愛人は、男性なのか、女性なのか?あ、またどうでもいいこと。


で、本作品なのだが。読み終えると、だから、何?という小説。現在の若者のありのままの姿を描いたという点を評価するのかもしれない。しかし、それならぼくの評価には値しない。。声を大にして何度でも言おう。ぼくはいわゆる物語とか小説が好きだ。文芸とか文学をそれだけで褒めそやす本読み人ではない。ときどきヤラレてしまう、そういう作品もあるが、基本的に、文学?で、何?という、スノッブな本読み人である。


本作品は残念ながらそういう意味で、「ありのままを切り取った」だけの文芸作品で終わっている。


少しネタバレになるが、結局、主人公はイジメともいえないイジメをした仲間のもとに戻るのではなく、転校を選ぶ。あれ?これって、どこかで見たパターン。そう、「野ブタをプロデュース」(白岩玄)のそれと同じ。事象に立ち向かい成長していくのではなく、イヤだと思うコトを回避したまま作品は終わる。もしこういう方法でも、新たな生活を、環境を変え、新たな決意と新たな自分で立ち向かっていくという予感を垣間見せる終わり方なら、ぼくの評価はもう少し上がる。しかし、おそらく彼女は、いや彼女を含むこの小説の世界の(そして現実の)若者はきっと何も変わることなく、また同じように無為に「つらつら」と過ごしていくのだろう。夢も希望もない、小市民な若者。でも、それを切り取ることって、どれだけの意味があるのだろうか。
想像のマシンガンをぶっ放すことで心の平衡を保つ主人公。でも彼女の心のマシンガンは、ぼくに銃器としてのそれでなく、ただの豆鉄砲のような空疎なおもちゃのマシンガンにしか思えない。これもありがちな物語なのかもしれないが、想像のマシンガンをぶっ放す爽快さが伝わる作品ならば、その偽物の爽快さを乗り越える成長を期待できる作品になる期待がある。しかし、フェイク(偽物)のマシンガンを打ちまくることでカタルシスを得、満足する生活は、あまりに空疎だ。空疎な満足で終わってしまう若者なんてぼくはイヤだ。やはり、若者は青春してほしい、成長して欲しい、と勝手な期待をぼくは望む。


でも、この作品、じつは空疎なのは主人公やクラスメイトと言った若者だけでない。表彰されたことを褒めてもらいたい娘の気持ちを思いばかる余裕さえない父親。もちろん他人の気持ちを思いばかる余裕がないからこそ、平気で愛人を家に連れ込んだりするんだろうが。同様に、勝手に家を出てしまった母親。いわゆる大人になりきれない、あるいは両親さえ演じきれない大人ばかり。いや、これはたぶん現実。愛人を家に連れ込み、きちんと説明をしないで、既成事実だけで娘に納得させようとする父親。娘の不登校を、自分がきちんと知らなかったことが気に入らない。娘が不登校になった事実よりも、体面がつぶされたことのほうが大事。勝手に家を出た癖に、自分は被害者面をしている母親。ダメな大人ばかりなんだよな。
ふと自分の姿を顧み、大丈夫かと不安になったり(苦笑)。ぼくが、自分の娘と同年代だったころの両親はいまのぼくと比べて絶対”大人”だった。少なくとも、ぼくという子どもの目から見て。しかし今のぼくは娘の目から見て、きちんと大人であり、お父さんなのだろうか?どうも自信はない(苦笑)。


三並夏という若い作家がこれからどのように成長し作品を書いていくのか、正直、特段の期待はない。しかし一時的な話題で終わることのない作家として、ぜひ頑張ってほしいとは思う。作家はデビューすることより、継続することのほうが格段難しい。まだまだひとりの人間としての成長期にある彼女、学校生活もあれば、いろいろ経験し知っていき、成長していく年齢。史上最年少で賞を受賞、そしてデビューだけで終わることはあまりにたやすい。だからこそ、自分の成長をうまく取り込んだ作品をこれからは期待したい。それ(成長)は、若い作家だけが持つ強みなのだから。


蛇足:この作品、カンバーセション・ノベルとして、この設定で父親、母親、愛人から見た作品を書いていくのもおもしろいかも。できれば、それぞれの人間、人間関係の成長なんかも交えて。それじゃぁ、「厭世フレーバー」(三羽省吾)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/19199080.html ]じゃないかという話しもあるが、 それでもいいのではと、ふと思ったりもする。