終末のフール

終末のフール

終末のフール

「終末のフール」伊坂幸太郎(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、近未来、if、人類滅亡


大好きな本読み人仲間でこぽんさんが絶賛していたので、図書館に購入希望を出して借りてみた。へへへ、一番だぜ(当社比)。というわけででこぽんさんの連続登場。尤も、実はワスチカより、この作品のほうが早かったのだが・・。
ごめん、でこぽんさん・・・残念ながらこの作品、ちょっとぼくには合わなかった。


伊坂幸太郎については、図書館の書架に淋しくひっそりと立てかけられたデビュー作「オーデュポンの祈り」以来のファンを自認するぼくである。とくに最近では、「魔王」「砂漠」にはすっかりやられた。しかしそれがゆえなのか、この作品にはちょっと違和感を感じた。文体、切り口は確かに伊坂らしい。でもなぜこういうシチュエーションを、伊坂がいま書くのかどうも納得できない。作家が何をどう書くかというのは、勿論作家の自由で、この作品についてはでこぽんさん始め、多くの本読み人が絶賛の声をあげるのを知りつつも、どうにも違和感を拭えないと正直な感想を述べる。
もしかしたら、伊坂幸太郎に対して、ぼくが疲れてきたのかもしれない。多くの人々が経験していることだと思うが、まだ話題にもならなかった作家、アーティストを自分だけの作家、アーティストと思い、愛し、応援してきたのに、ある日彼は(あるいは、彼女は)売れっ子になってしまい、追いかけることが義務のように感じられるような。そんな自分勝手な郷愁なのかもしれない。結婚生活以外は、惰性で愛するのは間違いだ。
・・・と書いてみても、ちょっとそれとも違う。作品は悪くない、ただなんかなぁ・・。
例えばこの作品を同じくぼくの好きな戸梶圭太が書けば、連作短編集でなく、きっと長編だ。まったく同じようにそれぞれの人間ドラマを描くにしても、戸梶圭太なら、同じテーマ、同じモチーフを長編という一作にしあげるのだと思う。発表の形態とか、書き方の選択の問題なのだが決してこの作品は連作短編集である必要があったとは思えない。長編でよかったのでは、あるいは長編こそがふさわしいのでは、そんな風に思えるのだ。


「死に物狂いで生きるのは、権利じゃなくて、義務だ」「そう、だからみんな、他人を殺してでも生き延びようとする。自分だけでも助かりたいってな。醜く生きるわけだ、俺たちは」「他人を蹴落としてでも、無我夢中で生きるわけだ」世界の終わりを前に、死を控える難病の子どもを抱える土屋の台詞。それに対し「気の利いた言葉かな、と思ったら、何だか嫌な生々しい話しですね。」渡部は答える。中学のとき、いじめのとばっちりを受け自殺を考えた渡部に対し、渡部の父親は、傷ついた息子をいたわるでもなく「登るしかねぇだろう」「自殺したら、ぶっ殺すからな」と殴ったという。その話しを土屋にしたとき、土屋が語った。(「深海のポール」)


「でも、とにかく俺は、いつも自分に問いかけるんですよ」「俺は、俺を許すのか?って練習の手を抜きたくなる時とか、試合で逃げたくなる時に、自分に訊くんです。『おい俺、俺はこんな俺を許すのか?』って」世の中が、終末のときを迎えるそのときにただ淡々とトレーニングに励む、キックボクサー苗場。(「鋼鉄のウール」)


世界が終末を迎えるとか、そういう特殊な状況と関係のない伊坂の語る真理。孤高に生きたいと常に自らに希うぼく自身に染み込む言葉。なぜこうも苦しいのに、頑張って生きていかなければならないのかと自問するとき、でも仕方がない、生きていくしかない。ただどうせ生きていくなら、自分で自分を恥ずかしく思わない、矜持をもって生きたいと思うぼくの気持ちと伊坂の言葉は重なる。確かに重なる。しかし本書をひとつの作品として見たらどうなのだろう。
あと三年で終末を迎える世界、中途半端なときを、淡々と生きる人々を描くこの作品の意味がどうにもぼくには理解できない。いや皆が淡々としていることが理解できないのかもしれない。確かに作品では、初めはひどかったと書いているのだが、いまこのヒルズタウンに残った人々の諦観にも似た生き方はどうなのだろう。静かに運命を受け入れつつ与えられ生を全うする。それでいいのだろうか。正直、わからない。「魔王」で云えば「考えろ、考えるんだ」なのかもしれない。しかし、三年後を見据えつつ、いまを生きる人々は、このあとどこに行くのだろうか。どこを目指すのだろう。
この作品をよしとする人々が多くいるなかで、敢えてぼくは言おう。この作品を中途半端な作品だ。こんな伊坂はダメだ。
人々は淡々と生きてはいけない、それでも希望をもって生きていかなければいけない。それがぼくの好きな物語であり、ドラマだ。
そう行き着いたとき、ぼくはこの作品の欠点がわかった気がした。あとがきで伊坂が語るように、8年前に隕石がぶつかることを予見することは実際には難しい。もしそれが判明しても、おそらくそれが公表されることは現実的にはありえない。まさしく伊坂が作品で語ったように、自暴自棄になる人々が出てくるから。しかし実際に、もし公表されたとにしても人々は、そして政府は決して手をこまねいていはいない。必ず希望を見出そうとするはずだ。刹那的に暴動を起こす人もいるかもしれない、あるいは宗教に救いを求める人もいるかもしれない。しかし前向きに希望を見出そうとする人々は必ずいるはずだ。人間はしぶといのだ。ぼくは信じている。そして、伊坂もそれを信じているとぼくは思う。
しかしこの作品で伊坂は、まず近い未来に世界が滅びることを前提にした小説を書こうとし、その設定を確固たる前提条件にしてしまった。そして、その世界のなかで淡々と生きる人々を描こうとした。この狙いがもはや伊坂らしくないのだ。ぼくは、伊坂らしさとは、もっと希望を持ったものだと信じている。3年後に世界の終末を迎えるにしても、そんなことを信じないと強く思う登場人物が、あるいは俺が隕石の軌道を変えてやると信じ込む者がいない伊坂は伊坂でないと思う。
クールでポップでドライだけれど、常に希望がある、それが伊坂だとぼくは思う。それが故に本作を高く評価しない。淡々と生きる人々の姿が、心に染み込むことを評価する意見も否定はしない。しかし、それはぼくが伊坂に望む世界ではない、いやぼくが本、小説、物語に望むものではない。そして結局は、多様な人々の物語でありながら、破綻することのない幾つかの淡々とした生き様を描いただけにとどまったが故に、どの話しもあまり変わり映えもしなく、冗長と感じるのだ。
せめて最終話で希望を見出すことを描いてくれれば、評価は変わったのだが・・。


「終末のフール」
10年前に長男和也を自殺で失った夫婦の物語。横暴ともいえる父親の尊厳によって、傷ついた家族。終末を迎え、再開する父娘。妻は「簡単には許さないですから」と。淡々とふたりで生きていく夫婦の姿。
「太陽のシール」
優柔不断さは折り紙付きの富士夫。妻、美咲との出会いも山手線の廻り方に悩んでいるときだった。不妊に悩む夫婦に妊娠の朗報。しかし、世界は終末を迎える。生むべきななのか?
「籠城のビール」
もとTVアナウンサー杉田玄白の家にふたりの男が押し入った。まさに夕食どき。妹の仇をとりに来たのだ。ある事件の被害者であったはずの妹は、興味本位のマスコミにつけまわされたあげく、自らの死を選んだ。隕石で皆が死ぬ前に、お前を殺してやる。しかし・・・。「簡単に死ぬな。小惑星が落ちてきても最後まで生き残ってみせろよ」
「冬眠のガール」
両親を自殺で亡くした、田口美智。四年間、疑似冬眠を称し、家に閉じこもり、父の書斎の本を全部読破した。その数二千数百冊。ビジネス書にあった、三人の人に会いに行きなさい、まず尊敬する人、次に自分に理解できない人、そしてこれから出会う人を実践するために街にでた。一人目は高校時代の同級生太田隆男、二人目は家庭教師小松崎輝男、そして・・。
「鋼鉄のウール」
終末を迎える街で、淡々と変わりなく練習を続けるキックボクサー、「鋼鉄の」と呼ばれるチャンピオン苗場さん。五年ぶりにジムに訪れたぼくの前で、苗場さんは愚直に、相変わらず背中に汗を浮かべ、練習に励んでいた。苗場さんを通じ、自分を確立するぼく。
「天体のヨール」
終末の街で、妻千鶴を失った男、矢部。自殺を図ろうとしたとき、大学時代の友人二ノ宮から電話がかかってきた。天文マニアの二ノ宮は、不謹慎ながら落ちてくる隕石さえ観察できる喜びを矢部に語る。「夜じゃないと困るんだよ」「夜だよ、夜、ヨール、ヨール」
「演劇のオール」
十代の後半、ふとつけたテレビ番組にでていたインド出身の俳優の言葉に感化され、役者を目指したわたし、倫理子。夢破れて、仙台にもどってきたのは七年前。両親を失った、終末の街でわたしは、色々な家で疑似家族を演じる。早乙女さんの家では孫娘。亜美ちゃんのところではお姉ちゃん。勇也と優希の家では偽お母さん。一郎の部屋では恋人。そして、皆が一同に集まった。
「深海のポール」
ビデオ屋の店主、渡部の父は、ちょっと変わり者。映画でみた、隕石による世界の終末では、街は洪水に飲み込まれ、深海のなるだろう。だから、終末は少しでも高いところにいたい。マンションの屋上に、勝手に櫓を作り始めた。渡部が中学の時、自殺を考えるほど悩んだとき、父親は、山は登りはじめたら、登りぬけとわかったような、わからないようなことを言っていた父。人生を山に例えるのは陳腐だ。渡部はそんな父を理解しかねていた。
できあがった櫓に家族で登り、そこから街の風景をみたとき、娘の未来が唐突に口ずさんだ「死んでも死なない、死んでも死なない」。


題名はすべて韻を踏み、主人公たちは、それぞれどこかで繋がっている。作品的に秀逸なのは、それでも、やはり「鋼鉄のウール」か。悪くはないのだが・・。
だれかが「砂漠に雪を降らせることを」願い、信じてこそ、「俺が変えてやる」という人物がいてこそ、「魔王」「砂漠」を書いた伊坂幸太郎である。ぼくは改めて思う。


蛇足:渡部さんの親父のぶっとびぶりは、「サウスバウンド」(奥山英朗)の、あるいは「厭世フレーバー」(三羽省吾)の親父を彷彿させ、思わずニヤリとした本読み人は多いはず。いいよな、ぶっとんだ親父。
蛇足2:この作品をぼくは否定しているつもりはありません。ただ、ちょっと違和感を感じるのです。ある方とのやりとりでぼくの気持ちを以下のように書きましたが、ま、そういうニュアンスに近いです。
「例えは悪いのですが、いつもパンツだと信じていた気になる女の子が、フレアーなミニスカートで登場して、ちょっと目のやり場に困る、決して嬉しくないわけじゃないし、似合ってないわけでないし、というシチュエーションの違和感と言えば、少しは理解(わかって)いただけるでしょうか?」
でも、目のやり場に困るほど、この作品に嬉しさは感じませんが・・(また踏み外してる?)(2006.4.23追記)