ぼくとひかりと園庭で

ぼくとひかりと園庭で

ぼくとひかりと園庭で

「ぼくとひかりと園庭で」石田衣良(2005)☆☆★★★
※[913]、国内、現代、小説、絵本(?)、ジュブナイル(?)、恋愛


※ネタバレあり。でも、この本は読むだけの価値があるとは思えないので、大丈夫(?)


とある本読み人から、ぜひ読んでみてと勧められていた一冊。その真意は図りしれないのだが、最低な一冊。もともと最近の石田衣良は疑問だらけで、この本はその形態からかなり危険を感じていたのだが、まったく予想どおり。あまりにも予想どおりで唖然とするくらい。こういう本ってどうなの?
前書きで、幼稚園に通う長男をモチーフに、幼い子どもを主人公とした、ただかわいいだけでない、人を好きになる不思議と避けられない世界の残酷さをふくんだ、子どもたちのための、作品を書きたいと作家は語る。これは、その子どもたちのための作品?ぼくは決してこの作品は子どもに読ませたくない。


幼稚園の年長に通うあさひと、みずきは仲良し。みずきは引っ込み思案で、あさひとしか仲良くできない。そんなある日、転入生がやってきた。ひかり。引っ込み事案のみずきが、親指をしゃぶりながらひかりちゃんのことが好きになっちゃうと言い出した。自分もそう思っていたのに、言えなかっただいたんな言葉をみずきが発するのにびっくりするあさひ。そんななか、ひかりは、あさひとみずきの間にはいるように仲良し三人組になっていた。
お泊まり保育の夜、あさひはひかりに起こされた。お手洗いに行くのについて行って。お手洗いが済んで二人で見る夜中の園庭はミルクのような白いかすみがながれ、ふしぎなひかりでいっぱいだった。いつのまにか小学校高学年までに成長していたふたりは、そこで夜明けの庭の園丁を名乗る白いドレスの女に出会う。彼女は、あさひとひかりに試練をあたえると言う。夜明けまでにふたりで解決ができなければ、この場所で恐ろしい惨事が12年後に起こると言う。それは、18歳になったみずきが、この園庭でこの幼稚園に乱入し、三人の子どもを刺殺するというのだ。三つの試練が用意されています、その中で選択した結果によってすべては決まります。
幼い二人の恋人は、不思議な女性に用意された三つの試練を乗り切ることができるのだろうか?


まず、とにかく作家がこの作品の読者想定をどこに置いているのかが判らない。大判な活字、平仮名を多用した文章。ふりがなさえ振ってある。しかし、中途半端な言葉(漢字)の選び方。中途半端なふりがな。少なくとも幼稚園児向けではない、さらに小学校高学年でもない、ならば中学生向け?あるいは大人になりきらない大人向け?文章の選び方が、どこを目指しているのか判らず、読みにくい。絵本とは、決して子どもだけのものではない。しかし、まず第一に想定する読者層に応じた書き方があり、そこが読者年齢の始まり(下限)となり、そこから読者層が広がるものだと思う。文字のない絵本は、まさしく1,2歳の赤ん坊から読者層は始まり、そこから広く大人まで広がる。本作品は、もし始まりを子どもとするなら、言葉の選び方が子ども向けでないし、漢字やふりがなの使い方も統一感がない。さらに扱う事件そのものは、少なくとも広い読者層を意識するなら、ある年代以降でなければいけないものだと思う。
18歳の青年による幼稚園の乱入と、園児の刺殺。
作品のなかで、その事件は回避される。しかし、決して広い読者層を意識した場合、子ども向けとは思えない。どうなのだろう。


仲良し三人組のなかで、元気で魅力溢れる二人(あさひとひかり)が恋人同士になり、残された引っ込み思案でこれと言った取り柄のないみずきが、ぼくはひとりだと事件を起こすようなこと、そんな作品をして、敢えて残酷を書いたと居直る作家の気持ちが理解できない。しかも、そこにいたる経緯が、幼稚園児の主人公を思春期の若者までに成長させて。思春期の若者の選択が、最終的にこの作品の選択であるなのら、なにも園児が主人公である必要はない。中学生、高校生が主人公で、その年代で悩み、選び取ればいいだけの話し。まさか、幼稚園児にこういう選択が大人になると待っているのだよ、と教えたいつもりもあるまい。


先日読んだ「向日葵の咲かない夏」(道尾秀介)の感想[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/32657550.html ]でも書いたが、ぼくは向日性の明るい物語が好きだ。その必然があれば、「暗い」ものを認めない訳ではないが、本作品において、作家が伝えたい「残酷」の選び方は妥当なものだったのか。恋に試練があり、「ちか道も、らくな道も」なく、「だから、恋は尊(とうと)い」もの(本文P44)なのかもしれないが、そのことを伝えようとする作品で作家が試練として選択する内容としては、どうなのだろう。それも起きる、あるいは起きた事件でないのだ。(ちか道、らくな道の表記とかも、表記としてどうなのだろう。近道、ちかみち、楽な道、らくなみち・・「尊い」が漢字で(ルビ付き)で使われるのにだ)。


そして、最後に園児の戻る二人の願いも、やめて欲しい。くちづけだと?!もともと園児だろ。なぜ、その二人が園児に戻る前にくちづけしなきゃいけないのだ。それもはじめてなんです・・って?当たり前だろう!一体、読者想定をどこに置いているのだ?


どんな作品でも読み手によって、その感想は変わる。多様性は認めたい。しかし、この作品に限っては、いいところをひとつも見いだせなかった。いや、ひとつの場面だけを切り取ったらあるのかもしれないが、しかし、それは作品を評することではない。
でも、しかし、ここがよかったんだよ・・という、言葉があれば訊いてみたい。訊いてみなければ判らないし、ぼくの頑なになった視点では見えないところなのかもしれない。


個人的には、誰も読む価値に値しない作品。しかし、読んでみるのも一興かも?


蛇足:長野順子の銅版画は玉石混淆。「あさひとひかり、あなたたちは恋の試練をのりこえました」(P69)の銅版画(P70、71)は秀逸。動きが見えるようだ。