うしろ姿

うしろ姿

うしろ姿

「うしろ姿」志水辰夫(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、短編集


※詳細なあらすじあり。未読者は注意!


「終末のフール」(伊坂幸太郎)について余韻を楽しむことを潔しとしなかったぼくだが、この作品を読んでやはり「終末のフール」はもっと明るく希望を持つべき作品であったと感じた。
余韻を楽しむ作品とは、まさしくこの「うしろ姿」のような作品を言う。それぞれの短編の主人公たちは丁度僕より一回り上か、それ以上。ある意味人生の輝く時期を過ぎ、まさに人生の夕暮れに足を踏み入れようとする人々。「終末のフール」で表題作となった作品の老夫婦も同じ年代ではあったが、主人公であった夫はともかく、その妻には軽みのような希望のようなものが感じられた。しかしこの作品の主人公たちには明るい希望はない。ただ、ただ、残る生を全うする淡々とした決意のようなもの、しかしそれは決して悲痛な哀しみや絶望ではない、運命を受け入れたといってもいいものかもしれない、そういうものを感じた。そしてそれはまた思ほいもせず心地よいものであった。さすがシミタツ。こういう郷愁を書かせると天下一品。前作「ラスト・ドリーム」で思いっきり期待を外されたが、今回はやってくれた。


「トマト」
古くからの犯罪者仲間啓吉と竹田。新たに加えた男上野が考えもなしに街で語ったことがきっかけで、中国人犯罪者グループに襲われることに。部屋に現れた男たちをうまく騙し、倒し、逃げ切る啓吉。しかし上野、竹田、そして竹田の愛犬シチベエは既に息絶えた後だった。戻れない故郷を思い、列車に乗る啓吉。窓に映るのは、今度こそ自分を精算し世間の隅っこで生きていこうと思っていた、居場所を見つけられない男の顔だった。
「香典」
以前、父親の世話になっていたのに、今はひとり成功している会社社長東山秀策のもとに森脇忠志は現れた。うやむやにしている父からの借金を返済して欲しい。金は返済した、突っ張る東山。その夜、秀策の自宅に再度現れる忠志。嫌っていながらもそれでもどこかで父親を信じたい、そう娘が持つ最後のイメージを壊したくないでしょ?東京で見かけたネタをちらつかす。家に戻った忠志を、父親が死んだときにどこをほっつき歩いているのかとなじる親戚たち。おれ、式には出ません。母親に、東山から取り返した金を渡す忠志。おやじがくれた香典だよ。
「むらさきの花」
日がな一日、店の前の日だまりを眺め過ごす日々。先代の店主河本に勤め、教わりそして店を譲ってもらい、中井モータースを立ち上げ、過ごした日々。笑いがとまらないような特別にいいことはなかったが、まずまずのときもあった。小売業そのものが成り立たなくなるような時代が来るとは思ってみなかった。
そんな中井の唯一の日課というか楽しみは、乳母車を押しながら歩く老婆と交わす会話。会話を交わすだけの楽しみは、それ以上深く知り合おうとは思わないものだった。そんなある日、肝臓が原因で入院する中井。退院後、気づくと老婆の姿はなかった。リハビリで川岸の散歩をする中井は、老婆が植えたハナダイコンが、市役所によって刈り取られたことを知る。そして同時に知るある事実。山裾の農家に広がるうす紫のハナダイコン。そしてそこで見かけたあの乳母車。ハナダイコンをもらい受け土手に植える中井。「来年市役所から草刈りに来ても、ここには手をつけさせるんじゃねぇぞ」
「もう来ない」
中学時代の担任で寺の住職をしている熊谷に、檀家でもないのに亡き母の墓地を提供してもらった、当時高校生だった金本延代。十三回忌から二十年ぶりに母の墓地を訪れた。水商売を営んでおり、以前は女の子を何人も置いておく時代もあったがいまは一人。亭主とは娘が三歳のころに別れ、娘も別に所帯を持ち、夫婦でマンションのローン返済に必死になっている。そんな延代にとってこの町は決して幸せな思い出のある場所ではなかった。貧しい生活のなかで、借金を残し出奔した父親。残された母娘の貧しい生活。そのすべてを母は背負った。
ふと立ち寄った八幡さまで、昔の記憶を思い出す延代。昔は泳げた小川がもはやコンクリートで固められた用水になっていたが、ここで溺れそうになった。そして父に助けられたのだった。
都会にもどろうとする延代に声をかける熊谷。「それで話したのか?」
今回、お墓を掘ってくれた老人は、実は・・。話そうとする熊谷をさえぎる延代。「もうすぎたことですから。」延代の左手には骨壺を手渡すときの老人のぬくもりがのこっていた。
「ひょーぅ!」
母に捨てられ、苦労した姉弟、松子と真幸。そんな姉の松子がもはや意識も戻らぬ昏睡状態になった。昨日まではまだ意識がもどることもあったという。松子は四年前に手術を受けていた。再発したら今度は助からないと知っていた。呼びかけても応えることのないその表情には、未練や不満や執念が塵芥のように引っかかっていた。
話があるという甥の初男。突然現われたおばあちゃんと母を会わせたと言う。
善意は信じる、しかし・・。
飲んだくれた父親に暴力をふるわれ母は出奔した。残された松子と真幸は、貧乏な生活と飲んだくれの父とで人には言えないような苦労をしてきた。その頃真幸は、修学旅行先で母と一度会った。こざっぱりときれいになった母だったが、姉と真幸のことを考えるのではなく、まず自分のことしか考えることのできない女の姿がそこにあった。
病室で松子と最後の別れをする真幸。そのとき痰がからんだのか、口許がひくつき、顔を歪める松子。あわてて松子の口をこじあけようとしたそのとき、松子の喉から「ひょーぅ」という音がした。そのとき蘇る姉と弟の二人で起こした事件。それは真幸の就職試験のためにと、姉が工面して買い入れた真幸の新品の制服を酒代に変え、飲んでしまった父への復讐。かっとなって起こした事件。すべてが事故として扱われた。そんな過去を思い出した。
「知らせてくれたって葬式には出ないからな」「もう別れをすませてきたよ」
「雪景色」
北海道の極寒の人気のない別荘地の管理人をする康治。久しぶりに娘が東京から戻ってくる。鹿の肉を解凍して待つ康治だが、娘のさつきは男性と現われ、ホテルに泊まるという。翌朝さつきがひとりで現われ、一緒に来た男性との関係を康治に相談する。そんな娘に康治は、今はなき妻弥生と自分がいかに苦労して生きてきたか、そして弥生は破産した男を捨てて、家に戻った上で、自分と結婚したことを話す。貧乏しててもいいから、生活が成り立ってくれさえすればそれでよかったんだ。父親の話を聞いてふっきれたのかさつきは、男に電話をして迎えにきてもらうという。うれしそうな娘の声を聞きながら、自分の役目は終わったことに気づく康治。
「もどり道」
浦安で家庭用給排水設備の業者を独立して営む野中郁雄、父親の代から世話になっていた人の葬式の帰り道、昔、一番貧乏だったころ住んでいた洗足池駅でふと降りてみた。あの頃のことを思い出すと今でも胸に痛みを覚える。変わり果てた街並。しかし、あの頃つきあいのあった中学時代の同級生の家だけは、むかしと変わらずそのままにあった。友人の母と語り、友人の帰りを待つが、友人は戻ってこなかった。帰りの電車のホームで妻らしき女にせっつかれて歩く、酔っ払いの男の姿を見かけた。少しもへこたれた様子のないその背中に「負けけんじゃねぞ」呼びかける郁雄。


そして「あとがき」。この作品では「あとがき」がとても心に染みる。「本が売れなくなった。小説が読まれなくなった。暮らしのなかに占める本の比重が信じられないくらい軽くなってしまった。」で始まる文章。時代の流れ、従来の価値観の崩壊、売れる本と雑誌しか置かない書店。そうしたなかで、この一冊に収めた自分の書いた小説が、もはや過去のものであり、過去のスタイルであると作家は述べる。そのこと自体は恥ずかしいとは思わないが、しょせん小説は時代の子。その背景を共有すものにしか共鳴力を持たず、そして時代とは終わりを迎えるものなのだ。自分たちの時代が終わろうとしていることを認識し、その上で一緒に歩いてくれた読者がいたことに感謝する作家。
最後の一言「この手の作品はこれが最後になります」。
この一冊に収められた作品たちと同じく、淡々と事実を受け入れる作家。しかし最後に作家は新たな作品を目指すことを語る。おそらく、まだまだこのスタイルでいけることを判っているにも関わらず。
あぁ、シミタツは次にどこへ進むのだろう。この一冊で全てを受けいれたように見えた、その最後で新たな決意を述べる。
余韻だけで終わらせない、大人の意地を感じたのはぼくだけだろうか。シミタツの次に期待をかける。


蛇足:しかし、この作品で書かれる”貧乏”というものも、すっかりその姿を消してしまった。ぼくらの子どもの頃には、まだもう少し貧乏が現実であった。しかし今や本当に、”貧乏"な生活はTV番組のなかでしか見られない。一億総中流化。悪いことではないのだろうが・・。
蛇足2:短編集はすべての作品のあらすじを書くもんじゃないね。へとへと。