世界でたったひとりの子

世界でたったひとりの子

世界でたったひとりの子

「世界でたったひとりの子」アレックス・シアラー(2005)☆☆☆☆★
※[933]、海外、小説、児童文学、SF、近未来、if


はるか遠くに緑の土地がある
いつの日か、あの場所に行こう

タリンが知っているのはこの部分だけだった。出だしの歌詞、切れ切れのメロディーだけ。ほんとうの歌なのか、自分が頭の中でつくりあげた歌なのか、それもわからない。


児童文学という言葉の定義については多々あれど、個人的には読者対象が児童から始まり、広い読者層にまで訴える力をもってしてはじめて児童「文学」であると考える。ただ子ども向けというだけでお手軽に書かれたものは子ども向けの「読み物」であり、決して「文学」ではない。つまり、優良な、優秀な児童文学は子どもが読んでもおもしろいが、大人が読んでもおもしろい(この場合の「おもしろい」は多様な意味をにじませる)ものである。
最近、児童書のジャンルにおいてアレックス・シアラーの名前を見かける機会が多い。活躍中の作家。1年半ほど前にも同氏の「チョコレート・アンダーグラウンド」を読み、くすくす笑いながら読んだが、今回は大きく違った。優秀な児童文学。大人こそ読むべき、閉塞感と絶望感に包まれた世界。いやはや。
しかし、これは本当に「児童」文学なのだろうか?この作品を通し、子どもは何を学び取るのだろう?こんな世界にはしないぞという想い?
ならば、最後にもう少し希望を書くべきなのではないのだろうか。大人向けの作品としては、高く評価したい。☆は大人向け、つまりぼくという読み手の評価。しかし、子どもが読むことを考えるなら、幾つか残念な点があるのも事実。


老化防止薬の発明により、極端に寿命の長くなった世界。薬のおかげで老化が遅らせられ、人々は40歳前後の姿で200歳くらいまで生きる。そこには子どもの姿はほとんどなく、数少ない子どもは時間貸しでレンタルされるほどの人気。そして、また子どもを子どもの姿のままで成長を止めるPPインプラントという技術も発明された。PPインプラントはのPPはピーターパンの略。子どもの幸せの理想の姿をいつまでも残しておく技術。しかし、それは法律では認められていない。なぜならPPインプラントは老化防止薬と違い、それを取り外したとき、急激な老化による死が待つ技術だから。しかし運良く子どもを手に入れたものは、違法であると承知していても、大金をかけても何とかして子どもにPPを施したい。それは一生の生活の安泰に繋がることだから。
主人公の少年はタリン。相棒を自認するディートに、幼い頃カード賭博の代償として奪われた。今日も、時間貸しのレンタルの商品として、お客様に笑顔と、お客様が望む仕草、ふるまいをする。でも、心のなかでは違う、常に叫んでいる。そんなタリンに、ディートはいつか、それほど遠くない未来にPPを受けさせたい。大人になってしまったら、商品価値がなくなるから。しかし、タリンは受けたくない。時折、街ですれ違うPP処理を施された子どもは、やはり姿だけが子どもだが中身は大人。目が違う。
そんなタリンとディートの物語。はたして、タリンはPPを受けずにすむのだろうか?


最後は大団円のハズなのだが、なんかちょっと違う。勿論、最後の最後エピソードはペーソス(哀愁)を醸し出すエピローグである。しかし物語としてはその前に、主人公タリンが幸福になったはず。しかし、それがうまく感じられない。伝わらない。この作品で作家が書きたかったのものが明るい希望や未来ではなく、哀愁や閉塞感、絶望であり、逆説的に希望を見いだすことを求めていることは分かる。しかし単純な読者としてのぼくは、やはりこの物語で主人公のタリンには最高の幸せを勝ち取り、味わってほしかった。この作品が第一の読者対象を「子ども」としているなら尚更のこと。この作品がYA(ヤングアダルト)と言われる分野の児童文学で、その読者対象が年長の子どもであったとしても、やはり、大団円の物語であって欲しい。世界は変えられなかったかもしれないが、それでも主人公は幸福であったということ、もっと感じさせて欲しかった。作品では、そこが非常に消極的にしか書かれていないような気がする。
加えてタリンをつけ狙うキネーンの描写も不満だ。少し読み返してみても、疑問。普通こういう設定だと読み返したとき、あぁと思わせるものなのだが、どうもそこが感じられなかった。もう少しうなづかせる描写が欲しい。特にキネーンとタリンと対峙する場面は、もう少しうまく書いて欲しかった。(ネタバレにつながるので、具体的には書きませんが・・。)
また冒頭にあげた、タリンが断片しか覚えていない歌の記憶も然り。
しかし、反面、タリンのパートナーディートや永遠の少女ヴァージニア・トゥーシューズのキャラクターはとてもよかった。ファーストネームもラストネームもミスターもない、ただのディート。しかし、ただのディートという存在は、どれほどの意味が価値があるのだろうか。あるいは、PPを施したことを隠さずに商品としての子どもを演じ続けるヴァージニア・トゥーシューズ、55歳。大人たちは、その事実をしても子どもの姿を求める、そういう世界。
「児童」文学という枠さえ考えなければ、なかなか良い作品、オススメの作品。ただ個人的には、あまり買えない。


蛇足:「向日性」という言葉を最近使ってきたが、基本的にそういう作品が好きだ。児童文学の流れにおいて、決して向日性だけが子どもの姿ではないという論議が過去に行われたことを踏まえつつ、それでも明るい希望を持った作品をぼくは評価したい。