ライオンと魔女-ナルニア国物語1-

ライオンと魔女(ナルニア国ものがたり(1))

ライオンと魔女(ナルニア国ものがたり(1))

ライオンと魔女」-ナルニア国物語1-C.S.ルイス(1950)☆☆☆★★
※[933」、英国、ファンタジー、児童文学、ナルニア国物語


※おぼえがきとしての詳細なあらすじあり。未読者は注意願います。


正直に言うと、実は小説としての「ナルニア国物語」は作品的としてあまり買っていない。「指輪物語」(J.R.R.トールキン)と並ぶファンタジーの代表作、名作と名高い本作品、今回映画公開に合わせ久しぶりに再読したが、正直どうももの足りない。賛否両論あれど個人的には映画のほうが、小説よりよかったと思うほど。映画のほうは戦いに多くの時間を割いて”見せた”のだが、小説はどうも”見せ場”がないような気がする。


一年間読書ブログをやっていてよかったと思ったのは、こうして読んだ本の感想を文章にし、客観化することで自分の読書が分析できたということ。ぼくは、まず物語が好き。起承転結があり、向日性であり、主人公の成長がある、そして読み手が主人公に同化でき、主人公の気持ちを一緒に味わうことができる。舞台となる物語世界はきちんと構築され、その世界を構築するリアリティーがある。こういう作品が好きだという自分の読書傾向をこの一年で明確に認識することができた。
さてこの「ライオンと魔女」を、そういう観点でみると、まずファンタジー世界の構築は、勿論成功。衣装箪笥という扉の向こうに「あちらの世界」をきちんと構築しており、現実世界との切り離しが見事に出来ている。しかし、物語としてみた場合ただの叙述。あくまでも物語が進むだけという印象を覚えずにおれない。読み手として、同化できる主人公が見つけられず、淡々と事実が述べられているだけ。四人も主人公に相当するキャラクターがいながら、実はその誰にもこの作品に登場する必然を感じられない、そういう印象を覚える。ただのアダムの息子、イブの娘。なぜピーター、スーザン、エドマンド、そしてルーシィでなければいけなかったか、その部分の動機づけ、理由づけが希薄。尤も、衣装箪笥をくぐり抜け、ナルニアの国へ来れたのは長いナルニアの歴史のなかでこの四人兄弟姉妹だけなのだから、そこに特別な条件はあったのだろう。しかし、それがうまくこの作品のなかに提示されていると言えないのが残念。書く必要はないという意見もあろうが、ぼくはそこがまず欲しかった。そういうことを書かなくても逃げ切る小説もあれど、この少し物足りなく思う作品においては、書いて欲しかった。
数度目の再読のはずなのだが、全7巻を読み通すまでまでにこの部分がどうなるのか記憶から抜け落ちている。もっとも、それ以前に一冊の作品として、もっと納得させて欲しい。


第一次世界大戦のころの話。ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィという四人のきょうだいが空襲を避け、片田舎にある学者先生の屋敷に疎開したときの話。
末妹のルーシィは屋敷の探検中に、大きな衣装箪笥のなかにもぐりこみ、そのなかを通り抜けて、不思議な世界に入り込む。そこは冬の世界。街灯の傍で出会ったのはフォーンのタムナスさん。タムナスさんの住む洞穴でお茶をごちそうになるルーシィ。しかし、タムナスさんは急に泣き出し、ルーシィに言った。私は悪いフォーンです。白い魔女の言いなりになってあなたを、白い魔女に引き渡そうとしているのです。白い魔女とは、タムナスさんたちが住むこのナルニアの国を支配し、いつまでも冬のままにしているナルニア支配者。しかしルーシィと仲良くなったタムナスさんは、ルーシィを白い魔女に引き渡すことなく、無事いしょだんすのある街灯まで送り届ける。
ナルニアからもどったルーシィは、きょうだいにナルニアの話をするが、誰も信じてくれない。ナルニアで何時間も過ごしたはずなのに、こちらの世界ではほんの少ししか時間がたっていない。衣装箪笥も、普通の衣装箪笥で別の世界に通じているわけでもない。きょうだいたちに嘘をつかれたと思われ、ルーシィはすこし落ち込むのだった。
その日の午後、きょうだいたちはかくれんぼをした。再度、衣装箪笥にもぐりこむルーシィ。その姿を見かけたエドマンドは、ルーシィを追いかけ衣装箪笥にもぐり込んだ。そしてルーシィの言っていた冬の国に辿り着き、そこでナルニアの女王を名乗る白い魔女に出会う。白い魔女の魔法のプリンを味わい、次回きょうだいを連れてくれば王にしてくれるという魔女の言葉に、必ずきょうだいを連れてくるという約束をするエドマンド。
現実の世界に戻る衣装箪笥に通じる街灯近くで、ルーシィと出会うエドマンド。エドマンドが同じナルニアに来たことで、今度はみなが信じるに違いない、喜ぶルーシィ。しかしルーシィの話す白い魔女の話を聞き、苦々しい気持ちになるエドマンド。きっとみんなルーシィのいうことを聞くだろう。
ふたたび現実の世界に戻るルーシィとエドマンド。ピーターとスーザンにナルニアのことを話してとエドマンドにせがむ
ルーシィ。しかしエドマンドは、ルーシィの話を作り話だと言う。予想もしないエドマンドの言葉に傷つき部屋を飛び出すルーシィ。その様子をみて、年少のものに対する心遣いが足りないとエドマンドを叱るピーター。その夜、ピーターとスーザンの相談を受けた学者先生は、ルーシィの話が本当でないという証拠はない、本当かもしれないと語る。
そして、四人のきょうだいはひょんなことから衣装箪笥に皆で入り込み、そしてナルニア国に辿り着くのだった。ルーシィに案内されたフォーンの住む洞穴は滅茶苦茶に荒らされていた。女王の命令を聞かず人間と仲良くした罪で逮捕された、部屋に残された紙切れにそう記されていた。
このさきどうしたらいいか迷うきょうだいはコマドリに導かれるように進み、そこでビーバーさんに出会った。タムナスさんから話を聞いていたというビーバーさんの家であたたかい食事をもらい、話を聞いた。まもなくアスランがやってきてナルニアを冬から解放してくれる、そして四人のアダムの息子、イブの娘が王座についたとき白い魔女の時代が終わるという。ふと気づいたとき、エドマンドがいないことに気づいた。エドマンドはみなを裏切り、白い魔女のもとへむかったのだ。
白い魔女のもとへ向かったエドマンドは、しかし、魔女の城で石像にされた人、動物、魔物の姿を見、そしてきょうだいを連れてこなかったことを魔女に責められ、縄にかけられ、冷たい仕打ちを受けていた。
エドマンドからアスランの名を聞いた魔女は、急いでそりの用意をさせ、石舞台に向かう。アスランときょうだいが出会う前に、きょうだいがが王座につく前になんとかしなければ。しかし、ナルニアの国は春に変わりそりは進むことができなくってしまう。
いっぽうアスランに会うためにビーバーさんとともに出発したピーターたちきょうだいは、旅の途中でクリスマスの来なかったナルニアでサンタクロースと出会い、贈り物をもらい、そしてアスランとであった。いよいよ、ナルニアが魔女の支配から解放されるときがきた。
アスランの部隊にいけにえになるところを助けられたエドマンド。きょうだいが四人揃った。しかし、そのとき魔女がアスランのもとに現われた。古い魔法にしたがって、裏切り者の死を与える権利が私にはある。
魔女と二人ひっそりと話すアスラン。そして密談は終わった。エドマンドの命は救われた。
しかし、その代償は大きかった。アスランエドマンドの命を救うため、自らの命を魔女に差し出したのだ。こっそりと魔女のもとに、石舞台へと向かうアスランの姿を見つけ、つき従うスーザンとルーシィ。そしてアスランの言うとおり、こっそりとアスランの様子を見守る。それは無残にも、白い魔女の軍勢に弄ばれるアスランの姿。そして、最後に魔女はアスランンの命を奪うのであった。そして魔女は高らかに叫ぶ、最後に勝ったのはだれか?アスランなき今あの子を殺すことを邪魔するものはない。そして、あの子さえいなければナルニアは私の手の中に戻るのだ。
果たしてナルニアの運命は、エドマンドの命は、そしてアスランは。感動のラストに物語は進む。


とにかく、小説として考えると描写不足。登場人物の心の動きが不足している。エドマンドが当初の裏切りから兄弟たちのもとに戻るのも、決して心の葛藤や、何かを学び取ったからでない。単純に自分によくしてもらえると思った魔女から冷たい仕打ちを受けたという事実のみに拠っているとしか思えない。自分本位で反省が感じられない。それは悪に反発し、善に寄るという根元を描こうとしているのかもしれないし、「アスランという名前を聞いただけで、心地よくなる」というような、非常に控えめな描写で表現しようとしているのかもしれないが、やはりもの足りない。
キリスト教の精神や、絶対の善、そしてそれ以前の古い魔法、行きて帰りし物語と本格ファンタジーの骨格はきちんとあるものの、小説として読もうとするならば、もう少し深く細かく描写して、読者の心を掴んで欲しいとぼくは思う。しかし、もはや古典ともいえる作品に対して注文する内容としては間違っているのかもしれない。この素っ気なさこそが、この作品が古典たる由縁なのかもしれない。
しかし、それでも残念なのは主人公たちに明らかな成長が見られないこと。強いて言えば「正義王」と名づけられることでエマンドにその片鱗が見られるくらいか。児童文学として”成長”は不可欠ではないかとぼくは思う。


蛇足:とはいうもの、この作品で四人のキャラクターのどれかに自分を投影し、あるいは登場人物と関係なく、ナルニアの物語を、世界を心から楽しんできた多くの読者がいる(いた)というのもまた事実。ぼくのいわゆる「小説」に期待する登場人物(の心の動き)にではなく、物語それ自体を楽しむ読者がいるというのも、この作品を古典たらしめる大きな要因であろう。こういう読者は神話や昔話に代表される、いわゆる「物語」自体を楽しむことのできる人々なのだ。殺ぎ落とされた物語から(それゆえに、書かれた人の心の動きに邪魔されることなく)登場人物の心に自由に思いを馳せ楽しむ。この作品はそういう作品のひとつなのだということも改めて認識したい。つまりこの作品はいわゆる「小説」ではなく、「小説」として読むこと自体が間違いなのかもしれない。
蛇足2:個人的にはナルニアといえば「いしょだんす」というたどたどしい言葉がすぐ連想された。末妹のルーシィの台詞だと思い込んでいたら、実はフォーンのタムナスさんが自分の知らない、理解できない言葉としてルーシィの語る言葉を繰り返して使っていた。ルーシィの設定って、今回読んだ挿絵(ポーリン・ベイズ)のせいもあるが、結構大きい?そういう意味で四人兄弟姉妹の年齢設定も作品では(たぶん)明らかでないのだなと、再確認。
蛇足3:この作品をキリスト教ろいう観点と、赦しという観点からも論じてもみたいものです。