でいごの花の下に

でいごの花の下に

でいごの花の下に

「でいごの花の下に」池永陽(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、恋愛、沖縄


何をどう間違えて、この本を予約したのか自分でもよくわからない。沖縄の、少し叙情的な話しを期待して読んでみたら、全然違った。「コンビニ・ララバイ」で市井の人々のペーソスを描いた作家が本作品では壮烈な愛の物語を書いた。おそらく丁寧な取材の上で真面目に書かれたと思われるこの作品、評価しない訳にはいかない良書。しかしだかといってひとに勧められるかと言えば、それはまた別。大人の激しく、しかし静謐で哀しい恋の物語と、沖縄の人々の心に今も残るあの戦争の傷跡。この作品で取り上げられたモチーフは確かに知っておかなければいけない事実なのかもしれない。しかしこの苦しい愛の物語を、ぼくは全ての人にオススメとは言えない。興味を持たれた方は是非読んで欲しいと思う。しかし、この先に決して明るい未来が確実に待ち受けているとは言えない、どちらかというと大きな意味で過去を背負って生きていかなければならない主人公の物語を、単純にオススメはできない。
同じように”沖縄”をテーマにした作品であるならば、ぼくは「太陽の子(てだのふあ)」(灰谷健次郎)を薦めたい。神戸に住む、沖縄料理店を営む両親のもとで、周囲の人々に温かく見守られ育ってきた一人の少女の物語、そしてその家族を襲う哀しく切ない悲劇。この「でいごの花の下に」という作品とその根は同じ。ならば、哀しい大人の恋を通して描くものより、切り拓く未来をもった少女の作品を薦めたい。この「でいごの花の下に」が決して薦められない作品だというのではない。薦めるにおいて、あまりに苛烈で、そして哀しいのだ。


一枚の紙切れと撮影したままの使い捨てのカメラを残し、彼は去っていった。紙切れに残されたメッセージは、死を予兆させるメッセージ。いったい私たちの関係は何だったの、そして残されたカメラには何が写されているの。残された燿子は、彼のあとを追い沖縄までやってきた。もし、彼が死んでいるとするならば、彼の洗骨をするのは私の役目。洗骨は長男の嫁の仕事だから。


プロカメラマン嘉手川とフリーライターの燿子の出会いは、燿子がある雑誌の編集長に見せられた写真だった。その編集長は沖縄のミニコミ誌に掲載されていた嘉手川の撮った写真が気になったという。燿子にはただ暗いとしか感じられないその写真に、編集長は日溜まりのなかの静けさ、強烈な太陽の下で動くものがすべて蒸発し残った無機質な物体、つまり廃墟を感じるという。このカメラマンは死にたがっている、その負のエネルギーがこういう写真を作るのではないか。編集長に呼び出された嘉手川と組んで燿子は仕事をするようになった。
彫りの深い端正の顔立ちの嘉手川に、ハーフですかと燿子は尋ねた。すると嘉手川は、沖縄で米兵との混血児を差別していう「ヒージャミー」、ヤギの目という意味の沖縄の言葉で答えた。その目は明るい鳶色だったが、沈んだ光を放つ、明るさをどこかに置き忘れた生気のない目であった。嘉手川は言う、俺の沈んだ写真は、太陽の強い光が必要なんだ、それは沖縄の強い陽の光を浴びて育った哀しみなのかもしれない。強い酒を飲み、罪深い己を責める嘉手川。沖縄の洗骨という風習を語り、小学校3年のころ自ら母親の骨を洗ったことを語る嘉手川。そして、自分が死んだら野ざらしでいいと言う。
ほどなく体の関係を結ぶ燿子と嘉手川。嘉手川の手をセクシーと思い、その右手が欲する燿子。ベッドの中の問わず語りのなかで嘉手川が以前結婚していたことを聞き、妊娠したことが別れることの原因となったことを知った。俺のような人間の屑の子孫を残すわけにいかなかった。死んだ子に幸子と名付けた嘉手川。不幸の「幸」さ。
そして、嘉手川は去っていった。
嘉手川のあとを追い、沖縄を訪れる燿子。宿泊先のペンションで出会う、若い恋人たち。ペンソションのオーナーである照屋の孫である祐月、そして上原圭。二人とも中学二年だが、圭は登校拒否で学校に行っていない。圭は嘉手川と同じアメリカ人の父と日本人の母の混血。おばぁと暮らしている。二人は恋人同士なの?燿子の言葉にあっけらかんと「将来は結婚するつもり」祐月は答えた。
嘉手川が最後に姿を消した夜、祐月の祖父である照屋が嘉手川と明け方まで酒を飲み交わしていたいたことを知った燿子は、嘉手川の行方を教えてくれるよう照屋に迫った。しかし頑固者の照屋は一切答えようとしなかった。そうした中、燿子は圭の祖母であるトミに出会い、そして嘉手川が死んでいるなら自分が洗骨をするつもりだという決意と、嘉手川の子どもを宿していることを語った。トミから嘉手川の前妻につながる情報を得る燿子。そのいっぽう燿子は、照屋が60年をかけて行なっている仲間の遺骨探しの現場に立ち会った。沖縄を廃墟にしたのはアメリカだが、それをさせたのは本土の人(ヤマトゥ)だ。沖縄のという地に今も深く残る戦争の傷跡。そして、季節はずれに咲くでいごの花。赤い花のはずのでいごが白く咲いている。狂い咲き。
東京に戻り、嘉手川の前妻と出会う燿子。そして嘉手川に関する驚愕の真実を知る。お腹の子どもは生むべきなのだろうか。自信が揺らぐ燿子。
沖縄に戻り、照屋に起こった60年前の事件を知る燿子。それは戦争というものがもたらした悲劇。戦争があったからこそ、日本軍が来たからこそ、沖縄にはこれほどまでの悲劇に見舞われたのだ。それは戦争という一時だけでない。その後にも業のように続くものであった。それが故に、嘉手川と照屋は気があったのかもしれない。
燿子は嘉手川を見つけることができるのか。そしてお腹の子どもは。また、照屋の償いは。沖縄を襲う台風が過ぎ、そこで見つけたもの。そして残された写真と、燿子の決意は・・・。


これは大人の物語である。若い恋人たちに仄かな嫉妬心をもち、あるいは嘉手川と同じ匂いを求めて中学生の圭を誘惑しかける燿子。しかし揺れる気持ちを抑え、覚悟と決意を決めたとき、彼女の運命は変わった。この先には決して明るい未来があると言い切れない。しかし愛する人の本当の想いを受け止め、彼女は生きていく。嘉手川という男と、そして沖縄という運命を受けいれて生きていくのであろう。こういう小説を読むと本当に女の人は強いなぁと思う。感心し、そして敵わない。また、沖縄の人たちのしなやかさ、強靭さに憧れてしまう。そういえば傑作「サウスバウンド」(奥田英朗)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/13732182.html ]も、沖縄の強くたくましい人々の物語だった。あの島の人たちの強さ、優しさに憧れずにはおれない。台風という大いなる自然の荒々しい力が毎年幾つも通り過ぎていく地。ぼろぼろにされても逃げることもなく、そのたびにまたなんとかなるさぁと立ち上がっていく。戦争の傷跡は、この地に、そしてこの地の人々に大きな傷跡を残したけれど、そうしたこの地の人だからこそまた立ち上がることができるのだろう。


あぁぁ、今回はどうもうまくまとまらない。


蛇足:カバーの絵がいい。濃い蒼い空。沖縄の強さと哀しみ。