プリズムの夏

プリズムの夏

プリズムの夏

「プリズムの夏」関口尚(2002)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、文芸、青春、ネット、日記、高校三年生、夏、すばる新人賞受賞


本読み人仲間のりあむさんがこの作家の最新作「空をつかむまで」をして、もう少しで開花する期待の作家と評していた。ちょっと気になりデビュー作、すばる新人賞受賞作である本作を借りてみた。装丁、内容、どうも読んだことがあるような気がするのだが、まったく、作品の断片さえ記憶に思い浮かばない。最後のほうのエピソードでやっと思い出した。なるほどこれは、これから期待の作家、然り。りあむさんも決して最新作以前の作品について完成度は高くないとコメントしてくれたが、よく言えば荒削り、悪く言えば練れていない。作品が訴えたい切ない想いわ伝わる。それは年上の女性への恋情であり、あるいはどんなに足掻いても何もできない高校生のちっぽけな自分であったり、そういうものは伝わる。しかし、そこから先が突き抜けない。余韻と静謐、そして小さな希望と言ってしまえば、それでまとまめられてしまうのだろうが、もう少しの「何か」が決定的に不足している。また書き慣れない稚拙さ。それが故にぼく記憶に残らなかったのだろう。正直、本作品だけではあまり評価できない。りあむさんの言うとおり今後に期待。


高校三年生の夏。ぼくたちと彼女の物語。
リストラされ、再就職先も見つからず精神的に参っている父親を持つ今井。出席日数は計算しているというが、進学を控えた高校三年の今こんなに欠席していては、本当に何かのときに休んだら留年してしまうのではないか。自転車に乗り、大洗の今井の家に向かう植野。
今井は家でホームページの更新をしていた。映画の感想を中心とした彼のHPは、彼の正鵠を得た映画批評で評判が高く、多くの人が訪問者が集まるサイトだった。
今井の家で話題になるのは、ぼくらが映画館で出会った松下菜奈という女性係員のこと。この春、行きつけの水戸の映画館でフィルムが切れるという事故があった。そのとき、たった二人だけの客であるぼくらに対し謝罪するわけでもなく、素っ気なく間もなく再開しますとだけ告げた彼女。不似合いな化粧が年齢を分からなくさせていたが、頑なに無愛想な表情からかすかに見せる震える唇、強烈な印象をぼくらに残した。ぼくらはいつしかその映画館に行くたびに、彼女の姿を追いかけるようになっていた。
そんな折、今井がおもしろいホームページを見つけたという。「アンアンのシネマ通信」。プロフィールも掲示板もない、そのHPにある彼女の日記に、惹かれるものがあるという。アンアンと名乗る女性の、離れていく恋人のことを思う気持ちが切々と訴えられていた日記。その喪失感から、いろいろとやめていく彼女。その危うさに今井は惹かれているのだろうか。しかし、日記はやめていくことから、鬱病の告白の場に変わっていく。自分を悲劇の主人公のように書きたてる日記。そこには今井を引きつけた何かはもはやなかった。
1ケ月ぶりにいつもと別の映画館に映画を観に行ったぼくらは、そこで過呼吸で苦しむ松下さんに出会い、助けることになった。その夜、驚くべきことに、今日久しぶりに過呼吸になったとアンアンの日記に綴られていた。アンアンは松島さんなのか?


幾らでも明るい開けた未来があるはずの若い年代の主人公たちが、経済的な理由でその未来が暗く閉ざされようとしている。若さだけはあっても、やはり高校生は親がかりの身、行き場のない焦燥。年上の女性への仄かな想い。ライバルはすぐ傍にいる親友。お互いにその気持ちを表だってはあらわしはしない、できない。しかし、透き通るように見える想い。並行して、ウェッブでは鬱を掲げ、己の不幸に酔いしれる女性が登場。気にいらないはずなのに、気にかかる。それは、自らの置かれた閉塞感の状況とも関係があるのか。青年二人の色々な思いを秘めた青春小説なのだが、明るさとは遠い世界。しかし、これは児童を対象とした児童文学ではない。不特定多数の大人を対象とした正当な小説。ならば、これもありか。きらめく夢や青春に彩られる時期のはず青年たちが、現実というものに打ちのめされるかのような一夏の物語。そして物語は静かに、平穏に終わる。


訴えたい核のようなものは、確かに伝わる。しかし、荒削り。それぞれの設定がうまく噛み合わない、ちぐはくさ。
唯一うまくいっているのは、あまり好きな文章でなかったが、鬱を自認するアンアンの書く自分の気持ちの垂れ流した日記HP(ホームページ)か。設定としてはうまい。多くの読者を想定したはずのwebでの発信。しかしその日記HPは、読者との交流を拒絶するかのように掲示板もプロフィールもを設けていない。だが、まったく他者を寄せ付けないというわけでもなく、唯一メールアドレスという窓を持つ。一方的な発信であるかのように見せながら、どこかで他人とのコミュニケーションを期待する象徴(しるし)。そういう位置づけとしてこの日記HPを考えるとうまいと思う。これはちょっと穿ちすぎ?。でも”アノ人”って表記はどうなの。
うまくないのは、”正鵠を得た批評”が売りの今井の映画HPが物語に全然絡まない。アンアンのHPが、読者を拒絶するなら、訪問者の多い今井のHPは対比としてもっと作品に活かされるべきではないか。ただ映画を通じ、年上の松下菜奈と出会う導入しにかなっていない。同様に主人公植野が今井と連み映画館に週一で通うという設定も、植野がそれほど映画が好きだという印象を持てないので違和感。設定としてうまいアンアンのHPも、シネマ通信のはずなのに日記にばかり焦点が当てられている。映画好きな今井が、アンアンの映画批評を見て興味を持ち、そのうえで彼女の日記をというならまだわからなくないのだが、そうでもない。今井は日記がおもしろい、文学的な匂を感じるという。しかし、最もマズイことはこのアンアンの書く日記が全然魅力がない。こんな日記に魅力を感じるという時点で、今井や植野に対して魅力減。また今井がこどものころから琴を続けていたという設定も、ちょっと無理がないか。と、気になる部分をあげ始めるときりがない。りあむさん、本当にこれからの作家ですね。


しかし、まぁ、この作品の書かれた時代(といっても本の3,4年前)はネット・ダイアリー(日記)が大流行していたのだったなぁと、当時の流行が懐かしく思えた。いまは、ぼくも参加しているブログ(web log)が流行。ネット・ダイアリーとブログの大きな違いはたぶんトラック・バックという機能なのだろうが、機能、それにともなう概念の違いによるweb上のコミニュケーションの方法の変化というのは、実際にそれに参加している人間にとっては大きな違いになる。もちろんネット・ダイアリーとブログの性質にかなり似た部分があり、そのサイトの管理者の設定次第では、両者にほとんど差がなくなるということは自明とし、しかし一般的にネットに関わる者はこの両者の概念に違いをもっていると考えたい。
何を言いたいかと言えば、この作品で重要な設定となる”ネット・ダイアリー”という概念が、このほんの数年であっという間に普遍性を失っていき、一時代の残骸のように思われたことに驚きを感じたこと。もちろん、広くweb上に自分の行動や、心情を日記で書き連ねるという行為は、今後も変わらなく続く。しかし書き手の意識が以前に比べて、より読者を意識した書き方になってきている、個人的そう感じる。こうしたネットのなかの時代の流れ、流行によって、実はこの作品の読み方は大きく変わっていくのではないだろうか。作品の書かれた時代の主流であった、垂れ流しのような日記(ネット・ダイアリー)は、孤独な、匿名という仮面に支えられ、自分の内面をそのままさらけ出し、書き綴る場であった。しかし、現在のそれはブログという形態の、つながる読者を意識した書き方に変わってきている。こうした違いが作品の読み手に何らかの影響を与えるとぼくは思う。
この作品は、決してライトノベルのように一過性の話題を狙った作品ではない。いつの時代にも通用する、若者という何もできないちっぽけな存在を描こうとした作品であり、その価値は認めたい。しかし、まさかネット・ダイアリーからブログへの流行の変化だけで、この作品が伝えようとする微妙な部分が変質してしまうとはだれも想像できなかったろう。小説は普遍性を持たねばならぬとまでは言わないが、ときがたち、時代が変わり、読者が変わっても、ひとつの作品には、読者が違えど同じような想い、感想を覚えてほしいもの。共感の共有。それが読書の楽しみのひとつだと思う。そういう意味ではこの変容の激しい時代は、作品を作り上げるには厳しい、難しい時代なのかもしれない。


蛇足:”映画”という設定は、”映画”に多少でも思い入れのある人にとっては大事なテーマ。この作品では、もう少しその部分を大事に扱って欲しいと思った。
蛇足2:この文章を書き上げてから、ネットでの感想を見ると、「アンアン〜」のHPを「ブログ」と捉えている記事が多いのにびっくり。え?ブログだったの?違うよね?それから、どうもぼくはほかの人と切り口が違いすぎる気が・・・。