こわれた腕環-ゲド戦記2-

こわれた腕環―ゲド戦記 2

こわれた腕環―ゲド戦記 2

こわれた腕環-ゲド戦記2-」ル・グウィン(1976)☆☆☆☆★
※[933]、海外、ファンタジー、ハイファンタジー、児童文学、闇、人間、自由、テナー


※備忘録としての詳しいあらすじあり!未読者は注意願います。


スタジオ・ジブリ映画公開前にゲド戦記読んじゃおうキャンペーン実施中(?)。何回めかの再読です。
2006年1月読了「影との戦い-ゲド戦記1-」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/22618662.html ]に続く、ゲド戦記2。物語は映画化される次作「さいはての島へ」をもち、一旦初期ゲド戦記3部作が終了する。その後、時を経て「帰還」(1990)、「アースシーの風」(2001)が発表され現在ゲド戦記は5部作というかたちになっているが、いわゆる「ゲド戦記」を語るに於いては、まずこの三冊を読むことが肝要か。
四部、五部についてもファンタジーを通し、人間というものを描く姿は変わらないが、ちょっと毛色は違う。


というわけで本作「こわれた腕環」。まず前作「影との戦い」と比較して、とても読みやすかった。それはアチュアンの墓所というひとつの舞台で、アルハという少女の成長、ゲドとの出会い、そして自由の獲得を描いた物語であったため。読者としては常にアチュアンという場所にとどまることが出来、また登場人物も多くなく誰が誰であったかという混乱もない。ただ静かに積み上げられるデティールを淡々と読み進めればよかった。前作「影との戦い」は以前書いたレビューでのあらすじを見てもらえば分かるとおり、ゲドは各地を旅し、たくさんの人と出会い、エピソードもてんこ盛り。壮大、雄大と言えば聞こえはいいが、ふと気を緩めると、誰が誰で、何をしていたかわからなくなってしまう。そういう意味で、本作は前作に比べ静謐で、おだやかな物語。しかし作品に描かれる人の姿は、前作同様重要な真理。前作が「自己認識」をテーマとしたとするならば、本作は「自由の獲得」がテーマか。人が本当の意味の自由を獲得するために失うもの、そして決意すること、また信頼というもの。そうしたメッセージがこの作品には感じられた。
しかしこのメッセージというものが作品の根幹を占め、作品に生命を与えてはいるものの、作品を評する上で大事なことは、この物語がまず第一におもしろいということ。この二つは確かに表裏一体で、メッセージが強すぎてもダメだし、おもしろいだけでも深みに欠ける。古今名作と呼ばれる作品はこのバランスが絶妙。本作も勿論、例に漏れない。
前作に比べ静かで地味な作品であるが、おもしろさは負けない。いや、個人的には、各地を早足で旅をするばかりだった前作より、きっちりとディティールが積み上げられた物語である本作のほうが、ある意味読み応えがあった。主人公アルハとともに一歩一歩立ち止まり、手探りで暗闇を進む。
ネットの書評を見ても前作と本作のどちらがおもしろいかという評価は、見事に分かれる。壮大な冒険が好きな読者は前作を、事物より心象風景を読むことが好きな読者は本作を、それぞれ好む傾向があるようだ。とはいえ、どちらが優れているかではなく、あくまでも好みの問題。味わいは違えど、ゲド戦記三部作はやはり三部でひとつとして読みたい、そして読んで欲しい作品。


※以下、詳細なあらすじ!未読者は注意願います


名なき者たちを祀るアチュアンの墓所。唯一絶対の大巫女が死んだ同じ日に生まれた娘は、大巫女の生まれ変わり。幼いテナーは、大巫女の生まれ変わりとして、家族と離され、アチュアンに連れて来られた。玉座での儀式を経、テナーという名は捨てられた。食らわれし者という意味でのアルハという名前をつけられた。
アルハは男の付き人のマナンに畏れ、可愛がられながら14歳までは他の少女とともに学び、暮らしていた。他の少女と違うのは、他の少女が暮らす大部屋ととは違う、大巫女の小部屋が与えられたこと、専任の付き人マナンがいること、そして同じ悪戯をしてもアルハにあ処罰が与えらなかった。
14歳の成人を迎えアルハは、アチュアン墓所の唯一絶対の巫女としていっさいの権限をその手におさめた。彼女にはカルガドの大王でさえ指図することのできない立場が与えられた。彼女を指導し、育てた巫女のサー、コシルにしても、今では誰もが彼女に屈従し、特別な態度をとった。しかし、その内実は以前と何ら代わり映えのない日常。儀式さえ終わってしまえば、日々の生活は決まり切ったものでしかなかった。
そんなある日、マナンからこの国の歴史を聞くアルハ。四つの島が現在の帝国に統一する前は、各領主や族長は何か決めるため、すべてを大巫女を通し名なき者にうかがいをたてていた。しかし、カレゴ・アトで神官が王をかねて島全体を治めるようになり、自ら神を名乗る大王が現われ帝国を統一してからは、いろんなことがすっかり変わった。カルガド帝国の大王は、自らが神なのだからと言い、名なき者たちにいちいちお伺いをたてないでいっさいを自分の手で執り行うようになった。
「大王の力は、わたしが使える名なき者に比べれば、ずっと弱いものだろうに・・」「「大王も、大王に使える者たちも、墓所のことを少しも大事に思ってないようね。誰も来ないじゃないの。」つぶやくアルハ。「だけど、大王様はちゃんと囚人を犠牲(いけにえ)に送ってよおこしておられる。」とりなすマナン。しかし、実際には大王は毎年毎年神殿を新しく塗り変えているのに反し、アチュアの墓所、神殿はうち捨てられたように、長い年月に傷ついた姿をさらしていた。しかしアルハは気を持ち直す。アチュアの神殿こそものごとの中心、大王の神殿が滅びてもこちらの神殿はいつまでも残るはず。古くからいっさいを統べるのは名なき者、そしてみなはその存在を恐れ、それを祀る大巫女たるアルハを恐れるのだ。アルハはそう思うことにした。
15歳になったアルハに新しい仕事が与えられた。それまでコシルの行ってきた名なき者たちの領域、墓所の地下迷宮の玄室の管理。コシルにとっては、やはり恐ろしい場所であった地下の迷宮も、大巫女たるアルハにとってはまさしく、自分の土地。口伝で伝えられた暗闇に包まれた迷宮を、正確に教えられた通り、あるいは糸を用い、迷宮を探索するアルハ。そんなある日、光などないはずの迷宮で、ひとつの光を見つけるアルハ。迷宮の宝を探す男との出会い。
墓所の守り手、大巫女であるアルハは本来、墓所を汚す男の始末をつけなければならない。しかし、その男の存在が気になるアルハは、洞窟に閉じこめられ命の尽きようとする男に、隠れて水をやり、食物を与える。その男は”ハイタカ”と名乗り、アルハをその失った名前であるテナーと呼んだ。彼の望みは失われたエレス・アクベの環の半分を手に入れること。
彼はその環の半分を、過去の旅で、命を助けてもらった孤島に取り残された年老いた兄妹より贈り物としてもらったという。そのときはその贈り物の価値に気づかなかったが、今ではその価値を知るという。エレス・アクベの環、その半分がそれぞれ合わさり、”つなぎの文字”である神聖文字が復活しないことには、この世に平和をもたらされない。現に、その文字がなくなって以来ハブナーでは、今日までひとりとしてすぐれた王は生まれず、こぜりあいと戦争を繰り返してきている。
そしてハイタカは、アルハにまた、多くの人々が信じ、彼女が大巫女として仕えている闇の精霊である名なき者は、本来崇めたてる存在でないことを説く。本来のテナーとして古きものに囚われず、新たな自由を得ることを説くハイタカ。自分と一緒にここを出よう。ハイタカは自らの真の名前であるゲドをテナーに教える。
テナーの力を借り、迷宮を抜け出るゲドとテナー。しかし、そこには古き闇の精霊があり、ゲドは魔法を使いながらそれらを鎮めながら進まなければならなかった。墓所を抜け、アチュアンからハブナーへ向かうふたり。幼い頃から住み慣れたアチュアンを離れることに不安を覚え、迷うテナー。大巫女として授けられた短刀を手に疲れ眠るゲドの前に立った。この犠牲(いけにえ)を与えさえすれば、一度は裏切ったアチュアンの墓所の主(あるじ)たちも赦してくれるはず。しかし、起きあがったゲドの姿にそうした考えは消えていった。
船を漕ぎいよいよアチュアンを離れたとき、ゲドは解放されたと語る。しかし、テナーにはその喜びが分からなかった。自由の重さを知り始めたのだ。その先に光があるのを知りつつも、そこまで辿り着くことができるのか。さざめ泣くテナーを泣くにまかせ、敢えて慰めの言葉をかけないゲド。それは自由を獲得した者ののみが背負わなければならない重みなのだ。このさきはテナーひとりの人生なのだ。
そして、テナーとゲドはハブナーに辿り着く。テナーが右手をあげると、その手首にある銀の腕環が陽の光にきらりと光った。


神殿に巣くう古くからの名なき者の存在を恐れる一方で、現世の権力の象徴である大王におもねる巫女コシル。その姿は、あたかも現代人の姿のよう。決して敬虔な宗教心を持つのでなく形だけ取り繕い、実際は現実の目の前の事物や権力に囚われる。名なき者。そそて大巫女アルハに仕えているように見せながら、その実アルハの失敗を待ち望み、あげつらう機会を狙っている。人間らしいねたみやそねみ、そうしたものが神殿という敬虔な宗教の場に於いても、神に仕える筈の巫女に於いてさえありうるということをグウィンの筆は冷酷に書ききる。見事に「人間」というものを描いているというべきか、あるいは腐敗した形骸化した宗教事情を描いているというべきか。
そして、物語は本来祀られるべきでない者を祀る少女を、そこから解放し、自由を獲得させる。そこに留まれば安定と安寧をそのまま享受できたかもしれなかった彼女に、敢えて困難をも同時に担わなければならない自由というものを、自らの意志で選択させ獲得させる。残ること、進むことどちらが本当に少女にとってよいことだったかは誰にも分からない。しかし、与えられた運命に身を任せ生きていくより、自らの手で選び、勝ち得た運命にこそ、その未来に価値があるとぼくは信じる。「闇の守り人」(上橋菜穂子)
[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/9417455.html ]を語ったときも触れたが「運命は自分で選び、勝ち取ること」こそ重要だとぼくは思う。そしてまた、そういう小説・物語が好きだ。
本作品は地味で、静謐な作品である。しかしそこに語られる真実の重さ、そして、その物語としておもしろさは、やはりファンタジーの名作と呼ばれるだけの作品。
今更ながらオススメの作品である。