陽の子雨の子

陽の子雨の子

陽の子雨の子

「陽の子雨の子」豊島ミホ(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、文芸、誘拐、少年、小説、中学生


※ネタバレしないように注意したが、もしかしたらネタバレしてるかも。未読者は注意願います。


豊島ミホ、2002年新潮社主催、第1回女による女のためのR-18文学賞で「青空チェリー」が読者賞を受賞。R-18というのがどうもあやしく、作品もアヤシイらしいが、こちらは未読。いつか読みたい。きっかけは、本読み人仲間chiekoaさんが褒めていた「檸檬のころ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14962485.html ]。その伸びやかな切なさがとてもよく、ちょっと気になる作家として記憶の片隅にその名前が残っていた。今回は図書館のリストに並んでいたので借りてみた。


本作は前作「檸檬のころ」のような、切ない、素直な青春小説ではない。たしかに青春小説のひとつではあるが、素直にまっすぐには生きられなかった、社会に背を向けるように生きてきたそんな少女と少年の生活。そこに突然飛び込んだひとりの少年。そんな三人の若者の姿。異常な、ちょっと現実離れした状況は読み物としての「小説」というより、「文芸」とか「文学」に近い。最後はまっとうな終わり方をするが、正直、客観的な評価は難しい。おそらく読み手にとって評価は別れるのではないか。ネットの本読み人まみみっくさんさんがそのblog「今日何読んだ?どうだった??」[ http://kanata-kanata.at.webry.info/200605/article_31.html] で「豊島ミホさんの作品は,どこか単館上映されてる映画に似ていると思う。一般受けはしないかもしれないけど,確実に読む人は存在するようなそんな感じ。変に印象に残るような。」と書いていたが、この作品はまさしくその言葉が合う。ただぼくが数少なく読んだ豊島ミホの作品二冊すべてにこの言葉が当てはまるかどうかは疑問。もっと読んでみなきゃ。

個人的にはこの作品はアリ。しかし、それも最後まで読み切って初めて言えること。作中で語られる「灰色の点々」に窒息しそうになりながら読み進めている内、特に前半から中盤までは正直読みづらく、拙い作品だと思った。何がこの先起きるのか、それはできれば起きて欲しくないことなのか、そういうことを思いながら読んだ。後であらすじをまとめる際もその部分は残しておきたい。つまり未読の方はどきまぎしながらこの不思議な状況に巻き込まれた少年の気持ちを感じて欲しい。それがこの作品の不思議な魅力。そういう意味でネタバレはしたくない。しかし、ネタバレをしないでこの作品のレビューを書ききる自信はない。だから、とりあえずネタバレしないつもりのネタバレありと明記しておく。


作品としてのノワール(犯罪)小説は決して嫌いではない。しかし、それは心の準備が出来てから読むに於いての場合。それでも幼い子どもや女性が、暴力や狂気に晒される作品はあまり好きではない。本作品は一歩間違えば簡単にその境界線を踏み越えてしまう、そんな危うさを持った作品。年上の女性による少年の軟禁、そして新たな被害者の発生に結びつく状況。そういうシチュエーションの物語。覗いてはいけないものを覗いている、そんな切迫感、罪悪感を読者に感じさせる。こういう作品をオススメと言い切る自信はない。しかし、最後はきちんと青春小説して三人の主人公それぞの成長を予感させる。うまくまとめた。安心した。いわゆる文学作品では堕ちっぱなしというパターンもありがちなので、この作品の最後はよかった。
しかし、こうした作風の作品は読み手を選ぶ。作家は敢えてこのあやうい方向に進もうとしているのだろうか。ネタバレにつながるので詳しくは書かないが、本作品の描写でこのままこの作風を進めるのは難しいだろう。個人的には好感を持つのだが、多くの読者はついてこない。まさしくまみみっくすさんの云う単館映画。それはそれでよいのかもしれないが、。


雨が怖い。そこにうごめいている灰色の点々が僕のことをおびやかす。だから梅雨は嫌いだ。学級日誌の自由欄に一度は書いてみたものの、もと文学少女の担任のみゆき先生に媚を売っているみたいで格好悪い。ありきたりの文章に書き直した。中学二年生、14歳の僕、神田川夕陽。家はいくらか裕福で、幸福な家庭、こうして私立の中学にも通っており、学校にも問題はない。日誌を家庭科室のみゆき先生に届けたところで、僕はその女性、雪枝さんと出会った。みゆき先生の高校時代の同級生だから、二十四歳。それにしては幼く見えた。そんな雪枝さんに帰り際に呼び止められた。日誌の消した跡を読んだという。そしてメールアドレスを交換した。今度一緒に遊ぼうと言われた。でも、きっとからかっているだけで、本当にメールなんて来ないんだろうな。
雪枝は、おばあさんから譲り受けた遺産の不動産の賃料で生活している。大学を出てから、気晴らしのバイト以外まともに働いたことがない。そして俺は15歳で家を出て雪枝に拾われて以来、もう四年もこの家で過ごしている。外に出たら見つかってしまうので、ほとんど家の外に出ることもない。幸せだと思った家庭、仲が良いと信じていた両親。それらがささいなことから壊れてしまった。逃げるように家を出た俺を、梅雨の冷たい雨のなかで雪枝が拾ってくれた。しかし、暮らしはじめて三年くらい経つようになって、雪枝はときどき俺に捨てちゃうよと言う。聡、大きくなりすぎたよ。
祖母の遺産で、世捨て人のような生活をする雪枝と聡の生活に、雪枝はひとりの少年を連れ込んできた。それは聡が拾われたときの年齢、中学二年の少年、夕陽。性に興味を持ち始める思春期の少年。雪枝は何を考えているのだ、その真意はいったいなんだ。ひと夏の少女と少年たちの青春の物語。


主人公のひとりである夕陽という少年にとてもリアリティーを感じた。幸せな家庭、ファミリーという言葉の似合う両親のあいだの子ども。性に興味を覚える年代。しかし、素直にまっすぐ育った少年らしい潔癖さで、それが決して「いいこと」でないということを口にしないではいられない。興味がないわけでない。「僕、とてもいい加減な気持ちでここに居るんです」。まさに陽の子。ぼくらの年代(40歳)で、この14歳の少年をリアルに感じるというのも幻想なのかもしれない。しかし、確かにこういう少年はいる。そう思わせてくれる描写であった。対する雪枝と聡。雪枝の祖母の遺産で世捨て人のように生活する現実感の薄さ。夕陽(=太陽の子)と出会うことで、彼らは自分を取り戻す。人間として、成長するということを思い出したかのように、あるいは止まった時計を動かし始めるように、。勿論、そこには葛藤や迷いがあり、この作品はその辺りを上手に描く。


この作品の成立に少女が少年と暮らしていたというシチュエーションはとても重要。確かに性的な行為に触れはするのだが、ある年代の大人の女性(夕陽の担任の女教師と同年齢)のはずなのに、雪枝はそれを感じさせない。その軽やかさというか、存在感、現実感の薄さ、そしてさらっと流した描写が、このともすれば暗く重くなりがちな作品世界を救う。もはや少年とは言えない、青年あるいは大人の男でしかありえない聡についても同様。大きくなりすぎた、という言葉がもはや子ども部屋の二人でないことをうまく表現していながら、生々しさはない。雪枝も聡ももはや、少年とか少女という言葉や、語感では現し得ないはずのだが、それ以外の言葉では表現できないもどかしさ、そしてそういうあやうい不確かな立場。そういう立場のシチュエーションであればこそ、いわゆる「いやらしさ」のない作品は成立している。しかし、この現実感に遠いシチュエーションは何なのだろう。もうひとつの隣にある幻想の世界のよう。


ぼくは、決してこの作品を高く評価しているつもりはない。しかし語らずにはいられない。そういう部分を持った作品。そういう意味での読み応え、あるいは語り合える作品なのかもしれない。そういう意味でこういう設定を破綻なく描いた作家の勝利。やはりオススメかもしれない。


蛇足:読了後、ネットで親しくさせていただいている方が、案外近い時期にこの作品を読んでていることを知った。親しくさせていただいているからか、はたまたもともと同じ読書傾向があるからかなのかわからないが、嬉しい。同じ本を読んでいる人がいて、その人と意見を交わせるのって本読み人の楽しみのひとつ。ネットという環境の発達とともに、本読み人の読書の楽しみ方も、かなり変容した部分があるのではないだろうか。そういうぼくが、こうしてネットで意見、情報を交わすなかで数多くの作家、作品を知った。女流作家は敬遠気味だったのが、この1,2年で随分読んだ。そういう意味でネットにおける交流はありがたい。