幽霊人命救助隊

幽霊人命救助隊

幽霊人命救助隊

「幽霊人命救助隊」高野和明(2004)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、自殺、生命、幽霊、神様


またもや辛口でいきます。いい話し=(イコール)いい小説ではないなと、つくづく思わされた一冊。
確かにいい話し。幾つかのエピソードはぐっとくる。でも一冊を読み通してみると、あれ?これでいい?のと思わざるをえなかった。悪くない話し、いいお話し、しかし決していい小説ではない。もう少し書きようがあったのではないか。せっかくのいい話しが生かしきれた書き方ではなかった。


本作品のあらすじを至極簡単にまとめると、それぞれ自殺して幽霊になった四人の男女が、天国へ成仏するため、神様の命令で期限までに協力しあい自殺志望者100人を救うこと。これをどのような設定にし、エピソードを加え、あるいはディティールを際だたせるかがで作品が成立する。本作では、自殺した四人の主人公が、どことも知れぬ絶壁、崖の上で出会うことから始まる。東大受験に失敗、自殺した高岡裕一がこの場所で出会ったのは何をすることもなくただ漫然と過ごす三人の男女。最古参のエネルギッシュな老人、八木は元小さい暴力団の親分、昭和の頃短銃自殺し24年間もここにいるという。名古屋で小さい会社の経営者であった背の小さい中年男性市川春男は服毒自殺、裕一より5歳年長の女性、安西美晴は飛び降り自殺、そして裕一は首吊り自殺。そんな四人のもとへ神様がスカイダイビングで空から降りてきた。授けた大事な命を無駄にした償いとして、地上に降り、これから49日の間に100人の自殺志願者の命を救え。もしことを成就させたら、四人はこの何もない場所から救われ天国へ行くことができる。かくて、四人は地上へ降ろされた。気づくとRESCUE(救命隊)と書かれたオレンジのつなぎを着せられ、お互いに連絡を取り合う携帯電話、無線機、自殺志願者を発見できるバイザー型ゴーグル、そして自殺志願者の心に言葉を届けるメガホンが用意されていた。彼らの姿は、地上の人間には誰にも見えず(ごく一部見える人がいるが、作品には活かされなかった)、物理的には物にも触れられず、人間は通り抜け、あるいは中に入り込み、その人の気持ちを読むことができる、しかしドアや壁はすり抜けられず、移動は電車や車に乗って行わなければならないと甚だ不便なものであった。


ここでこの作品の設定とルールが決められた。作家は敢えてベタでコテコテな設定を選んだ。四人のてんでばらばら個性溢れるメンバーにチームを組ませる。期限と人数の定まった課題を与える。昭和から平成という時代のなかの泡沫的な流行を取り入れ、死語を笑いの対象とし、あるいは「神様」が「スカイダイビング」で現れる。主人公たちはゴーストバスターよろしくオレンジのつなぎを着せられる。最先端の現代機器を模したギミック(道具)を持たせながら、尤も威力のある武器は原始的なメガホン。いろいろな苦労をしながら、課題を成し遂げようとするチーム。最後は予定調和なラスト。そこに作家はマンガ的な笑いを狙いながら、最終的には温かな作品、良質なコメディーを狙ったのだろう。確かに個々はいい話しと言えるエピソードが並んでいる。しかし、ひとつの作品として評価しようとするとぼくにはあまり評価できない作品。はまりすぎたお話し。そこには何の驚きもない。想像通りに物語は進み、想像通りに終わっていった。なにがいけないのか。


多くの人が述べるように本作はの描写は小説ではなく、マニュアルになってしまっている。100人というあまりに多くの人を救うことが目的となっているために、人を救う行為の描き方が薄くなってしまったのではないか。なるほど、確かに、そんな簡単なことと思うことで人は自殺を考え、それが故に、ほんの少しの小さなきっかけで簡単に自殺を食い止めることができる。人が自殺を願うことは、まったき精神の働きであるわけだから、精神的に追いつめる要因を一時的にでも取り除けば、確かに自殺は食い止められるのかもしれない。そういう意味で、この作品は、自殺を何となく考えている人に、自殺を思いとどまらせたり、あるいは自分の周りで追いつめられている人に対して気を配る契機にはなるのかもしれない。そういう意味での価値はある。しかし、読み物としての深みが決定的に不足している。自殺を止めることはするが、なぜ人が生きていかなければいけないのか、その命の重さについては訴えていない。生きてさえいれば、という気持ちは伝わる。しかし、それだけでいいのだろうか。作家とすれば、本作品はあくまでも「STOP The 自殺」なのかもしれない。生きていくことの価値、それはもっと別な根元的な問題であり、本作品で作家が書こうとするものではないのかもしれない。しかし、ぼくという読者にとってこのコメディー作品にはそれが必要だったと思う。それはたくさんの救命ケースを書くという書き方ではなく、もっと掘り下げ絞って書くという方法であれば、可能だったのではないか。児童文学「マリーン」(T・A・バロン)を読んだときも感じたが、RPG(ロールプレイングゲーム)よろしく課題を解き進む物語においては、課題を解く過程に仮託された本当に作家が伝えたい真実(想い)より、課題を描くこと自体に軸が置かれやすく、ときに課題を解く自体が最重要課題のように書かれてしまう場合が見られる。この作品でも、あと何日で何人救わなければいけないという表記が幾箇所で見られ、結局、課題を遂行することが最大の目的のようにケース別、それも鬱病という最大公約数でまとめられた事例を、お手軽に解決する描写が続く。あたかもマニュアルを読ませられた気分であった。エピソードの幾つかにおいては、あともう少し掘り下げればもっといいものが出てくるのにと残念に思えてならないものもあったのに。また主人公の四人にしても自殺したということを後悔しても、生きていて何かしたかったという意気込みのようなものや、また救助という仕事をする上での葛藤は感じられなかった。ただ淡々とこなしているようで、ちょっと残念。立ち止まったり悩んだり、死んではいても何かを掴み取り、成長する姿が見たかった。ぼくはそういう物語が好きなのだ。


そして設定としての彼ら四人はどうなのだろう。彼ら四人が救助隊に選ばれたのはなぜか、なぜあのとき、つまり裕一が来たときでなければならなかったのか、その謎は作品で明かされたとは言えない。活動を続けるごとに汚れていくレスキュー服、その意味は?。彼ら以外に、神様からの使命を帯びたものはいないのか、いなかったのか。ひねくれた読者としてのぼくは、そういう部分をきちんと解決して欲しかった。「死神の精度」(伊坂幸太郎)ではないが、神の使命を帯びたまた別の救助隊がいまもどこかで頑張っているのほうが、設定としてはリアリティーがあったのではないだろうか。


とはいえ、けっして悪い話ではない。いい話という点では是非、読んで欲しい一冊。しかし小説としての評価はしにくい。そういう意味で難しい作品だ。


蛇足:ラスト(エピローグ)はあまりにありふれた終わり方。あれはまさしく蛇足。ないほうがいい。