私という運命について

私という運命について

私という運命について

私という運命について白石一文(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、恋愛、女性、生、運命


白石一文という作家と彼の作品の位置づけにはいつも悩む。読んでいるときは引き込まれ、その世界に没入させられるのだが、しばらくしてふと思い返すといったいどんな小説だったのだろうと思わずにはいられない。残っているようで残っていない。読んだという記憶は残っても、何かが残っているという気持ちがしない。これは、いったい何なんだろう?今回「私という運命について」を読んで、朧げながら、氏の作品の本質が少し理解(わか)ったような気がした。そして、またもや辛口。


物語は今から10年とちょっと前に遡る、細川連立内閣の成立した1993年より始まる。主人公は某情報機器メーカー(って、絶対NECだよな、これ)に勤める女性総合職の冬木亜紀2。彼女の29歳から40歳の人生を、彼女と、彼女の周りの人々を描くことで物語られる。ある女性の10年史。彼女の人生を通し、恋愛、仕事、結婚、出産、家族、死、それらの人が生きていくうえで通り過ぎ、経験していかねばならない、避けてはいけない事象の根源的な意味を探る物語。


男女雇用機会均等法の成立で女性総合職第1号で入社した冬木亜紀も勤め始めて7年が経つ。忘年会で慌ただしかった師走の深夜、自宅でくつろぐ亜紀は、出欠の返事を出しそびれている会社の後輩である大坪亜理沙の結婚披露宴の招待状をもてあましていた。亜理沙の相手は会社の先輩でもある佐藤康。かって亜紀は康と付き合い、彼の実家まで行き、彼の両親とも顔を合わせたこともあった。そして彼の母親、佐智子にとても気に入られていた。そのまま結婚と思っていたのに、亜紀は康のプロポーズを断ってしまった。誠実で生真面目な男性である康であるが、なぜか結婚という場になり亜紀の心は動かなかったのだ。
そんな折り、実家の母孝子から亜紀に電話があった。弟の雅人が、結婚したい相手を紹介したいという。ついては、年始に来れないだろうかと。新聞社の学芸部に勤める雅人の選んだ相手は、同じ慶応大学の児童心理学の研究室で出会った加藤沙織という女性。その名前を聞いたとき、なぜか亜紀はこの二人の結婚がうまくいかないという思いが胸に浮かんだ。それはほんとうに直感のようなものだった。何の根拠もないことなのだが、母の孝子も同じように得体の知れない何かを感じているようだった。
康に突然呼び出された亜紀は、結婚式に来ないで欲しいと頼まれた。それは、亜紀のことを気に入った康の母、佐智子が結婚式で亜紀に会ったら、どうなるかわからないから。亜紀と別れたと聞いて、佐智子は自分から会いにいきそうな気配だった、くも膜下出血で倒れたこともあり、もう一度発作でも起きたら取り返しのつかないことになる。康の頼みを聞きながら、亜紀が思ったのは、康のプロポーズを断ったのは間違いだったのではなかったか。あのとき凡庸と思えた彼が今はそうは思えず、また、そこまでして自分のことを嫁にしたいと強く願ってくれた佐智子の気持ちに感動していた。激しい悔悟の気持ちを抱く亜紀だった。
正月に会った、雅人の婚約者は感じのいい明るい女性だった。ただ、結婚するふたりがお互いに謝ってばかりいるのは、母の孝子にはちょっと気に入らないようだった。亜紀の家で皆で歓談しているとき、沙織は語った「愛することより、愛されることのほうが大切だ。以前は『好きになったら命懸け』だったが、それはとてもエゴイスティックなことだと気づいた」。沙織の話に違和感を覚える亜紀。24歳の若さならもっと、愛する人を好きでいていいのではないか。
亜理沙と康の結婚式当日。披露宴に出席しようとした亜紀だが、披露宴の行われるホテルのラウンジで、康と別れた後に佐智子から送られてきた、いままで読んでいなかった手紙をはじめて読み、なぜ、いままで手紙を読まなかったのか、深く後悔するのであった。何もかもが手遅れだったのだ・・。
舞台は福岡に変わる。可愛がられていた上司に引っ張られ、福岡に転勤となった亜紀。新しい恋人、インダストリアルデザイナーである順平、同じマンションに住む中学二年生の明日香、明日香の許嫁であるという高校生の達哉と出会う亜紀。そうした人々との出会いのなかで、生きることや、仕事、恋愛について深く考える亜紀。しかし、ある事件が起こりまたもや亜紀の人生は、大きく変わっていく。運命というものについて深く考える亜紀。
弟夫婦の抱える重大な問題、そして起こる悲劇。弟を慕う会社の後輩の円谷まどかの努力と生き様。あるいは壊れかけた弟雅人を受け入れてくれた餃子屋を営むまどかの兄夫婦。
そして40にして結婚と出産を経験する亜紀。最後に亜紀が迎える運命とは。


読んでいて深く考えさせられる作品。そしてこれがこの作家の魅力であり持ち味であることに気づいた。今回は亜紀という女性を主人公としているが、白石一文という作家の作品を読むということは、主人公が男性であれ、女性であれ主人公にに同化して、主人公やそのまわりの人の考え、意見を聞き(読み)、ともに考えること。それは、ふだんの普通に過ごす生活のなかではあまりしないことだが、人が人である以上、ときに立ち止まり、ふと考えることと同じ。文章も平易で分かりやすい。それぞれの人物の語り言葉であり、それがゆえに普遍的に自分の問題として考えることができる。運命とは何か、人生とは何か、人は誰でもときどき立ち止まって徒然と考える。この作品は、いや白石一文の作品全般が語る内容は、まさに人が根源的に考えることをテーマにしており、それが故に多くの人が共感を持ち読むことができるのだと思う。


それなのに、なぜ白石一文の作品はぼくの中に残らないのだろう。それは、おそらく彼の作品は強く訴える結論を持っていないからだと思う。幾つもの論を語りながら、運命とは何か、人生とは何かと問いかけながら、決して最終的な結論を持たない。それは真摯に考えれば考えるほど正解がないことだからなのかもしれない。しかし、小説という作品においてはそれでは駄目だ。作品を読み、ともに考えた証として作家は自分の結論を明確に打ち出すべきだ。そうでなければ、例えば若い人がお茶を飲みながら、あるいは酒を交わしながら、それらのことを熱く語り合い、結論を見出せぬまま、語ることそれ自体が糧であったのと同じように、なかなかその内容が心に残らないのではないか。多くの本読み人がこの作品をよしとする中でその人たちに尋ねてみたいと思うのは、本当にあなたの記憶に残る一冊ですか?


今回の作品は、以前読んだ幾つかの作品のように、決して作品に必要とは思えない露悪的な露骨な性描写がない点はよかった。しかし男性作家の癖に、ある年齢の女性が気にする下腹部のたるみ云々という描写は巧いのだけど、いかがなものか。ある種類の作家が得意とする手法なだけにちょっと鼻白んだ。とはいえ、以前のただただ内省ばかりして考え続ける、ともすれば小賢しいばかりと捉えられる主人公たちの作品に比べれば、ずっとリアリティーを感じた。決して悪い作品ではないし、悪い作家ではない。ぜひ、次は自分の手で何かを掴み取る、そういう主人公の物語を期待する。


運命とは自分で選び、勝ち取るものである。以前、「闇の守り人」(上橋菜穂子)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/9417455.html ]を論じたときも語ったことだが、そうした気概を持って生きたいし、またそういう作品が好きだ。例え流され、受け入れることが現実だとしても、自らの意思で何かを成し遂げていきたいとぼくは思う。