さいはての島へ

さいはての島へ―ゲド戦記 3

さいはての島へ―ゲド戦記 3

さいはての島へ-ゲド戦記3-」ル・グウィン(1977)☆☆☆☆★
※[933]、海外、ファンタジー、ハイファンタジー、児童文学、人間、運命


※備忘録としての詳しいあらすじあり!未読者は注意願います。
 というかあらすじのみ・・。


スタジオ・ジブリ映画公開前にゲド戦記読んじゃおうキャンペーン実施中。ゲド初期三部作の最後の作品。映画のほうは、なぜかこの後第4部「帰還―ゲド戦記最後の書」(初期三部作発表後、十数年経て突然発表された。「最後の書」とあるが、この後5部「アースシーの風」が発表される)に登場する少女テナーをも登場させるようだが、とりあえず初期三部作をもってキャンペーンは一旦終了。四部、五部は一応一回は読んでいるが、初期三部作とはちょっと毛色が違うようで、どうも再読に食指が動かない。気が向いたらまた読んでみたい。


ロークの大賢人ゲドのもと一人の少年がやってきた。エンラッドとエンドレイド諸島を治める領主のひとり息子、アースシーで一番古いモレド家の血を引く少年アレン。その彼が、父親の命を受けロークへ来たのは、彼の住む地で起こった不思議な出来事を賢人たちに伝え、知恵を借りるためであった。
ナルベデュエンという、エンドレイドから500マイルほど離れた島で、呪文が力を失い、魔法が存在しなくなったという噂が船乗りを通じ伝えられた。間もなくしてエンラッドでも、小羊の祭りで呪文をかけるはずの魔法使いがどうにもこうにも呪文がかけられないと言い出した。言葉も様式も忘れてしまったと語るのだ。若い頃、ロークで修行していたこともある領主であるアレンの父が代わりに祭では呪文を唱えた。しかし、唱えた手応えが感じられないという。果たして羊は死産や、或いは畸形を生んだ。また、山に住むうらない女たちも同様に、未来に不吉な影を見、ほれ薬も効かなくなっているという。
アレンの話を聞き、ゲドはその不思議なできごとが他の幾つかの場所でも起こりつつあることをアレンに告げた。ゲドと話しているうちにアレンは、ゲドが自分のことをたった一人のアレンとして見てくれることに気づいた。いままで誰もがアレンのことを、エンラッドの王の子としてしか見ていなかった。そのことに気づいたアレンはゲドに告げる「大賢人様、お仕えさせていただきとうございます。」しかしゲドはその言葉をすぐには受け入れてはくれなかった。
ロークの賢人たちが集まり、話し合いを行なった。アレンはその間、ロークの学院の若者カケと世の中の平和について話しをする機会を得た。ゲドが例の王の神聖文字の書かれた腕環をハブナーの”王の塔”に戻してから、17,8年経つが、世の中に平和が訪れているとは言えない。やはり王が王座につき、民の支配権を委ねられるべきだ。カケが語る。確かにマハリオン亡きあと、800年が過ぎ、その間ハブナーの玉座は空っぽである、しかし、今更人々は王を受け入れるのだろうか。そういえば、次に立つ王は魔法使いだとマハリオンは予言を残していた。アレンが答える。マハリオンが残した「暗黒の地を生きて通過し、真昼の遠き岸辺に達したものがわたしのあとを継ぐだろう」という予言について、詩の長はわれわれに繰り返し聞かせているとカケが語り、そしてアレンとカケはこの予言の語ることは魔法使いにしか実現できないであろうと同意する。
意見の一致を見ればという大賢人たるゲドの望みも虚しく、果たしてロークの賢人たちである魔法使いの長たちの意見は二つに分かれた。結論としてゲドは自ら旅に出ることを決める。旅の供としてアレンを連れていくことも。長の中にはアレンを連れていくことに異を唱えるものもいた。しかし、ゲドは様式の長の言葉を借り、アレンがここにいること自体、偶然ではないと答える。
何の力も持たない、ただの普通の人間でしかないアレンは、ゲドの期待に沿えないのではないかと危惧する。しかしゲドは「自分で語ったとおり、自分の血筋に恥じない行動を取ろうとすること、それだけでよい。過去を否定することは未来を否定することだ。人は自分で運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか拒否するのかどちらかだ。」とアレンに語り、アレンがまだゲドに明かしていなかったアレンの真の名レバネンが意味するナナカマドの木をひきあいに出し、まだまだアレンが伸びていくためにもこの危険な航海をすすめたのだと語る。かくしてアレンはゲドとともに旅をすることとなった。アレンがエンラッドを発つ前に父がくれた、モレドとエルファーランの息子セリアドのもっていた剣を携えて、。アレンの名はこの家宝の剣から取られた。アレンデクとは「小さな剣」という意味である。
ゲドとアレンの旅が始まった。ゲドの”はてみ丸”にのった二人は、まずホートタウンに向かった。ホートタウンには南海域全域からの情報が集まる。何か手がかりがあるかもしれない。自らの正体を隠し、ホークと云う名の商人とその甥を騙(かた)り、旅を続ける二人。ゲドは魔法を使わず、自然の風をうまく手なずけ船を進めた。彼は優秀な船乗りであり、アレンも航行中に彼から船の操り方を教わる。
ゲドはアレンに語る「わたしは若い頃、「ある人生」と「する人生」のどちらかを選ばなければならなかった。そして「する人生」を選んだ。その結果、行為から、あるいはその行為から生み出される結果から自由ではいられなくなった。行為は次の行為を呼ぶ。この航海のように行動と行動との間の隙間のような「ある」という、それだけの時間、あるいは自分とは結局のところ何者なのだろうと考える時間をほとんど持てなくなっていた。だから、私は今このような自分について考える時間を持てる海が好きなのだ。」自分が何者かという疑問は若い者しか抱かない疑問だと思っていたのに、目の前の偉大な男がいまだそういうことを考えると聞き、アレンは驚くのであった。
ホートタウンの街で、賑やかな市場を通り抜けた二人は、ハジアという麻薬に身を任せる人々の姿を見かける。そして今は右腕をおとされているが、かって海賊イーガーのもとで風の司をしていた元魔法使いのウサギという男と出会った。魔法を失ったウサギであったが、かって死の国へ行き帰ってきたことがあるという。そしてウサギは、黄泉の国へ通じる道がある場所、夢のなかへ、まだ魔法を忘れていないゲドを連れて行きたいと執拗に語る。アレンが見守るなかで、ゲドとウサギは、その国へ向かった。そのとき事件が起こった、盗賊がゲドとアレンを襲ったのだ。ゲドを守らなければいけない、アレンは自らを囮にし、盗賊をゲドから遠ざけた。その結果、アレンは奴隷船につながれることなった。
使わないようにしていた魔法を使い、後を追いをアレン助けたゲドは、アレンが自らの命を呈しゲドの命を守ろうとしたことを聞き、自分がアレンを連れてきたと思っていたが、そうではなく自分がアレンについてきたのだと悟る。いっぽうアレンは、ゲドが盗賊たちを罰しないことに不満を述べる。ゲドは答える。例え相手が悪人であろうと、何かをするということは、そのものの運命に影響を与えること。すべての物事は影響を与え合っている。我々は均衡を学ばねばならない。とはいえ、人間はいいこともわるいこともし続けるだろう。今後、もし昔のように王が現れ、大賢人に意見を求められるとしたら、そしてもし私が大賢人だとしたら、私は王に何もなさいませぬようにと告げるだろう。敢えて何もしないことの、他へ影響を与えないようにすることの意義を説くゲド。
南海域に出、ローバネリーへ向かう二人。ゲドはかって「パルンの知恵の書」に書かれた死者を呼び出す男がいたことを話す。その術はどんな魔法より危険なものであるのにも関わらず、深く考えないでその男はお金のために使っていた。そしてゲドの若い頃の師である大賢人ネマール様を呼び出すのを見るに及び、ゲドは彼をこらしめるために、あるいは自分の怒りと虚栄のために、一緒に死者の国へ強引に連れて行こうとした。その結果、男は土下座をして赦しを乞い、そして二度とパルンの魔法を使わないと誓った。何年かたって彼が死んだという噂を聞いた。その男は皆からハブナーのクモと呼ばれていた。
絹の名産地であったローバネリーでは、まじない師がいなくなってから絹の出来が悪くなっていた。”ローバネリーの空色”と呼ばれる青、あるいは”竜の炎”と呼ばれる深紅も、染色に携わる魔法使いの一族の手に委ねられていたが、彼らが魔法の力を失ってからは、かってのそれではなくなっていた。ゲドは人々から情報を集め、かって魔法使いだった老婆のもとを訪れる。そしてアカレンという彼女の名前をとりあげ、新しい名前を与えた。新しい人生を与えたのだ。
新たな旅の供が加わった。ソプリ、ローバネリーの染め師、かってアカレンだった女の息子。彼がゲドの耳に囁いた、彼が見た夢こそ、ゲドの求める地であった。死を克服した王を求め、ソプリは旅に同道したいと語るのだった。
新たな旅の仲間が増え、アレンの心は揺れ始めた。本当に、ゲドを信頼してしまってよかったのだろうか。水も食料も尽きていこうとするのに、決して魔法を使おうとしない魔法使い。水の補給をするためにオブホルという島に立ち寄ろうとしたとき、島から槍が投げられた。槍はゲドの肩を刺し、ゲドは倒れる。逃げるソプリは、海に飛び込みその姿を消した。オブホルから逃げ、何もない海の上を船を進めるアレン。傷つき倒れたゲドに何の感情も抱かぬまま、しかし残されたわずかな水はゲドのものであると、手をつけようとしないアレン。
そんな彼らを救ったのはいかだ族の人々であった。外海の子と呼ばれる彼らは、年に一度大砂丘でいかだを修理する以外、いかだに乗って海の上で暮らす人々である。いかだ族の人々とともに過ごし、傷ついた身体を癒すゲド。アレンは、いかだ族に救われるまでの航海でゲドのことを疑い、信頼を裏切ったことを告白する。死の恐怖から逃れたかったと述べる。そんなアレンにゲドは、彼の真の名レバネンと呼びかけ、まだ17歳という若さのなかでときに絶望に打ち負かされてしまうのも仕方のないことであり、そして今だ信頼に足る力を持つことを告げる。そして死はすべての人間に訪れる天から授かった贈り物であり、決してそれを否定するものではない。喜怒哀楽の情を放棄し、生を拒否することで、死を拒否することは誤りであることを説く。
はしご族の祭の夜、異変は起こった。はしご族の吟遊詩人が、歌の途中でどういうわけかうたえなくなってしまったのだ。アレンが歌い、その場をしないだところに、ゲドを求めて竜が現れた。オーム・エンバー、セリダーの竜で、エレス・アクベを殺し、自らもエレス・アクベに殺された竜、オームの血をひく竜。オーム・エンバーの求めに従い、はしご族と別れ旅を進めるゲドとアレン。
一方、大賢人がいなくなったロークでも、徐々に魔法の力が弱まる兆候が見え始めていた。姿かえの長の覗く水晶は曇り、呼び出しの長は呪文をかけようとした姿のまま斃れ、あるいは詩の長は、授業の途中、教えていた歌の意味がわからなくなっていた。
旅を続けるゲドとアレンは共食いする竜の姿を見かける。人間より先に言葉を獲得し、どんな生き物よりも遠い昔から生きてきている彼らが、もはや物言わぬけだものたちと同じになってしまっていることに驚き、嘆くゲド。そして、カレシンの城で、オーム・エンバーより捜し求める男を見つけるためにはセリダーに行かなければならないことを聞く。そしてまたオーム・エンバーは、世の中のありとあらゆるもの道理が失われ、このままでは言葉も失せ、死もまたなくなるだろうとゲドに語る。
かくしてゲドとアレンはセリダーに辿り着く。そこに待っていたものは・・・。
そしてゲドとアレンとはその男を追い黄泉の国へ向かって行く。
最後の力を振り絞りゲドはクモと戦い打ち負かし、この世界に不均衡をもたらす穴たる扉を閉めることに成功した。力尽きたゲドを抱き上げ、アレンは暗闇の道を進む。故郷に帰るために。
伝説の竜、カレシンの背に乗り、戻るゲド、そして若き王。かくして、すべては終わり、予言は果たされるであった。


我ながら、ゲド戦記のあらすじをまとめようなどということは、なんて無謀なことだったのだろうと自覚せざるをえなかった。特ににこの「さいはての島へ」は示唆に富む描写が多く、多様な解釈を許す。簡単に言えば、難解な作品であり、それをできるだけ独断に解釈することなくまとめようと思ったのだが、これは完全な失敗。できるだけ、旅した場所、名前を残そうとすること自体が間違いだった。ぼくがまとめたあらすじで作品を伝えられたとは思っていない。しかしこの一見、無駄な作業も、既読の人にとっては、忘れかけた記憶を呼び起こす手助けにはなるのではないだろうか。そう信じてたい。そういう意味で、自分のための備忘録以外に、誰かにとってほんの少しでも役に立つならば徒労とも思える作業を行なった甲斐もあるのではないだろうか。いや、ただの自己満足と云われればそれまでなのだが、。


本作の語る運命は、王たる運命を担うアレンのそれ。ただ闇雲に己の正義を振りかざすことではなく、自分の行動が与える影響をよく考えた上で行動しなければならいということ。アレンが掴み取る運命は、勧善懲悪な二元論では収まらない。そのことを深く考えさせれる一冊。
この作品でアレンは、王の子という与えられる運命をただ受け入れるのではなく、たったひとりの裸の自分という存在(=自己)を認識した上で、初めて王たるものを意識し、王権を担うという運命をその手で掴み取らなければいけない。古くからの王家の血をひくことを、例えば簡単に捨ててしまう物語が現代にありふれるなかで、しかし、そういうものを守り、意識するということも必要であるということをこの作品では語る。そして、またこれはアレンの成長譚。旅を通じ、少年は大人になっていく。
あるいはこの作品の根元のテーマが「生と死」にあることは言うまでもない。不死を求めること、あるいは死者を呼び戻すことの危険を語る。限りある生、死が必ず最後は待つが故に、その生を全うし、価値ある生き方にしなければならない。いまさら、ぼくがこのレビューで語ることでもないのだろうが。
この作品について語りたいことは幾らでもあるが、とりあえず今回はあらすじで力尽きた。そういうことにしておこう。


[参考] ゲド戦記初期三部作、他の作品のレビュー
影との戦い-ゲド戦記1-」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/22618662.html ]
こわれた腕環-ゲド戦記2-」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/35407718.html ]