凍りのくじら

凍りのくじら (講談社ノベルス)

凍りのくじら (講談社ノベルス)

「凍りのくじら」辻村深月(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、青春、ドラえもん、ストーカー、ファンタジー、ミステリー


この小説の分類は何なるのだろう?少しネタバレかもしれないが叙述ミステリーともいえなくないし、あるいはファンタジーともいえるし、SF?はちょっと無理か。これはやはり青春小説。本当の意味での自分、そして自分の居場所を求める、揺れ動く少女の青春譚。そういう位置づけでいいのかと思う。


「あなたの描く光はどうしてそんなに強くうつくしいんでしょう。
そういう質問をまま受ける。私の撮る写真についての話しだ。それに対する私の答えは決まっている。暗い海の底や、遙か空の彼方の宇宙を照らす必要があるからだと。」
父の名を継ぎ、二代目芦沢沢光を名乗る25歳の新進気鋭のフォトグラファー理帆子。プロローグは、そんな彼女に対するファッション誌記者のインタビューで始まる。
そして本編、高校時代の彼女の生活と彼女のまわりで起こる事件を描く。多感な少女の頑なな生き方、そして揺れ動く気持ちが主人公のモノローグで綴られる。そして、迎える衝撃の真実。少女は幾つかの事件を通し、成長していく。頑なな殻を破るように、ひとりの人間として。そしてプロローグに呼応するエピローグ。
「〜そこにいる人々を照らし、息ができるようにする。それを見た人間に生きていくための居場所を与える。〜同じ光を世界に届けたいから、私は写真を撮っている」


うわっ。やられた。 途中でそこに気がついていたのに、そういうオチか。久々に作者のトリックに唸らされました。
ネットでよくお邪魔する本読み人の読書blogでしばし見かけたタイトル、ふと気がつくと図書館の書架に並んでいたので借りてみた。講談社NOVELSって、なんとなく青臭いミステリーという印象で(褒め言葉です)、ここ暫く遠かったのですが、やられました。多少、冗長の感は否めないものの、その年頃にある、少し頭でっかちな、自己意識の強い若い女の子をとても巧く表現した小説。藤子・F・不二雄へのオマージュというより、完全にドラえもんへのオマージュですね、も利いている。
最後のほうは、お約束とわかっていても、ちょっと涙ぐんだりしました。彼女は彼女の身の回りで起こった二つの事件を通して成長したはずです。青春小説バンザイ!


読書好きで誰とも合わせられる理帆子は、結局、本当の意味で誰の顔も見ていない。だから誰とも合わせることができるのだろう。自分が一度そのひとに感じたイメージでレッテルを貼る。そしてレッテルを通しひとを見る。藤子・F・不二雄が語ったという「ぼくのいうSFとはサイエンスフィクションのそれではなくすこし不思議」という言葉を借りて、人を自分であてはめた言葉で規定する「すこし不揃い」「すこしファイティング」「すこしフリー」「「すこし憤慨」「すこし不安」など。そして理帆子自身は自分のことを「すこし不在」とする。場の当事者になることが絶対になく、どこにいてもそこを自分の居場所だと思えない。それはとても息苦しい性質、だと。
この言葉遊びは理帆子という少女を描くうえで、とても巧いやり方だと思った。そして、この言葉遊びに孕む問題もまた巧い。「すこし」という形容詞をつけることで、イメージを確固として規定とするわけでなく、ふわふわと浮遊する、あくまでもその人のイメージに過ぎないと言い訳をしているような点。「当事者にならない」と理帆子自身が語るとおり、それは遠くからその人の外観を見ているだけのもの。理帆子のその、人に深く関わることを避ける性格は、実際には多くの青春期の人々に、いや普通の人々も含め、現代の多くの人に当てはまる真実なのかもしれない。そして、それは誰にも本当の意味で交われない孤独。
身近に居すぎる母親にしても、理帆子にはただの吝嗇家にしか見えない。そしてレッテルを貼る。読者も、理帆子を通し、とおり一編に彼女の母親をイメージする。しかし、それがミスマッチ、違和感であることに読者は居心地の悪さを感じる。理帆子のレッテルどおりの母親ならば、とても理帆子の父親である芹沢光の写真集のプロデュースをずっと行なってきたという事実が似合わない。そう、すべては頑なな殻に閉じこもる少女の思いこみの物語。
それが故にエピローグで、この事件を通じ深く結び合った、彼が理帆子にあてはめる「SF」は活きる。Sは「すこし」だけの頭文字じゃない、ほかにも使えるんだ。そして彼が使った言葉こそ、理帆子が殻を破り、人と関わっていることを象徴しているようにぼくは思えた。


主人公のモノローグに騙されているけど、ファザコンのすごく嫌な女の子。実はそんな話し。だからこそ、彼女は別所あきらという不思議な少年に誘われて、成長する必要があった。それは、ほかの誰でもない「別所あきら」でなければいけなかった。そういう仕組みとしての物語には唸らされ、また青春の成長という点で評価をしたい。
しかし、決して手放しで褒める小説ではない。ドラえもんの道具をモチーフにした章立ては、それぞれを読めば巧いのだけど、全体を見れば冗長の感は否めない。ストーカーもどきの彼は、結局道化に過ぎず、救われるわけではない。それでも、読んでよかったと思える一冊であった。


蛇足:標題と装丁がとてもお洒落で惹かれるものの、この作品の本質としてはどうなのだろう?凍りのくじらが救われてないのが、気がかりです。深読みすれば、くじらは救われなかったけれど、凍りのくじらにイメージされた理帆子のまわりにあった氷の壁(殻)は溶かされたということなのだろうか、。


[言い訳]今回、ちょっと「あらすじ」抜きでレビューしてみます。もしかしたら、後日、追記するかもしれませんが・・。