盗作−上−

盗作(上)

盗作(上)

「盗作−上−」飯田譲治梓河人(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、芸術、盗作、創造、娯楽小説


「NIGHT HED」「アナザヘブン」のコンビだそうだが、ごめん名前だけしか知らない。タイトルがおもしろそうだという理由だけで図書館の新刊リストから予約をいれてみた。上下巻二巻組み。活字の大きさ、ページ数からすると無理すれば一冊にまとめられそう。この作品にも少しでてくる芸術家を主人公にした「アナン」(未読)という作品と関連があるのかな?


二冊でひとつの物語を、その上巻だけで判断できないのは自明の理。しかし、下巻への期待を込めて、そして帯にある「面白さが、どうしよう、止まらない!」は決して間違いじゃないという面白さに、少し甘めに☆四つ。
上巻読了までには残念ながら「深み」を感じることはできず、またどこかで見たような主人公たちの設定、ありがちな展開に多少の冗長さを覚えるものの、続きが読みたい、すぐ読みたいと思わせる勢いはある。おもしろいTVドラマのよう。さて、これを下巻でどうまとめるか。エンターティメントで終わるか、それとも化けるか。どきどき、わくわく。
でも、きっとエンターティメントなんだろうな。


田舎の平凡な女子高校生、越谷彩子はある日突然、芸術の啓示、熱情を受けた。突き動かされるように一晩をかけ描きあげた一枚の絵。彼女の今までを知ればとてもそのような作品を描く技術を持ち合わせていない。
その絵は見るものの心を奪い、感嘆させずにはいられない本物の力を持ったものだった。最初にその絵を見て心奪われたのは、芸術に疎い彩子の両親、あるいは彩子の家が経営する鄙びた旅館にたまたま宿泊していた親子連れの客、それは幼い子どもの感動さえ呼び起こした。そして彩子の幼馴染の友人たち。彼らに促され、美術教師に見てもらおうとその絵を学校に持っていた。たまたま訪れていた美術教師の友人である美術評論家の目にその絵はとまった。「天才だ」。そしてその絵は現代の天才芸術家の目にとまり、その芸術家の名を冠した賞の大賞に選ばれようとした。そのとき盗作疑惑が持ち上がった。ジャンルの違う若きモザイク作家の未公開の作品、しかしひそかにインターネットで掲示されていた作品とそっくり。盗作騒ぎに翻弄される彩子の一家。パソコンの電源ひとつまともにいれられない彩子が、インターネットでしか見ることのできない作品の盗作なんてできる訳がない。しかし、彩子の弟、聾児だが聡明なカヅキが、そのHPを見ていたのだ。
ひとりの平凡な女子高校生と彼女の描いた絵を巡る、彼女の家族、美貌の幼馴染の友人北村ミチ、同じく幼馴染で高級鮮魚店のバカ息子、原友太郎、彼らの同級生であり芸術家を志す川井紫苑の物語。
五年後。故郷である田舎町を離れ、東京でOLをする彩子。幼馴染のミチも東京に出てきてタレントを目指す日々。そんなある日、彩子にまた啓示が訪れた。それは「歌」のかたちをとって。彩子にとって、生み出される作品より、生み出す際の狂おしいまでの陶酔感が嬉しかった。幸せだった。
できあがった作品と同じような作品がないか。ミチの紹介で、音楽家であるマリムラ圭一と鞍馬に作品を調べてもらいに鞍馬のスタジオを訪れるミチ。その場所にはマリムラが山奥から拾ってきた心を病んだ天才歌手、森本桜がいた。彩子の作った歌に言葉をなくし、ひきこまれる面々。そして桜が彩子の歌い始めた。彩子をもさえ襲う激しい感動。そして、西乃サイの偽名で発表された彩子の歌はまたもや人々の感動を呼び、ミリオンセラーとなる。
一方、彩子の高校の同級生で、彩子の盗作騒ぎのきっかけとなった事実を見つけた美術家を目指す紫苑は、アルバイト先の画廊でひとつの作品と出会い感動を覚えていた、勝俣公也という新人の「快」という作品。ささいな出来事をきっかけに、勝俣と知り合い紫苑。そして「快」の三部作を見せてもらい深い感動を覚える。そんな紫苑のもとへ一本の電話がはいった。いいから、この曲を聞いて・・・。なぜ、また私なの?


このおもしろさは「チョコレートコスモス」(恩田陸)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/33555892.html ]に似ている。小説に書かれた感動を呼ぶ絵画、歌、演じる者。読者は小説を読みながらそのコト、モノに共感する。そこでは共感を呼ぶ描写が生きていなければ、まったくの失敗作となる。本作において、二番目の歌はともかく、絵に関する記述はうまいのではないかと思った。いままで絵画に感動を覚えることもなかった市井の人々が、その絵を見ることで感動を覚える。絵画がわからないという自らのコンプレックス(劣等感)に解放されるものいる。実はぼくも絵画のよさがわからない朴念仁。この描写には唸った。この作品に書かれるような、自然と心震える絵画に出会いたいと心底思った。ぼくも劣等感から解放されたい。絵画ってホントわからない人多いと思う。
ただ、この最初の絵画の盗作騒ぎの際、インターネットでしか掲載されていない天才作家と名を馳せた若き作家の作品、元絵(モザイク)について、はじめのうち誰も気づかないというのはどうなんだろうか?同じ構図、同じような作品であっても感動を呼ぶ力に足りなかったのでは?とか、天才少年だったんだからちょっとジャンル違っても誰も気づかないなんてありえるのか、とか読んでいて思ったのだが、どうなんだろう。
後者はともかく、後から出てきた作品のほうに感動を呼ぶ力があったとしても、同じ構図、色使いであったならば、盗作は盗作なのだろうか?それが仮に盗作でないにしても、評価は下がるものなのだろうか?
芸術に疎い、市井の人を心震えさせ、自然に感動を呼び起こしたということの価値はどこに行くのだろう。この辺りが下巻で語られることを期待したい。できれば、化けてほしいなぁ。


蛇足:それでも歌はときどき心震える。すげぇと背中に寒気が走るような。心震えた一番の記憶は島田歌穂、「レ・ミゼラブル」の初演のときって20年前か。いっときコンサートも足繁く通ったもの(笑)。