盗作−下−

盗作(下)

盗作(下)

「盗作−下−」飯田譲治梓河人(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、芸術、盗作、創造、スピリチュアル


詳細なあらすじ、そしてネタバレあり!未読者は注意願います。


というわけで「盗作」、上巻[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/36835066.html ]に続き、下巻のレビュー。
ネットを探してみてもあまり取り上げられていない本作品。数少ないレビューを見ても賛否両論。確かに出来すぎの感は否めない。また途中サイキック的な話に流れそうになったときは、そっちの話しかと少し鼻白んだのも事実。主人公が三回目に啓示を受けて書く小説のあらすじにもあまり感心しない。
と欠点を挙げ連ねてみたが、その実とても高く評価したい作品。これは「化けた」といってもよい。帯にある『「オリジナル」と「盗作」という概念に疑問符を投げかける』ことを深く考えるための作品ではない。主人公と、彼女の生んだ作品をとりまく事件、そしてそれらの作品の盗作の告発者となってしまった同級生であり、芸術家の物語として評価したい。主人公の書いた小説にインスピレーションを覚え、スペインの自宅の、壁といわず天井といわずに絵を描き続けた芸術家の姿。そして数十年ぶりの本当の和解。芸術の啓示を形にすること、そして自分を貫いたが故に別離せざるをえなかった人との再会の物語もまた心温まる。もちろん、本来のテーマである「啓示」を受けた結果として芸術「作品」を創ることが書けていればこそ、これらの物語も生きる。しかし残念ながら、この作品ではそのことにあまり捉われてはいけない。この作品で、そこに捉われると違和感を感じずにはいられない。これらは本当に「芸術」作品なのか?一枚の絵画、一篇の歌であればまだしも、エピローグで語られる小説の一字一句が啓示どおりというのはどうなのかとか突っ込みはじめたらキリがない。
それでも、それらをも含め、ぼくはこの作品はおもしろく思った。ありがちなトレンディードラマよろしい作品で終わるかと思えば、主人公の一代記にまで広がる物語。ノーベル賞はやりすぎにしても、日本を離れ、世界に広がる共有作品。人が生むモノが国境や人種を越え感動を呼ぶ物語。
ならば、やはり三番目の啓示は、歌や、絵画、ダンスといったもっとシンプルで根源なものであって欲しかった。
好き勝手に述べてみたが、たぶんこの読み方はかなり特殊な読み方。あまり受け入れられない読み方かもしれない(苦笑)。


しかし主人公が、こういう作品にありがちな、いつまでも若々しく美しい女性じゃないのが珍しいというか、正直、違和感を覚えた。小説を書いている間、飲まず食わず、適度に痩せたという記述があり、少し期待したものの、最後はただの中年太りのおばさんというのは娯楽作品としていかがなもんなのだろう。もともとこの主人公は、女優になった友人や、美貌の芸術家の女性と比べて、目立たない普通の娘という設定なのだけれど、この作品を生んだという事実をして綺麗になってもよいのではないかと、それは小説にありがちな内面から発するあれで構わない。


彩子の作った歌には、やはり同じ歌があった。遠くオーストラリアのアボリジニの男性歌手が歌っていたのだ。CDを出さない主義なので、暫く誰も気づかなかった。またもやの盗作騒ぎに翻弄される彩子。その頃彩子がつきあっていた、矢ノ原というミュージシャンに連れられ不思議な能力を持つ老人のもとを訪れる彩子。老人は彩子に告げる。あなたは無垢なスペース、柵のない世界、そこにはどんなものが流れ込んできてもおかしくない。そして彩子に流れ込んできた意志が、作品を創ってきたのだ。それはミュージシャンである矢ノ原とは違うもの。老人に言わせれば、矢ノ原は特別なある意識とつながっているが、彩子の場合は何ものともつながっていないということになる。それは、彩子の才能を信じつきあってきた矢ノ原にとって、求めた結論とは違うものであった。彩子を置き、去っていく矢ノ原。
一連の騒ぎで会社を辞める彩子。マンションのベランダからぼんやりと身をのりだしていた彩子を救ったのは、もと同じ会社ですこしつきあっていたことのある佐伯。実際的な彼の、機敏で冷静な行動が彩子を救った。そして佐伯は、彩子にプロポーズをする、海外赴任の辞令が出た、一緒にロサンゼルスへ行かないか?
ロサンゼルスで幸せな結婚生活を送る彩子。双子の男の子と、女の子にも恵まれた。そんなある日、彩子は高校のときの盗作事件のオリジナル「天を走る」を創作したモザイクアーティスト、原野アナンの作品展が行われることを知った。会場であるダウンタウンの廃ビルへ足を運ぶ彩子だが、会期を間違え一日早く来てしまった。しかしそこには、いるはずのないアナンの姿があった。作品を見せてもらい胸がいっぱいになる彩子は、アナンが「天を走る」を手にしていることに気づく。アナンは云う、あなたがこの作品をここに呼んだのだ。一連の事件を語る彩子に、アナンは「天を走る」を手渡し、運命に立ち向かい、創作することを告げる。
それから五年が過ぎようとした、50歳に近くなった彩子はまたもやそれを感じた。今度は言葉、小説であった。実際家で、スピリチュアルなものを信じようとしない夫を振り切り、家を出、ホテルに籠り小説を書き続ける彩子。
家を出てからニケ月が過ぎていた。小説は残されたが、夫は去っていった。
「大いなる幻想」彩子の書いた小説は、封印されるはずであったが、あるきっかけで覆面作家の作品として発表された。そしてノーベル文学賞受賞者の手を経て、ある大手出版社の編集者の目にとまった。またもや熱狂的に受け入れられる彩子の作品。しかも今度はアメリカ一国にとどまらず、海を越え、世界各地で絶賛を持って受け入れられた。そして心配していた類似の作品に関する話は一切出てこなかった。
念願の芸術家となり、遠くスペインの地で陶芸家の恋人と暮らす紫苑は「大いなる幻想」を読んでいた。そしてその小説から誘発され、自宅の壁から天井に至るまで絵を描き連ねた。その絵は恋人の陶芸家をして、ピカソを初めてみたとき以来の衝撃を生んだ。そして、全ての絵を描き終えた紫苑は「大いなる幻想」の作家の正体を知った。
舞台はスウェーデンノーベル賞受賞式に移る。「大いなる幻想」一作しか発表していない彩子がノーベル文学賞の受賞者となった。彩子は今度こそ盗作と言われることのない、一番最初の啓示を受けたのだ。
彩子と紫苑は数十年のときを経て作品を通じ和解をする。そしてひとりスペインの僻地のホテルで過ごす彩子は、もうひとりの大事な人と再会し、和解するのであった。
こうして彩子の物語は終わる。しかし、別の場所、別のときに彩子と同じように啓示を受ける者がこの世に生まれてくるはずだ。そして・・。


追記:一晩経ってみると、違和感が拭えない、大きくなっていることに気づいた。昨夜は、作品の勢いにやられていたかもしれない。人が生む「作品」は、啓示そのままを表出しても、それは創作ではない。それでは預言にしか過ぎない。百歩譲って、絵画や音楽であれば預言であっても構わないのかもしれない。しかし、主人公が最後に、そして最初のオリジナルとなった「作品」が、小説というのは、やはり違和感を覚えずにはいられない。さらに勝手を言えば、二番目の歌をもっと膨らませ、創作者である主人公と、表現者である歌い手の桜を絡ませた物語のほうが納得性が高かったのではないだろうか。読者はまたもや、勝手なことを言う。(2006.6.28)

蛇足:この作品を読んでいて、なぜか、おもしろかったという記憶しか残っていない「リプレイ」(ケン・グリムウッド)という作品(のタイトル)、そしてなぜかマンガ、大学時代から読み続けている「パーム・シリーズ」(獸木野生伸たまき))を思い起こした。うねるように繋がる人の想い、人の命、それは大いなる意志としての連なりといったところか?その大いなる意志とは「沼地のある森を抜けて」(梨木香歩)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/25382618.html ]の描いた、生物の持つその種を残そうとする大いなる意志とは違う、人としてのものだと思う。